2011年3月11日 14:46 東日本大震災が起こりました。
我が家の住んでいる浦安市(ウチは新浦安地区)も震度6弱の揺れで、液状化が起こりライフラインが壊滅
しーは、この日、市役所に用事があって2時頃に出かけようかと準備していた。
が、この日、石原都知事が東京都知事選に立候補するのか会見があるというので、それを見たくてミヤネ屋を見いってしまった。
「会見が始まり次第お知らせします」
というので、いつもは興味のない都知事選なのだけど、何だか気になって出かけることもせずテレビを見てた。
結局、石原都知事は出馬することを表明し、心おきなく出かけるかぁと思った矢先、テレビの中からミヤネさんが、
「地震です!」
と叫んでいる
しーは、テレビが大きく揺れだしたのでリビングのテレビを押さえ、組み立て式のラックも今にも倒れてきそうだったのでそれも押さえ、揺れが治まるのを待ってたけれど、もう、立ってられない揺れになってきたので、ラックを押さえていた手を離したら、ラックは目の前で倒れちゃうし、いよいよヤバイだろうと、テレビはつけっぱなしにし、コートを着て貴重品と携帯を持ち、玄関のドアを開けたら、お隣さん達も外に出てきていた。
道路は液状化が起きて泥水がわき出てきてるし、波打ってるし大変なことが起きているのがわかった。
自分ではそんなにパニくってないと思ってたんだけどよっぽど焦ってたんだろな。
隣のおじちゃんが、「子供、迎えにいっといで」って言ってくれたので、急いで学校へママ友とダッシュした
学校に行く少しの時間でさえ、地震は頻繁に来るし、道路は泥水であふれかえってた。
しーは、この時何気にロングブーツを履いていったのが後々大正解で、液状化の起きている道もザブザブと歩けた。
学校に着くと、子供達は着のみ着のままでグランドに避難していた。
点呼をしてからりくを連れて帰ってきた。
まずは、一安心。
家に帰ってからはりくと猛ダッシュで避難道具を準備して、倒れたラックや割れた小物なんかを片づけ、とりあえずリビングだけはなんとか片付けた。
その間も大きな余震が続いて、いつでも避難できるように玄関は開けっ放しにしておいた。
隣のおじちゃんが
「お風呂に今のうち水をためておきなさい」とか「ご飯の準備もできるだけやっておきなさい」とか色々と教えてくれたので、急いで準備した。
案の定、夜には断水になりトイレも使えなくなった。
ご飯の準備はやれなかったので家にあるもので済ませようと思ってたら、隣のおばちゃんがおにぎりを作って持ってきてくれた
転勤で引っ越ししてきた我が家にこんなに親切ににして頂けてホントに心から感謝とお礼を言って、りくと二人でおにぎりを食べた
電気はついていたので夜はりくと二人でコートを着てリビングでテレビをつけっぱなしで休んだ。
「緊急地震速報」が出る度に、逃げれるように準備をした。
地震から数時間が経った夜、ぱー、実家の山形、秋田にもやっと連絡がついた。
皆、無事で安心した。
それから、10日間ほど上下水道、ガスは使えず不自由な生活。
夜には、豚汁とクラッカーの炊き出しがありであったかい食べ物を食べることができた。
我が家はウォーターサーバーを使ってるので飲料水は大丈夫だった。電気も使えたので、ホットプレートでできる食事を食べ、名古屋のママ友達が救援物資の食料と水を送ってくれてそれがとても有難かった
今になって思う事は、しーは、石原都知事のお陰で、りくを地震後すぐに迎えに行くことができたんだわって。
電車も止まっちゃったから、子供達を学校に迎えに行けなかった親はたくさんいて、きっと心配で不安でたまらなかったはず。
こういうちょっと「不思議なこと」とか「なんか変」っていう直感は女性に多いらしく、これは、子供を守るための直感的本能だとテレビで言ってた。
これは、右脳が感知するんだって。
