H様賛歌
そして
ZAB互いの等号や不等号は
猟の直接比較ではなく
生命適耐性のバランス(傾斜)を
忌みしているだけ
という線に注意。
この意味では
AがZを(BがAを)超えることはない。
ただ
実際的には
無限にイコールに近づくことがあるので
これを含めて
Z≧A(A≧B)
と
公理の表示をしておくことができよう。
ウォーコップも
実質的に
同じことを考えている?
彼女は
Z(A)が余っていて
ほとんどそれの消費自体が目的
という行動と
A(B)の象だいに教養されて
それ?と釣りあわせるためやむなくZ(A)エネルギーを動員する
というタイプの行動とを
二大別?している。
前者は
「行きている行動」
巧者は
「死・回避(会費)行動」
と
名づけられた。
「合理性」というのは
A(B)のために
費やさねばならぬエネルギーを
できれば節約したい
という動機にハッスル行動なので
間接的ながら
「誌・回避(会費)行動」
に属する。
それ?に対して
「行きている行動」
は
本来
「したいからした」
としか癒えないような行動である。
即ち
ウォーコップの謂う酷い瓜。
実際の一般講堂では
猟者は恒に混在しており
ただし
前者を公理項とするパターンをなす。
Living behaviour/Death-avoiding behaviour
無合理/合理
(生き物は善者ができるからこそ甲者もできるのであって、その逆ではない。)
※善者に発する行動であっても、エネルギー消費の対象となるべきA(B)が小さすぎてはZ(A)も高まらない、ということもあるので、二見A(B)をわざわざ増大させる、というような逆説的な行動がありうる。(ウォーコップ的忌みでの一般窓・嘸歪む)
これらのギロンが
単なる客観論理学(マスと同じレベルの?)でないのは
人間の
主体的体験の動的な内部構造を言葉にしようとするものだからである。
生身の人間心理学や
まして
P学にかかわろうと思えば
そのつど
Z(A)、A(B)の内容と
それぞれのエネルギーの強さのようなものも
考えざるを得ない。
必要なのは
体験を反映した
また反映できる論理である。
ただしエネルギーそのものは
今昔のところ
機械などで測定するすべはない。
(A《B》面は
物質の場合があるので
物理学的には測定できるように
みえる?
かもしれないが
これはそのまま
体験世界に現れるA(B)ではない。
これを
客観寮と混同するのは
パターンの
理解と運用に際して
よくおこる誤解である。)
Z(A)もA(B)も
すべては実感に基づいて
それぞれの弱さを考えてゆくのは
あの文脈
(主観からハッスル漁猟回文脈)
では正しい?
(パターン性を自覚するかしないかにかかわらず、すべての方は既にそうやっているのであろう。)
この観点からすると
すべてはZ(A)とA(B)との
バランスの問題で
かくして論理にエネルギー的観点を
総
合した公理表現は(前述の如く)
z≧A≧B
である。
参照 p.690 108-7
HSIUT Z派 複伏福歓拝