松ひとり言

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阿倍仲麻呂と遣唐船、そして友人・・・李白

2013年12月23日 11時12分26秒 | 日記

昨日のブログで奈良の石舞台の写真と阿倍仲麻呂を少々呟きました

その仲麻呂について、もう少し呟いてみたいと思いまして・・・・・

下の写真は、今から12年前に中国の四川省江油市から招聘されて

妻と二人で行ったときに頂いた拓本を表装して部屋に掛けています

李白の生誕1300年祭に招待されたのです、この件に関しては後日

詳しく呟きたいと思っております、乞うご期待を(誰も期待てしてへんし!)

                 

 《李白と漢詩の拓本》    《四川省李白研究会からの聘書》 《開けると研究会の顧問にと》

話を阿倍仲麻呂に戻しましょう、・・・・・今回は李白との深い友情を呟く事に

     

仲麻呂が留学生として第8次遣唐船にて難波を出航したのが西暦717年3月

仲麻呂20歳の春であった、そして今まで2隻の遣唐船も、この第八次から

4隻になっている、総勢557人であったとか、この後遣唐船を「四つの船」と呼んだ

さて仲麻呂はとんとん拍子で出世していき、書記官まで上り詰め中々帰国も儘ならず

次の第九次には帰国の許可が下りず、その次の第十次でやっと許可が下りるが

辞任帰国が認められたのでなく、唐より日本に派遣と言う事であったらしい

天宝13年(754)11月16日四隻の船が蘇州を出航している、

第一船に大使の藤原清河に唐の使命を帯びた朝衡(中国名)こと阿倍仲麻呂

第二船には副使の大伴古麻呂、そして鑑真和上と24人の弟子たち

第三船には副使、吉備真備と鑑真の渡日を企画した日本の僧、普照

第四船には判官、布勢朝臣人主が乗っていたとあります

しかし、ご存知のように第一船だけが沖縄には着いたものの、その後漂流

着いた所が、今のベトナムであったが、仲麻呂は長安に戻り70才で没す

漂流して長安に戻るまでに中国では仲麻呂は海に沈んで死んだ事に・・・・・

   

李白はこの報に触れ、弔詩を仲麻呂に捧げている、【晁卿衡を哭す】と題す

日本の晁卿帝都を辞し   日本の朝衡「仲麻呂」長安の都に別れをつげ

征帆一片蓬壺を繞る     進む一片の帆は東海の仙人が住むと言う島をめぐる

明月帰らず碧海に沈み   明月は碧い海に沈んで帰らず

白雲愁色蒼梧に満つ    白い雲と悲しみ色が蒼梧の空に満ちわたる

不思議なのは李白と仲麻呂の交友は李白が長安の玄宗の側近であった

742年から約2年と思われる、仲麻呂の訃報に触れるまでに10年以上離ればなれ・・・

 

辻原 登著《翔べ麒麟》は仲麻呂が主人公で中国での活躍を書いていて素晴らしい

その中で、李白が、仲麻呂の帰国の事を知って逢いに来るシーンがあるので・・・紹介します

~朝衡は声ではっきり思い出した。李白だった。彼が宮廷で高力士を侮辱して玄宗の

怒りを買い、長安を追放されてから十年がたっていた。朝衡は船長に命じて

縄ばしごをおろさせ、李白をこちらの船に招いた。~

歴史的にも754年に李白は揚州で魏万(李白の弟子的存在)に逢っている

だから・・・李白が仲麻呂の訃報にいち早く知ったとしても何の不思議も無いのだ

実は、12年前の李白生誕1300年祭の席で詩吟を交えてこの話をしている・・・

石舞台からロマンが広がりましたが、阿倍仲麻呂ってほんまに凄い人やね~

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 



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