goo blog サービス終了のお知らせ 

貨幣

よもやま話

「第193回、博文偲ぶ。その良き師、来原良蔵を想うの巻」

2013-08-20 18:29:14 | Weblog
  ○日銀券C号伊藤博文1000円札を眺めると彼の恩師の来原良蔵想い出す。

  ●8月23日、このブログ推敲し終る。資料少なかったが満足出来ました。

   伊藤博文(若いは、利助稱した)父親の十蔵に宛てた文。

 『一筆致啓上候。暖気の砌に御座候得共皆々様御堅勝被成御座、珍賀不斜
 御儀に奉存候。爰元私儀、都合無別条所勤仕候間、乍憚御休息思召被遺候
 将又当秋は交泰代帰国仕候間、宜敷様御執 奉願上候。私儀も此節は、御
 友頭 来原良蔵様、書物教呉候様思召 此節別精出し申候~』後略

  江戸滞在中。安政四年四月七日。十六歳の利助が書いた物、読み下すと
  「暖かくなって参りましたが皆々様御健勝と拝します。私もつつがなく勤めて
 居りますので御安心下さい当秋に交替で帰国出来ましょう。御頭の来原良蔵
 様の御書物で種々御教授頂き精を出し学んで居ります」~後略

  想像、父の十蔵は足軽で多分文盲、旦那寺の住職か懇意な上士にでも読解
 して貰ったろう倅が来原良蔵に庇護されている事を知り喜ぶ姿想像出来る。
  藩校の眀倫舘は藩士・郷士・冨商の子息入れるが低い身分の足軽・小者は
 駄目である。十一歳法光院で雑用をこなし読み書き習う。十三歳で久保五郎
 左衛門の私塾に通う、60~70人中で成積良い。風の噂で来原に聞こえたのか
 も知れぬ。十四歳、長州藩の軽卒組の“手つき”(下男)に採用された。
  安政三年。長州藩相州警備の三崎陣屋の出役となる「江戸に近い」と喜ぶ。

  安政四年。上役の交替で、新しく陣屋に来た来原良蔵の配下となった。
   この警備小屋に選抜され八人の手付きが居た。利助の日頃の言動注目し
 天賦の資質を抜いたか、ニ月の関東の浜風荒ぶ小屋に馬に乗り提灯を携え
 午前四時頃になると熟睡してる利助を小脇に抱え自分の小屋に連れて来て
 蝋燭のか細い光りの許で、中国古典、武士たる心構え、兵法等を教授した。
  「寒い」と利助「寒いと言うて寒気緩むもので無いから初めから謂わぬべし」
 来原は自らも草履を履かずに二人で山野を走り辛抱、愚痴、弱音を戒める。
 文武優れた来原は帰藩命じられ離れ去るを得ず利助を松下村塾に入れる。

  足軽故、遠慮しながら一ケ年程多感な時期を塾の末席で講義を聞いた。
  高杉晋作が村塾にやって来た頃塾生増え、近所に古家が売りに出てると
 吉田栄太郎(後の稔麿)が聞いてきた。六坪余で畳敷けば十畳余になる。
  古畳買うのに塾生、一人三文出し合うが、品川弥二郎貧しく免除して貰う。
  松陰程の仁者でも依怙贔屓し、久坂玄瑞の才愛で、高杉の学殖褒めている。
  弟子を叱らず共に学ぶ姿勢を取り美点を伸ばした“この生は、伊藤利助と
 稱する者なり、胥徒(小役人)の末役なれど、反って好んで吾が徒に従いて
 遊ぶ。才劣り、学おさなきも、質直にして華為し。僕、頗るこれを愛す”九州
 の同志に使いに出す際の紹介文“利介亦進む、なかなかの周旋家(政治家)
 になりそうな”久坂が他郷にある時近況知らせたが未来を予言してる。
  俊輔と名を替える。安政六年小五郎の手附となり江戸詰となった。

  松陰、幕府に反撥、老中暗殺企し実際は冤罪で遠島程度だ、安政の大獄
 の煽りで再び野山獄収容されその後。安政六年十月二十七日江戸伝間町の
 獄廷で斬刑、刑死の日。長州藩藩医飯田正伯が獄吏、獄卒に死体の引渡し
 を懇願し賄賂渡した。明後二十九日小塚原の回向院で内々渡すと言う。
 当日早朝、飯田、尾寺新之丞、桂小五郎、伊藤俊輔に人夫が四斗樽渡す。
 飯田が黒羽二重下着、桂は襦袢、伊藤は帯を解き着せて墓を堀り埋めた。
 数日後石碑建て“身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂”
 と刻んだ。

