( 壁は崩ちるべし! )
ベルリンに来ないでドイツに来たとは言えない・・と誰かが言った
とか?
僕はベルリンへ行った ヒッチハイクで
地図には旧東ドイツ国内も アウトバーンがベルリンまで載っていた
ところが 途中に郊外の普通の道路もあった 四つ角の信号もあった
行きに乗せてくれた人のことは ほとんど記憶にない
帰りの「あ~ぁ またか~」のオジサン の印象が強烈過ぎたせいか
東ベルリンも歩き あのポツダム市に一泊 など一週間の滞在だった
DJH Heidelberg
'75年から3ヶ月づつ位 4回はこのユースホステルで働いた
労働許可は受けてなかったが、当時のドイツでユースホステルでの労働は
社会奉仕のひとつだったらしい (?)
他に 病院、老人ホーム、孤児院などでも 審査を受け 少ない報酬で働けば
兵役義務が免除されるという そういうドイツの若者も何人か働いていた
だから(?) 多い時で 8カ国のバックパッカーが共にはたらけた
ドイツ語が主で あとは 英・仏・中・日 などの言葉が入り混ざってた
語学の勉強には いい環境だったのに・なぁ・・・・・
食後のひととき
<BASEL駅から街中への地下道>
“バーゼル” スイスの独、仏に接する国境の都市
この街の駅からの地下道で よく針金細工を売った 食事は駅のImbiss?
という 立ち喰いレストラン で時々食べた
ある日の食事中 見知らぬ三十位の男性が近くでこちらを向いてニコニコしていた
「ア~またかな~」と思った 用心のために時々見た
彼はビールを飲んでいたが 微笑みにウインクが加わった
とりあえず食事を急いだ ウインクにキッスのような唇を交えてきたので
少し残ってはいたが 急いで店を出た
4年弱のヨーロッパ滞在の間 公の場でも男性には何回か誘われた
女性には一回だけ・・・・・も なかった (公の場では)
ヨーロッパで初めての仕事は ドイツ南部ミッテンヴァルトのユースホステルだった
2度目に働いた時 '74年ドイツワールドカップが 同じ州ミュンヘンであったから大変
予選リーグでは 当時ふたつの国だった東西ドイツの対戦もあった (東独の勝)
僕はサッカーに興味がなかった ワールドカップは大きな大会だろう位に思ってた
学校からの10代の若者達が100人以上泊まっていたから ドイツの試合の日は
朝から大騒ぎ 試合が始まると食堂のテレビの前に全員あつまり一段と盛り上がり
決勝でオランダを破り ≪優勝≫ またまた大騒ぎ 次の日もその次の日も・・・・・
僕には今でも日本人が言う ベッケンバウアー より
ドイツ人が言う BECKENBAUER のほうが耳にすんなり 何百回も聞いたから
向こうのお城に 日本からの友達と スイス娘と ドイツの若者達と 何回も行った
あの橋を 一人で 二人で 三人で・・・歩いて渡り 持っていた ホンダCB 200 で
何度も走り抜けた
懐かしく 楽しい思い出がいっぱいの街 ハイデルベルグ
同じ頃 上温湯青年はラクダ1頭で サハラ砂漠を横断しようと歩いていた
苦しく厳しい旅 しかし 誇れる旅だったのでは と思う
30年ぶりにこの本を読んだ
21歳の青年がラクダ1頭と共に ただ 広い砂漠を横断しようとするだけ
世の為 人の為 に自分を捧げている人も 素晴らしいと思う
この青年は己の 想い 心 に純粋に従い行動し進んだ そしてサハラで死んだ
彼の 短いが凄くて素晴らしい生き様を 多くの人 特に若者達に知って欲しい
「人生は前進であり、引き返しはないとナンセンは言ったが、失敗したら恐れず、
引き返し、万全の準備を整えて、もう一度前進せよ、それが本当の勇気であり、
前進だ」
・・・この本より引用 今日のブログタイトルも・・・
針金細工の路上販売拠点をスイスから北欧へ移すとき 危ないと言われていた
ドイツでちょっとやってみた スイスでは部屋を借りて住んで作り 売っていたが
警察が怖いドイツではリユックサックを横に置いて 『旅行者』 を強調した
実際ユースホステル泊で 4・5日しかやってなくそんなには売れんやった
売れなかった事より ドイツで警察沙汰にならなくて ヨ カ ッ タ ~ !
