京都一の歓楽街木屋町通沿い、三条木屋町東南角にひっそりと佇む瑞泉寺という寺院をご存知でしょうか。ここには、貧農の子から関白、遂には太閤にまで栄達した秀吉により数奇な運命を辿ることになったある男の悲劇のドラマが埋もれています。
以前、瑞泉寺を訪れたことがあります。人通りの多い木屋町から一歩境内に入れば、都会の喧騒からは別世界のような静寂の空間が広がり、悲劇の主人公の運命を象徴するかのような雰囲気を漂わせています。境内の奥に、その男の墓石が今なお悲しげに佇んでいました。男の名は、関白“豊臣孫七郎秀次”。秀吉の甥であり、また大河ドラマ“功名が辻”の主人公、山内一豊が一時期家老として仕えた人物でもあります。
秀次は1568年に生まれ、秀吉の武将としての出世に伴い、その数少ない親戚縁者として重用されていくことになりますが、秀吉嫡子鶴松の死去後、豊臣家の養嗣子、更には関白へと、その人生は更に大きく翻弄され続けることになります。秀吉から関白を禅譲された後、秀吉嫡子秀頼が生まれたことは秀次にとっては決定的な出来事で、血を重んじる戦国時代、実子が生まれた以上、養子である秀次の存在意義は大きく揺らいでしまいます。加えて、秀次は辻斬りなどの嗜好・悪癖を持っていたと噂され、そのため後世に“殺生関白”として記憶されるほど、人間的な資質を疑問視されることになりました。こうして義父秀吉との関係が決定的に悪化した秀次は、その後謀叛の疑いをかけられ高野山に追放、1595年に切腹させられることになります。
ここまでは戦国時代によくある血縁どおしの権力闘争と言えなくもありません。
しかし、秀次には更に悲しいエピソードが残されています。秀次切腹後、その妻妾、子供達など総勢39名が京都三条河原に引き回され処刑されます。秀次とその妻子の亡骸は、そのまま三条河原に埋められ、そこは“秀次悪逆塚”などと呼ばれることになりました。
そう、冒頭の瑞泉寺は、この三条河原を舞台とした秀次と妻子達の亡骸が埋められ、そして今なお眠る場所なのです。時代の経過とともに塚も荒廃し、後に森鴎外“高瀬舟”で有名な高瀬川を開いた角倉了以が塚を修復、寺を建立し供養したと言われています。
“殺生関白”のエピソードは、“敗者の歴史”の性でもありますが、歴史の勝者が作り上げた後日談という可能性も否めず、その真偽のほどは定かではありません。一方で、秀次自身の人間的な資質、武将としての政治力に大きな欠陥があったという可能性も否定できません。但し、秀吉により人生をめまぐるしく翻弄されてきた男、自分で意思を持つ機会も与えられずまるで操り人形のようにしか生きることのできなかった男の末路に思いを致せば、何故か物悲しい気分になってしまいます。秀次を巡るエピソードは政権末期の独裁者秀吉としての最も暗い一面を如実に示す出来事とも言えるでしょう。
豊臣家の人々は皆、太閤秀吉によって、自らの意思に関わらず人生を翻弄され、与えられた栄達と転落の境遇を一挙に辿っていったように思います。秀次にまつわるお話は、功名が辻にも触れられていますが、司馬遼太郎著“豊臣家の人々”が個人的にはお勧めです。全体を覆う物悲しいテイスト、そして凡庸であった一族が数奇な運命に巻き込まれて悲劇的な最後を遂げてしまう。陽のイメージ化が定着した太閤秀吉を巡る裏の叙事詩とも言えるでしょう。
最後に司馬遼太郎“豊臣家の人々”で自害にあたり秀次の発する一節から。
「わしの一生は太閤によって作られた。この死も、同様である」
自己実現が果たせない人間として、アイデンティティを確立できず、ただただ大きな力に飲み込まれて“生かされる”ことしかできなかった人間の悲哀を、そこに見た気がします。。。
