りんりんりたーん

りんりんも、きっと帰りますとの思いを込めて…

ReZ?:お米 etc.

2006-11-06 14:22:51 | Weblog











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米百俵の精神


<米百俵の由来>


幕末維新の風雲は、戊辰戦争で長岡城下にも及んだ。


長岡藩は、軍事総督・河井継之助の指揮のもと、奥羽越列藩






同盟♪





加盟♪♪♪


し、






新政府軍???????





徹底的な戦闘を行った???


このことは、


司馬遼太郎


の♪


歴史小説♪♪♪


『峠』


で広く紹介されている。


その結果、


250年あまり???????





かけて築き上げた城下町長岡は焼け野原となり、


石高は


7万4千石から


2万4千石に


減らされた。


幕末に江戸遊学をし、佐久間象山の門下生であった虎三郎は、独自の世界観を持ち、『興学私議』という教育論を著していた。


戊辰戦争の開戦に際しては、長岡藩が参戦することに反対の立場をとっていた。


敗戦後、文武総督に推挙された虎三郎は、見渡すかぎりの焼け野原のなかで、


「時勢に遅れないよう、時代の要請にこたえられる学問や芸術を教え、すぐれた人材を育成しよう」


という


理想





掲げ、


その実現に向けて動き出した。


明治2年


(1869)


5月1日、


戦火を免れた四郎丸村(現長岡市四郎丸)の昌福寺の本堂を借りて国漢学校を開校し、子どもたちに「素読」(論語などの読み方)を教えた。


翌年5月、


長岡藩の窮状を知った三根山藩から米百俵が見舞いとして贈られてきた。


藩士たちは、これで一息つけると喜んだ。


食べるものにも事欠く藩士たちにとっては、のどから手が出るような米であった。


しかし、藩の大参事小林虎三郎は、この百俵の米は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてるとして米百俵を売却し、その代金を国漢学校の資金に注ぎ込んだ。


こうして、


明治3年6月15日、


国漢学校の新校舎が


坂之上町


(現大手通2丁目、大和デパート長岡店の位置)





開校した。


国漢学校には洋学局、医学局も設置され、さらに藩士の子弟だけでなく町民や農民の子どもも入学を許可された。


国漢学校では、小林虎三郎の教育方針が貫かれ、


生徒一人一人の才能をのばし、


情操を高める教育がなされた。


ここに長岡の近代教育の基礎が築かれ、後年、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出された。


東京帝国大学総長の小野塚喜平次、


解剖学の医学博士の小金井良精、


司法大臣の小原直、


海軍の山本五十六元帥……。






この国漢学校は現市立阪之上小学校に引き継がれ、「米百俵」の精神は長岡市のまちづくりの指針や人材教育の理念となって今日に至っている。


この国漢学校創立時の故事をもとに、文豪・故山本有三氏が戯曲として書き下ろしたのが『米百俵』である。


この戯曲は、虎三郎に関する詳細な研究と合わせて一冊の本にまとめられ、


昭和18年


(1943)





新潮社から出版された。


山本有三の戯曲『米百俵』の中で、虎三郎は「早く、米を分けろ」といきり立つ藩士たちに向かってこう語りかける。


「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。


国が


おこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、


ことごとく人にある。


……この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。


この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。


いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。


その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。


あたらしい日本はうまれないぞ。……」


教育と反戦の思想で裏打ちされた戯曲『米百俵』は大ベストセラーとなったが、


時代は軍部の支配下にあり、


反戦戯曲だと強い弾圧を受けて絶版となり、


自主回収の憂き目を見た。






それから


約30年後の


昭和50年


(1975)、


長岡市が『米百俵 小林虎三郎の思想』を復刻出版すると、大きな反響を呼んだ。


また、


昭和54年


(1979)





平成13年





2度にわたり歌舞伎座で上演され、多くの人々に感銘を与えた。






米百俵が来る






虎三郎が弟雄七郎にあてた手紙には、


「長岡藩は極度に窮迫し、士族の中でも日に三度の粥すらすすることのできない者がいる」とある。


こうした状況の中で、


明治3年


(1870)


5月、


長岡藩の支藩である三根山藩


(現西蒲原郡巻町)





士族たちから長岡藩士族へ見舞いとして米百俵が贈られてきた。


米百俵は


当時の相場で


およそ金270両前後。


そば一杯がおよそ24文、


金1両は約10,000文


であったので、


いかに大きな贈り物であったかがわかる。


●小林虎三郎 (1828~1877)


文政11年(1828年)8月18日、長岡藩士小林又兵衛の三男として生まれる。
崇徳館で学び、若くして助教を務める。
23歳の時、藩命で江戸に遊学、兵学と洋学で有名な佐久間象山の門下に入り、長州の吉田寅次郎(松陰)とともに


「象山門下の二虎」


と称せられる。
象山に


「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである。」


と言わせるほど、虎三郎は教育者であった。
教育の重要性を説く虎三郎の思想は、帰郷後に著した「興学私議」に詳しい。
戊辰戦争に敗れ焼け野原となった長岡で、


「国がおこるのも、まちが栄えるのも、ことごとく人にある。
食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ。」


と教育第一主義を唱え、三根山藩からの救援米百俵をもとに、国漢学校を設立し、多くの人材を育て上げた。
虎三郎は明治4年、自ら「病翁」と名を改めているように、終生を病にさいなまれた。
明治10年、湯治先の伊香保で熱病にかかり、8月24日に弟雄七郎宅で死去。
享年50歳であった。


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