りんりんりたーん

りんりんも、きっと帰りますとの思いを込めて…

ReL?:影響市???奪い奪われ何々運動???????

2007-11-30 18:44:15 | Weblog




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http://www.vivonet.co.jp/History/a09_Sail/Sale.html
大航海時代
様HPより一部抜粋


1543年8月、種子島にポルトガル人が流れ着き、鉄砲が伝えられた。鉄砲は驚異的なスピードで日本中に広まり日本の歴史に大きな影響を与えた。
ポルトガル人が日本にたどり着くまでに長い年月がかかった。1415年、ポルトガルは北アフリカのセウタを占領、イスラム教徒から奪った


そ♪♪♪♪♪♪♪


の♪♪♪


町を基点に、西アフリカ航路の開拓に力を注いだ。1488年にアフリカ南端の喜望峰に到達し、インドやマラッカ、中国南部に進出した。
セウタ攻略の


130年後にようやく日本にたどり着いたのである。
同じ頃、逆の方向からスペイン人がアジアに迫っていた。1492年にコロンブスが大西洋を横断してアメリカ大陸を発見、マゼランが太平洋横断成功。
それ以後、メキシコからアジアに船団を送り、1571年にフィリッピンにマニラ市を建設した。日本にスペイン人が来たのは、コロンブスの大西洋横断から100年目の1591年だった。
ヨーロッパ人の渡来は、鉄砲、時計、印刷機をはじめ天文学、医学、航海術など今までにない新しい文化を伝えた。
1549年にはキリスト教がイエズス会のフランシスコ・ザビエルによって伝えられ、日本人の目は外に向かって大きく開かれたのである。
… 中略 …

1415年、ポルトガルのジョアン1世は、ジブラルタルの対岸にあるセウタを占領する。


その息子のエンリケ航海王子は西アフリカへの探険航海を組織し、シエラレオネまでの航路を開拓した。アフリカ西海岸の探険が進むと、黄金、象牙、奴隷の貿易が盛んとなった。
次のジョアン2世の時代には、インド航路の発見が目標となり、1488年バーソロミュー・ディアス(BartolomeuDias)が喜望峰にたどり着く。
その10年後の1498年、ヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰を越えてインド洋を横断し、インド西岸のカリカット(Calicut:現在のコジコーデ)に到着した。
ガマは、カリカットの領主ザモリンに会った。しかしザモリンは、ガマが差し出したみすぼらしい貢物を見て相手にしなかった。現地人からも馬鹿にされるなどひどい扱いを受け、わずかばかりの香料を手に逃げ出すようにリスボンに戻った。
ガマの航海で屈辱を味わったポルトガルは、強力な武装船団を派遣して相手を威圧する作戦に出た。
1500年、ペドロ・アルバレス・カブラルを指揮官に13隻の大船団は、喜望峰に向かって出帆した。しかし、貿易風で西に流され、ブラジル北東部に流れ着いた。この日からブラジルはポルトガルの植民地となった。11日の滞在後、再び海に出た船団は東に航海を続け

7隻がカリカットに到達


大?


量の香料を仕入れて翌年リスボンに戻った。
その後ポルトガルは、1510年にゴアを、1511年にはマラッカを占領してアジア貿易の拠点を築いた。この2つの土地はヨーロッパ人によるアジアの最初の植民地になった。1548年には、マカオに居留権を獲得し、中国や日本貿易の拠点とした。
… 中略 …

レコンキスタを達成したスペインとポルトガルは、国王による中央集権化が進み、イスラム教徒を追い出した勢いで海に乗り出していった。新しい領土を獲得し、香辛料がもたらす莫大な利益により、王室の財政はうるおった。

さらにカトリック教会が、航海ブームに拍車をかけた。カトリック教会は、新領土民に対する布教活動のため、イエズス会やフランシスコ会の会員を派遣した。押し付けがましくキリスト教を布教する宣教師が、結果的に多くの残忍な侵略者を誘い込んだ。植民地の人口が激減すると