以前、瑞泉寺を訪れたことがあります。人通りの多い木屋町から一歩境内に入れば、都会の喧騒からは別世界のような静寂の空間が広がり、悲劇の主人公の運命を象徴するかのような雰囲気を漂わせています。境内の奥に、その男の墓石が今なお悲しげに佇んでいました。男の名は、関白“豊臣孫七郎秀次”。秀吉の甥であり、また大河ドラマ“功名が辻”の主人公、山内一豊が一時期家老として仕えた人物でもあります。
秀次は1568年に生まれ、秀吉の武将としての出世に伴い、その数少ない親戚縁者として重用されていくことになりますが、秀吉嫡子鶴松の死去後、豊臣家の養嗣子、更には関白へと、その人生は更に大きく翻弄され続けることになります。秀吉から関白を禅譲された後、秀吉嫡子秀頼が生まれたことは秀次にとっては決定的な出来事で、血を重んじる戦国時代、実子が生まれた以上、養子である秀次の存在意義は大きく揺らいでしまいます。加えて、秀次は辻斬りなどの嗜好・悪癖を持っていたと噂され、そのため後世に“殺生関白”として記憶されるほど、人間的な資質を疑問視されることになりました。こうして義父秀吉との関係が決定的に悪化した秀次は、その後謀叛の疑いをかけられ高野山に追放、1595年に切腹させられることになります。
ここまでは戦国時代によくある血縁どおしの権力闘争と言えなくもありません。
しかし、秀次には更に悲しいエピソードが残されています。秀次切腹後、その妻妾、子供達など総勢39名が京都三条河原に引き回され処刑されます。秀次とその妻子の亡骸は、そのまま三条河原に埋められ、そこは“秀次悪逆塚”などと呼ばれることになりました。
そう、冒頭の瑞泉寺は、この三条河原を舞台とした秀次と妻子達の亡骸が埋められ、そして今なお眠る場所なのです。時代の経過とともに塚も荒廃し、後に森鴎外“高瀬舟”で有名な高瀬川を開いた角倉了以が塚を修復、寺を建立し供養したと言われています。
“殺生関白”のエピソードは、“敗者の歴史”の性でもありますが、歴史の勝者が作り上げた後日談という可能性も否めず、その真偽のほどは定かではありません。一方で、秀次自身の人間的な資質、武将としての政治力に大きな欠陥があったという可能性も否定できません。但し、秀吉により人生をめまぐるしく翻弄されてきた男、自分で意思を持つ機会も与えられずまるで操り人形のようにしか生きることのできなかった男の末路に思いを致せば、何故か物悲しい気分になってしまいます。秀次を巡るエピソードは政権末期の独裁者秀吉としての最も暗い一面を如実に示す出来事とも言えるでしょう。
豊臣家の人々は皆、太閤秀吉によって、自らの意思に関わらず人生を翻弄され、与えられた栄達と転落の境遇を一挙に辿っていったように思います。秀次にまつわるお話は、功名が辻にも触れられていますが、司馬遼太郎著“豊臣家の人々”が個人的にはお勧めです。全体を覆う物悲しいテイスト、そして凡庸であった一族が数奇な運命に巻き込まれて悲劇的な最後を遂げてしまう。陽のイメージ化が定着した太閤秀吉を巡る裏の叙事詩とも言えるでしょう。
最後に司馬遼太郎“豊臣家の人々”で自害にあたり秀次の発する一節から。
「わしの一生は太閤によって作られた。この死も、同様である」
自己実現が果たせない人間として、アイデンティティを確立できず、ただただ大きな力に飲み込まれて“生かされる”ことしかできなかった人間の悲哀を、そこに見た気がします。。。
「豊臣家の人々」・・・一介の百姓一家が秀吉が天下を取ってしまった事によって別世界に引きずり出されてしまったギャップから起こった悲喜劇ですね。