ドイツはミュンヘンの南 国境の町ミッテンウ゛ァルトのユースホステルで働きましたが
この町はドイツの最高峰 ツークシュピッツェの近くであることで知られてます ・・・?
もうひとつ有名なのは バイオリン製作学校があることです (今でも有ると思います)
その学校に通う予定の生徒達がユースホステルに1週間位 泊まってた事がありました
(・・・行儀があまり良くはなかったような キ・オ・ク が~・・・・)
<LUZERN > 駅を出ると湖が広がる素敵な美しい町に 10ヶ月位住んでいました
Faestnacht(謝肉祭?)の時 町の人達は思い思いに仮装し楽団のあとについて町をねり歩きました
針金細工売りは色々な法律にも触れるところもあって 僕も何回かパトカーに乗せられました 「署」にもレンコウされましたが最悪の国外退去にはなりませんでした
あの頃、 『ヨーロッパの人達は 「ここに居る日本人にはそんなに悪い人間は居ない」 と思っている』 と 我々は勝手に思ってたようで・・・・・
絵ハガキの中央の Loewen Denkmal (ライオン記念像?)の近くに3ヶ月位住んでいました
はじめは名所だとはまったく知りませんでした
針金でネームをその場で作り販売し 手作りのペンダント等を売りながらスイスの
主にドイツ語圏を1年位歩き回りました スイスは大好きな国ですが色々な町の中でも
ルッツェルンにはたくさんの思い出があり 美しい特別な町でして 忘れられません
アー・ベー・ツェー・デーの半分位までと、グーテンタークなど三つの挨拶と
あとわずかの単語が僕の知ってたドイツ語で ユースホステルでの生活が始まりました
オーナーと奥さんは英語を全く話せず しばらくは勘にたよる事が多かったと思います
学校からの旅行の宿泊に ドイツでは必ずユースホステルを利用してたようでして
しかも1週間くらい滞在してました 長い時は2週間にもなりました
仕事が休み時間になると すぐに生徒達のところへ行き 僕がドイツ語の生徒になりました
日常会話の質問にはみんな喜んで答えてくれましたけど 10歳くらいの先生に
文法のことを聞くとシーンとなったり 先生達で口論になったりしました
あの頃15・6歳だった あの少年少女たち 今頃 孫がいる人もいるかもしれない
「皿洗いの旅」が当時の若者の 長い貧乏旅行の代名詞のようにいわれてました
ドイツではユースホステルで色々な国の若者達が働いているのを見ました
お金の方は良くはありませんが 食・住は大丈夫なので目的に合っていればいい
ところでした
僕は夏冬5ヶ月くらい南ドイツ国境の町 ミッテンヴァルトのユースホステルで働きました
大きな目的のひとつはドイツ語を覚えることでした ヘルマン ヘッセを読めるように
なるために
サハラ砂漠をラクダ1頭で完全横断しようとして 路なかばで命をなくした
上温湯隆さんと砂漠のある村で話をした という人とドイツで会いました
彼の遺された日記は「サハラに死す」という本になっていますが
彼に関する話には強い衝撃を受けました
海外放浪の旅・・・僕の長年の夢が実現してはいましたが「何かが違う」と
思ってました とりあえず自分も行って考えてみよう と
<サハラ砂漠ヒッチハイク ひとり旅> に出ました
「青年は荒野をめざす」を読んでか 言葉に憧れてか
時代が豊かになったからでしょう
70年代多くの若者達が海外へ旅立ちはじめました
高校生のとき アメリカ大陸横断旅行に胸をふくらませてました
HERMANN HESSE に出合ってから
黒い森の放浪 を夢見るようになりドイツに行きました
CALW という彼が生まれた町で生家を訪ねることから
スイス南部ルガーノ湖を望む モンタニョーラ村の墓地にある
彼のお墓にお参りするまでの (ヘッセを偲ぶ旅) で
4年間のヨーロッパの旅・生活が始まりました