その対策としてアフリカから奴隷を送り込んだ。

大航海時代には画期的な地理上の発見が相次いだが、発見の後には征服が続いた。ヨーロッパ繁栄の始まりであったが、アジア、アフリカ、南アメリカにとっては暗黒時代の到来となった。ヨーロッパによる植民地経営やアメリカ大陸の黒人問題は、現在に至るまで大きなしこりを残している。

大航海時代を先駆けたポルトガルとスペインは、スペインから独立したオランダやエリザベス女王下のイギリスが割り込んでくると急速に衰退していった。

    ポルトガル    スペイン
1415 セウタ攻略
1488 喜望峰発見
1492          アメリカ大陸発見
1494   トルデシリャス条約
1498 インド航路開拓
1500 ブラジル発見
1510 ゴア占領
1521           マヤ征服
1522           世界一周
1532          インカ帝国征服
1543 種子島に漂着
1549 キリスト教伝来(フランシスコザビエル:スペイン人)
1588         無敵艦隊英に敗れる


ポルトガルは中継貿易が中心だったが
スペインは領土的な関心が強く


徹底的に原住民を痛めつける植民活動を行った。


http://www.geocities.jp/timeway/kougi-54.html
世界史講義録
第54回
様HPより一部抜粋


西欧の国々が、大西洋やインド洋に進出していった時代を大航海時代といっています。
15世紀の末から16世紀のはじめまでをおおざっぱに呼ぶ言い方です。
まず、スペインやポルトガルがどういう国だったかということです。
この二カ国は当時出来たてほやほやの国でした。
両国があるイベリア半島は8世紀初め以来イスラム勢力の支配下にあった。


フランスとの国境地帯に住むキリスト教徒の領主たちが少しずつイスラム勢力から領土を奪い取っていきました。


これをレコンキスタ、再征服運動といいましたね。


この戦いで生まれたのがポルトガルとスペインでした。


イベリア半島最後のイスラム教国グラナダ王国がスペインによって滅亡したのが1492年、コロンブスがスペインの援助でアメリカに到達したのが同じ年ですから


イスラム教徒と戦争しながら大航海を援助していたわけです。


つまり、この時期のスペイン、ポルトガルには猛烈な領土拡大への意欲があった。


もっともっと、より広く、より遠くへというわけです。


イスラム教徒と戦うなかで養われた、キリスト教を広げようという宗教的な熱意も背景にあったようです。


さらに、この両国は王室の権力強化のために財源を求めていた。海に囲まれたイベリア半島ですから、海上貿易に目を付けた。当時一番儲かるのが香辛料貿易だった。
香辛料は軽くて輸送しやすいうえ高価で取引された。


当時のヨーロッパでは同じ重さの銀と交換されたというから超高級品です。
しかも人気商品でよく売れた。このころヨーロッパ人は香辛料なしではすまない食生活になっていたのです。


ちょっと、食生活の話をしておきましょう。ヨーロッパは緯度が高く、寒冷な地域でもともと農業生産にあまり向いているところではなかった。だから、小麦などの穀物栽培以外に豚や牛などの家畜も多く飼っているわけです。これらの家畜はだいたい、森や休耕地で放し飼い。


まるまると肥えた秋にします。


肉は干し肉、薫製など保存のために加工もしますが、多くは塩漬けにして樽の中につけておく。これをちびちびと長い冬の間に食べつなぐわけです。
いくら冬は寒いと入っても、肉は傷んでくる。やがて腐りかけた肉なども食べることになる。これが臭い。
しかし、我慢して食べていたわけだ。
十字軍などをきっかけに東方の産物であるコショウをヨーロッパ人は知る。これを腐りかけた肉にかければ臭みが見事に消える。一度コショウの味を知るとなしではすまないようになってきます。
… 中略 …

エンリケ航海王子(1394~1460)の時代は、実はまだ船で直接インドに行けるとは考えられていなかった。エンリケ時代に


信じられていたプトレマイオス世界地図を載せておきましたが、世界はこんな形だと考えられていたんですね。ヨーロッパの海岸線は、まあ正確です。アフリカ北岸も、アラビア半島もそれなりの形をしているね。
… 中略 …