  松陰と来原、宮部鼎蔵の事で秘話がある。安政元年。ペリー、来航時松陰
 七人の親友に「米国軍艦に投じる、今生の別れ」料亭で酒代は持つと言う。
  此の為に多少金策したかと皆訝る末座の主は蓬髪、羽織・着物貧しい。
  
  宮部は「狂ったか」と反対する。鼎蔵は一座で最年長だ。後に浪士集めて
 京都占拠計画し新選組に襲われ闘死する無鉄砲さで熊本藩浪士で著名な
 松田重助も討死、長州藩士吉田稔麿は深手を負い、援軍求め200m離れた
 藩邸に戻るも開門拒否され自害、藩は会津他五藩捕縛陣に遠慮した様だ。
  当夜。桂小五郎も参加してるが辛くも脱出その後の逃避行は有名である。
 藩ではこの騒動通達後藩士連は激。禁門の変に発展し破れ辛酸味わう。

  来原はその宮部を説得、結局渋々宮部は頷くしかない。

  「丈夫見ル所有り 決意シテ之ヲ為ス 冨岳崩ルルト雖モ 刀水竭ルルト
  雖モ 亦誰カ之ヲ移シ易ヘンヤ」松陰膝を打って硯を寄せ懐紙に書いた。
  読み下すと「誰が何と言っても男子が一旦決意したからは富士山が崩れ
 利根川が枯れるような大異変があろうとも志は変えぬ」である。

  松陰この場で出発する積りだったが金子(密航計画の際、同行の弟子)
 仕度がまだ整っていないので下宿に戻る。当夜参会した連中、再度見送り
 に来た。長州人一人も居ない熊本人のみ「長州人の異なる気風」と鼎蔵。
  佐々淳次郎「餞別だ」五両を彼の懐中に入れ己の羽織を着せた。当時
 一両で一石買え約六ヶ月以上食える。書生の身分なら大金。永島三平は
 世界地図。鼎蔵は宮部家伝来の大刀を与え松陰の貧相な大刀と交換。
  結果は皆御存じの通リで下田で決行米人から拒否され自首、やがて藩に
 送られ萩城下野山獄に入る、安政元年十月二十四日。藩は幕府を懼れ
 憐れ金子、護送中、百姓同然の虚弱な彼は衰弱着衣汚れ放置され綿入
 を脱ぎ松陰与え襦袢のみ金子は号泣受け取らぬ狼狽官給綿入れ与えた。
 松陰ショックを余程受けか全身膿み咳止まらぬ弟子案じたが肺炎で急逝。
  人間的松陰の一面。金子の回顧文書き獄の食費減らし墓の費用生む。

  桂小五郎は、維新後迄生き残り薩摩の西郷、大久保と共に三元勲だ。
  松陰より三歳年下で、萩城下の藩医の家に生まれ禄は二十石である。
  七歳で隣家の桂家養子になり、養父母他界、家禄百五十石から九十石を
 相続し裕福に育つ。江戸で斎藤弥九郎道場の塾頭務め仲間で名士、元来
 松陰は剣術つかいを嫌う。桂は松陰の門人の礼を尽くすが弟子では無い。

  本題に戻ります。来原良蔵は安政三年十月、桂小五郎の妹ハルと結婚
 師の良蔵急逝した翌年(文久三年)三月。伊藤俊輔は長州藩士となった。
 其れまで良蔵の「育」だ、禄も身分も無いが侍の格好出来他藩には藩士と
 して対応出来た、どれ程彼は助かった知れぬ。良蔵は血気にはやり、横浜
 で外人を殺害しようとして、毛利定広をはらはらさせたり。他にも藩内政争
 捲き込ま江戸藩邸で切腹す。義兄は木戸孝允と改名。良蔵の次男正二郎
 を養子にし欧米留学させたが航海中病死。長男孝正を娘好子と結ばせる。
  良蔵を如何に好遇して居たか解る。孝正は立派に義父の孝允に報いた。

  俊輔は良蔵遺髪を萩に持ち帰りハルに渡し号泣且つ嘆じ師を偲んだ。

  千住の松陰の墓は幕府が破壊した。文久三年、晋作、俊輔等が世田谷
 若林村に松陰神社を建てた。伊藤博文は来原良蔵の墓も同神社に立て、
「松永義烈居士」と刻し従四位贈り師を讃えた、今日も香華絶える事無い。
 
  この辺で終ります。御覧下さり感謝。
   

  
 

  
  

   
















  

  
   

   
  

  
  
  
  
    
   
   
  
 
    
  

 
  
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。