しばらく右脳をガンガン働かせておかないとね。
我が家の住んでいる浦安市(ウチは新浦安地区)も震度6弱の揺れで、液状化が起こりライフラインが壊滅
しーは、この日、市役所に用事があって2時頃に出かけようかと準備していた。
が、この日、石原都知事が東京都知事選に立候補するのか会見があるというので、それを見たくてミヤネ屋を見いってしまった。
「会見が始まり次第お知らせします」
というので、いつもは興味のない都知事選なのだけど、何だか気になって出かけることもせずテレビを見てた。
結局、石原都知事は出馬することを表明し、心おきなく出かけるかぁと思った矢先、テレビの中からミヤネさんが、
「地震です!」
と叫んでいる
しーは、テレビが大きく揺れだしたのでリビングのテレビを押さえ、組み立て式のラックも今にも倒れてきそうだったのでそれも押さえ、揺れが治まるのを待ってたけれど、もう、立ってられない揺れになってきたので、ラックを押さえていた手を離したら、ラックは目の前で倒れちゃうし、いよいよヤバイだろうと、テレビはつけっぱなしにし、コートを着て貴重品と携帯を持ち、玄関のドアを開けたら、お隣さん達も外に出てきていた。
道路は液状化が起きて泥水がわき出てきてるし、波打ってるし大変なことが起きているのがわかった。
自分ではそんなにパニくってないと思ってたんだけどよっぽど焦ってたんだろな。
隣のおじちゃんが、「子供、迎えにいっといで」って言ってくれたので、急いで学校へママ友とダッシュした
学校に行く少しの時間でさえ、地震は頻繁に来るし、道路は泥水であふれかえってた。
しーは、この時何気にロングブーツを履いていったのが後々大正解で、液状化の起きている道もザブザブと歩けた。
学校に着くと、子供達は着のみ着のままでグランドに避難していた。
点呼をしてからりくを連れて帰ってきた。
まずは、一安心。
家に帰ってからはりくと猛ダッシュで避難道具を準備して、倒れたラックや割れた小物なんかを片づけ、とりあえずリビングだけはなんとか片付けた。
その間も大きな余震が続いて、いつでも避難できるように玄関は開けっ放しにしておいた。
隣のおじちゃんが
「お風呂に今のうち水をためておきなさい」とか「ご飯の準備もできるだけやっておきなさい」とか色々と教えてくれたので、急いで準備した。
案の定、夜には断水になりトイレも使えなくなった。
ご飯の準備はやれなかったので家にあるもので済ませようと思ってたら、隣のおばちゃんがおにぎりを作って持ってきてくれた
転勤で引っ越ししてきた我が家にこんなに親切ににして頂けてホントに心から感謝とお礼を言って、りくと二人でおにぎりを食べた
電気はついていたので夜はりくと二人でコートを着てリビングでテレビをつけっぱなしで休んだ。
「緊急地震速報」が出る度に、逃げれるように準備をした。
地震から数時間が経った夜、ぱー、実家の山形、秋田にもやっと連絡がついた。
皆、無事で安心した。
それから、10日間ほど上下水道、ガスは使えず不自由な生活。
夜には、豚汁とクラッカーの炊き出しがありであったかい食べ物を食べることができた。
我が家はウォーターサーバーを使ってるので飲料水は大丈夫だった。電気も使えたので、ホットプレートでできる食事を食べ、名古屋のママ友達が救援物資の食料と水を送ってくれてそれがとても有難かった
今になって思う事は、しーは、石原都知事のお陰で、りくを地震後すぐに迎えに行くことができたんだわって。
電車も止まっちゃったから、子供達を学校に迎えに行けなかった親はたくさんいて、きっと心配で不安でたまらなかったはず。
こういうちょっと「不思議なこと」とか「なんか変」っていう直感は女性に多いらしく、これは、子供を守るための直感的本能だとテレビで言ってた。
これは、右脳が感知するんだって。
しばらく右脳をガンガン働かせておかないとね。