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教育ママと僕の人生の話

2022-08-23 11:00:00 | 日記

僕の記憶は、3歳の時に
ひらがなが書けず怒られたことから始まります。




早速ですが、僕は教育ママに育て上げられました。生憎にもお陰様で、現在偏差値65〜70程度の高校に通っています。

僕の両親は県内トップの全国的にも名前の知れた高校で出会いました。母は特に負けず嫌いでしたので、出身校は自身の一種のステータスだったようです。
その結果、生まれた子にも頭良くあってほしいと思ったのでしょう。僕と妹の名前には、「聡明」という意味が含まれた漢字が使われています。

教育生活は僕の3歳時から始まります。まず、幼稚園受験をさせられました。冒頭にもある通り、私の最も古い記憶は、ひらがなが書けずに怒鳴られたことから始まります。幼少期の僕は鉛筆を握らされ、何度も同じ字を書こうとしました。

「ねぇ、練習しとけって言ったよね!?」
「なんでできないの!!!」

と、手は上げずとも怒られた記憶があります。
当時、母のお腹の中には妹が居ましたので、僕は“もっと良い子でなくちゃ”とという呪いにかかってしまいました。

結局は幼稚園にも合格しましたが、努力悲しくも父の仕事の都合でその幼稚園に通うことはありませんでした。

小学校では成績は常にトップで、運動が苦手な僕は体育以外オール3(満点評価)でした。全国模試では必ず満点でした。ただ、何事にも負けず嫌いな母はそれでも許してくれませんでした。

幼少期から習っていた楽器も、優勝でなきゃ意味がないと、練習を重ねました。無事報われ、毎年、県大会で金賞を取ることができていました。何度か全国大会にも出場しましたが、流石に全国レベルでは戦えず、一度も入選できませんでした。

「何事をやるにも完璧に。」とは、母親の口癖だったのです。
そうして、僕は自由を失っていきます。教育ママということもあって、ゲームなど絶対に買い与えませんでした。

ポケモンが流行った時も、妖怪ウォッチが流行った時も。みんなみんなその話をしていて、僕が適当に頷いた時も、ゲームは買ってくれませんでした。一緒に遊ぶ時も、みんなはマルチプレイしている中、そのプレイ画面を覗き込んで居ました。

僕の属していた集団は優しい子ばっかりでしたので、一緒にプレイさせてくれていました。その優しさを噛み締めつつ、母がゲームを許してくれていればこんな乞食のようなことをしなくてよかったのかな、と今には思います。

こうして、勉強とピアノ以外の趣味がなかった僕は、初めは本にハマります。
毎日毎日、学校図書室に通いつめ、年間700冊は読んでいました。分厚い本も斜め読み出来る人間でしたので、1日で読破しました。

いつしか学校図書室の本をほとんど読み尽くした頃、インターネットにハマります。両親が仕事でいない間、ニコニコ動画やYouTubeを開き動画を見ていました。今思えば、2013年ごろから見ていたでしょう。(またこのことは他の機会があれば執筆します。)

そうして、本の知識とインターネットの知識が山積みになる中、母親はこう言います。

「中学受験っていいわよね」

その言葉は僕に向けてではなく、父に向けてでした。顔色を伺って生きてきた僕には“中学受験をしなさい!”という命令に感じました。
ですので、母には「中学受験してみたいな」と軽い気持ちで言いました。結果、小学5年生でいい中学校がある都会へ転校し、塾へ通うことになりました。
都会へ引っ越したことが、僕の自尊心の崩壊に繋がったのです。
いい中学校たくさんあることもあって、クラスの3分の1が中学受験生でした。「何事をやるにも完璧に。」と教えられてきた僕は、自分の存在価値が下がり、いつしか自傷に走るようになりました。小学6年生になる頃にはカッターで手首を切り、大量の絆創膏を貼って過ごしました。

10校受けたうち、受かったのは3校で、偏差値は45〜55程度でした。
負けず嫌いの母は断るよう急かしてきました。滑り止めとは?という疑問を抱きながら、せっかく受かった中学校を蹴りました。

そうして、公立中学校へと進学しました。部活で顧問や部員からいじめられて、きっと鬱病になりました。“きっと”というのは、僕が母親に「死にたい!」と告白した時に
「精神科や心療内科に連れて行くなんて恥ずかしい!死にたいとか言うな!」と怒られ、病院へ連れて行ってもらえなかったからです。

自傷は増え、一生モノの傷もでき、何度か首吊りを試みて、監視されてると思い込み、嘔吐を繰り返しました。食べるという気力を失い、コロナ禍で学校がない期間で20キロ痩せました。

学校が始まってからは、人前で笑顔で過ごすことが精一杯で、家に帰ってからは床に倒れ込んでそのまま朝まで寝たりしました。部屋は荒れ、起きていなければいけない、と、買ったモンスターエナジーが転がり、廃人と化しました。悪夢を見て、変な時間に起きることも増え、ストレス性でお腹を壊すようになりました。

それでも成績を取らないと怒られる、という理由で学校へは通いました。

一度だけ、制服を着ようとして、手が震えて無断で休んだことがあります。ワイシャツのボタンを閉めようと腕を通したところ、涙が止まらず、その場で倒れました。

たったその一度だけ、その一度だけ休んで、その後はまた通いました。保健室登校に切り替えた友達が羨ましく思いました。カウンセラーの先生とお話ししてる友達が羨ましく思いました。僕がカウンセラーさんとお話しするようなことがあれば、母親は癲癇を起こすように怒鳴り散らかすでしょう。

自分の精神と闘いながら、中学3年生まで生きてきました。いつしか芸術家に憧れて、美術の道を目指すと言った時も、諦めろと閉ざされてしまいました。

3月まで受験を続けるのは不可能と感じた僕は、推薦を選びます。成績だけは優秀だったので、偏差値65〜70の高校に受かってしまいました。

今思えば、僕は母親の“学歴アクセサリー”だったのです。

「うちの子は〇〇高校で〜…いやいや!そんなすごくないですよぉ〜」と電話越しで話す声も幾度となく聞いてきました。



そうして、今の自分が出来上がりました。

もっと辛い人生を送ってきた人がいるのも知っています。でも、僕にとってはこれが生き地獄だったのです。



ご精読ありがとうございました。

くれぐれも無理しないよう、お過ごしください。