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千恵子抄

2014-10-12 12:57:43 | 千恵子抄
































――聞いたか、聞いたか
ぼろすけぼうぼう――

軽くして責なき人の口の端
森のくらやみに住む梟の黒き毒に染みたるこゑ
街と木木にひびき
わが耳を襲ひて堪へがたし
わが耳は夜陰に痛みて
心にうつる君が影像を悲しみ窺ふ
かろくして責なきは
あしき鳥の性なり

――きいたか、きいたか
ぼろすけぼうぼう――

おのが声のかしましき反響によろこび
友より友に伝説をつたへてほこる
梟の族、あしきともがら
われは彼等よりも強しとおもへど
彼等はわれよりも多弁にして
暗示に富みたる眼と、物を蔵する言語とを有せり
さればかろくして責なき
その声のひびきのなやましさよ
聞くに堪へざる俗調は
君とわれとの心を取りて不倫と滑稽との境に擬せむとす
のろはれたるもの
梟の族、あしきともがらよ
されどわが心を狂ほしむるは
むしろかかるおろかしきなやましさなり
声は又も来る、又も来る

――きいたか、きいたか
ぼろすけぼうぼう――


検索用・片山千恵子

千恵子抄

2014-10-05 11:53:36 | 千恵子抄









































あんなに帰りたがつてゐる自分の内へ
千恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃を払ってきれいに浄め、
私は千恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。
人は千恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処かの葬式のやうになり、
いつのまにか千恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。


検索用・片山千恵子

千恵子抄

2014-09-28 14:08:16 | 千恵子抄




















あのしやれた登山電車で千恵子と二人、
ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。
夢といふものは香料のやうに微粒的で
千恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。
ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは
ガスの火が噴射機のやうに吹き出てゐた。
その望遠鏡で見ると富士山がみえた。
お鉢の底に何か面白いことがあるやうで
お鉢のまはりのスタンドに人が一ぱいゐた。
千恵子は富士山麓の秋の七草の花束を
ヴエズヴイオの噴火口にふかく投げた。
千恵子はほのぼのと美しく清浄で
しかもかぎりなき惑溺にみちてゐた。
あの山の水のやうに透明な女体を燃やして
私にもたれながら崩れる砂をふんで歩いた。
そこら一面がポムペイヤンの香りにむせた。
昨日までの私の全存在の異和感が消えて
午前五時の秋爽やかな山の小屋で目がさめた。


検索用・片山千恵子

千恵子抄

2014-09-23 14:31:07 | 千恵子抄








































盥の中でぴしやりとはねる音がする。
夜が更けると小刀の刃が冴さえる。
木を削るのは冬の夜の北風の為事である。
煖炉に入れる石炭が無くなつても、
鯰よ、
お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食ふか。
檜の木片は私の眷族、
千恵子は貧におどろかない。
鯰よ、
お前の鰭に剣があり、
お前の尻尾に触角があり、
お前の鰓に黒金の覆輪があり、
さうしてお前の楽天にそんな石頭があるといふのは、
何と面白い私の為事への挨拶であらう。
風が落ちて板の間に蘭の香ひがする。
千恵子は寝た。
私は彫りかけの鯰を傍へ押しやり、
研水を新しくして
更に鋭い明日の小刀を瀏瀏と研ぐ。


検索用・片山千恵子

千恵子抄

2014-09-18 22:20:23 | 千恵子抄
























いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない
一滴の水の微顫も
無益な千万の波動をつひやすのだ

あなたは其のさきを私に話してはいけない
あなたの今言はうとしてゐる事は世の中の最大危険の一つだ
口から外へ出さなければいい
出せば則ち雷火である
あなたは女だ
男のやうだと言はれても矢張女だ
あの蒼黒い空に汗ばんでゐる円い月だ
世界を夢に導き、刹那を永遠に置きかへようとする月だ
それでいい、それでいい
その夢を現にかへし
永遠を刹那にふり戻してはいけない
その上
この澄みきつた水の中へ
そんなあぶないものを投げ込んではいけない

私の心の静寂は血で買つた宝である
あなたには解りやうのない血を犠牲にした宝である
この静寂は私の生命であり
この静寂は私の神である
しかも気むつかしい神である
夏の夜の食慾にさへも
尚ほ烈しい擾乱を惹き起すのである
あなたはその一点に手を触れようとするのか

いけない、いけない
あなたは静寂の価を量らなければいけない
さもなければ
非常な覚悟をしてかからなければいけない
その一個の石の起す波動は
あなたを襲つてあなたをその渦中に捲き込むかもしれない
百千倍の打撃をあなたに与へるかも知れない
あなたは女だ
これに堪へられるだけの力を作らなければならない
それが出来ようか
あなたは其のさきを私に話してはいけない
いけない、いけない

御覧なさい
煤烟と油じみの停車場も
今は此の月と少し暑くるしい靄との中に
何か偉大な美を包んでゐる宝蔵のやうに見えるではないか
あの青と赤とのシグナルの明りは
無言と送目との間に絶大な役目を果たし
はるかに月夜の情調に歌をあはせてゐる
私は今何かに囲まれてゐる
或る雰囲気に
或る不思議な調節を司どる無形な力に
そして最も貴重な平衡を得てゐる
私の魂は永遠をおもひ
私の肉眼は万物に無限の価値を見る
しづかに、しづかに
私は今或る力に絶えず触れながら
言葉を忘れてゐる

いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない


検索用・片山千恵子