インド洋は完全に閉じた海として描かれていることを確認してください。
もし、実際このような地形ならいくら航路を開拓してもインドには絶対に行けない。これが、エンリケ航海王子


時代の常識です。
ならばエンリケはなんのために探検航海を指揮したのか。意識としては


レコンキスタの延長で
アフリカにあるイスラム教徒の拠点を攻撃しようとしたのが最初の動機らしい。
さらに、単純にアフリカ西海岸を探求したかったということもあったのでしょう。
しかし、これが後のインド航路開拓への基礎づくりになる。
エンリケ時代の探検航海は


今の常識からすると実にゆっくりとしか進みません。


… 中略 …


時間がかかった理由の一つは船乗りたちがビビっていることです。ボジャドール岬まで来ると赤道も近い。どんどん熱くなる。それ以上南下すると、海はぐつぐつと煮え立っていて、船も人も一瞬にして燃え尽きてしまう、と信じられていた。
… 中略 …

やがて、遠海航法が確立されて、船乗りたちはコンパスを見ながら大胆に沖合を航海するようになります。
… 中略 …

1488年、アフリカ最南端に最初に到達したのがバルトロメウ=ディアスです。
… 中略 …

ポルトガルに帰還したディアスは熱狂的な歓迎を受けます。何しろアフリカ最南端を確認し、インドへの航路の存在を実証したんですから。宮廷では航海の経過報告がおこなわれ、その席にはのちにアメリカへ到達することになるコロンブスもいたそうです。「嵐の岬」はのちにポルトガル王によって「希望の岬」と改名されました。喜望峰ですね。
ポルトガルが実際にインドに到達するのは、この10年後です。

1498年、インド航路を開拓したのがヴァスコ=ダ=ガマです。ガマの船が到達したのがインドの西海岸の港町カリカット。
… 中略 …

ポルトガルとインドの圧倒的な富の差を見せつけられることになった。

太守が「何のようか?」と聞くと、ガマは「自分はポルトガルの大王から使わされた使節である。ポルトガルは偉大で豊かな国である

キリスト教の王を探しに来たのであって金銀が目的ではありません。
でもついでに、貿易も許されたい。親善のしるしにポルトガル王より閣下にお土産もございます。」と、まあ、一通りの挨拶をした。
… 中略 …

ともかく取引終了して、ガマはまたカリカット太守にいとまごいに行くのですが

この時に商業税と港の使用料を請求された。
ところが、ガマは資金を全部香辛料の買い付けに使ってしまって、税金と使用料を払う余裕がないの。そこでどうしたかというと、税金未納のままに出港を強行してしてしまった。踏み倒して逃げたわけだ。
… 中略 …

ガマたちの一行は、リスボンを出港するときは
170名の船員がいたのですが、帰ってきたのはたったの
44名。
… 中略 …

こんなに死亡率の高い航海に参加する理由は何かというと、無事に帰ったときの報酬の大きさです。一攫千金を夢見る連中が海に出て行った。それでも絶対確実に死ぬような航海には誰にも参加したがらないわけで、コロンブスの航海では船乗りがなかなか集まらなかった。ついには航海終了後の釈放を餌に囚人を乗せたというから、大変だったんです。
1502年、ガマは二度目のインド航海に出発した。このときは、前回みたいなみじめな扱いをされたくなかった。しかし、まともな商売をしていては大量の香辛料を買い付けることはできない。そこで、ガマはどうしたかというと


軍事力を背景に商売を強制したんだ。

今度は15隻の大船団を組んでインドに到着すると、沿岸で見つけた船を焼いて乗客を虐殺し、カリカットの街に大砲を撃ち込む。住民を船につるす。
その手足を切り取って、太守に送りつける。そういう恫喝をして香辛料を手に入れた。
ヨーロッパとアジアのゆがんだ関係がこのときから始まったのです。


New Design Gahoo! JAPAN 2008/01/01


HSIUT R派 複伏福歓拝

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