松ひとり言

谷藤松で御座います。
末永くお付き合いの程よろしくお願い致します。

龍馬はあと二年で没150年・・・武市瑞山は今年150年!

2015年11月29日 17時13分30秒 | 日記

イヤ~大切な日を忘れちょりましたぜよ・・・11月15日を

そうなんです・・・”龍馬忌” を、この日一日中考え事を・・(そんな訳ないやろ~

ゴメン・・・言い訳はよしにしましょう・・・夕方に思い出して・・・しまった

でも良かったのは、150年祭が今年でなくて・・・

そこで今年150年祭を迎える志士達は・・・と、それが武市瑞山なんです

同じ土佐の出身の、龍馬とは親戚筋に当たる土佐勤王党の党首であります

余りにも有名な自画像は、入獄中にたらいの水に顔を映して画いたと言う

《この自画像、手紙を添えて愛妻 ”富子” に送っている》

この絵の右上に書いているのが、五言絶句の漢詩である(最後に松流の譜面を載せています)

 花依清香愛       花は清香に依って愛せられ

 人以仁義栄       人は仁義を以って榮ゆ

 幽囚何可恥       幽囚何ぞ恥ずべけんや

 只有赤心明      只赤心の明らかなる有り

『月さま雨が・・・』  『春雨じゃ・・・濡れていこう』の有名なセリフ・・・

ご存知、”月形半平太” に出てくる、ワンシーンだが、これぞ武市瑞山がモデル

名前も通称、半平太で武市半平太と呼ばれていた・・・それが月形半平太に

土佐勤王党を結成した瑞山は参政・吉田東洋を暗殺し藩論を尊皇攘夷に転換

京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導

京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが

八月十八日の政変により政局が一変するや、

前藩主・山内容堂によって投獄され、1年8ヶ月余りの投獄

同志、岡田似蔵らの自供により切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅する

岡田似蔵ら4名は即日斬首、瑞山は切腹、慶応元年(1865)閏5月11日であった

今年で150年を迎えた・・・・・龍馬が近江屋で暗殺される2年半まえになる

                       《高知県須崎市にある武市瑞山の立像》

                 《高知県にある武市瑞山・富子夫妻の墓》 

                    《武市瑞山の旧生家もちろん高知県にある》

《京都での寓居跡・・・『春雨じゃ・・濡れて・・・』が聞こえてきそう》

 

 

 

 

 


岡村さん!本当に有難う御座います・・・感謝です

2015年11月28日 21時05分31秒 | 日記

岡村さん、度々の写真本当に有難う御座います

私は、ブログをしていてもパソコンに関しては詳しくありません

記事にするだけが精一杯なんです・・・何とか今回の親切を

再会に持っていけたら素敵やな~と思ってブログに写真を無断で

入れています・・・このブログを見て下さっていて・・・”これ私や~”・・・と

思われた方は、ご一報下されば・・・”松ひとり言” も生きると云うもの

因みに市村のおじさんとは・・・前にも云ったけど、埼玉の草加にも行きましたし・・・

高槻のご自宅にも数回寄せて頂きました・・・(友の会でも行きましたね

岡村さん本人の写真・・・私の思っていた人と違っていましたすんまへん

直接連絡を撮りたいですね・・・・・まず僕達が会いましょうかね・・・・・

では・・・折角の写真なのでブログにアップさせて頂きます

《この前・・・最初に送って頂いた写真の続きで・・・息子を抱いてくれてるのが岡本君夫妻です・・・いや~最高》

《これも・・・同じ時の写真ですよね・・・・・服装からして・・・一番右側の女性(旧姓仲間さん・・・は隣の町内です》

《この写真で・・・やっぱりと思ったんです・・・右側後の眼鏡の男性は・・・加村君と言って奥さん共々付き合いがありました》

《この一連の写真ですが・何処へ行ったときの写真ですかね・・・後のポスター・・・アグネス・ラムそれとも宮崎美子

《この写真と次の写真は別の日のものですね!左から二人目のサングラスの男性は八尾の辻さんでしょう、懐かしいね》

《夜間登山ですかね上の真ん中が津田君、その右、辻さんでその右が山崎君、私の詩吟の会に居ましたその横が加村君》

いや~私が写って無くても、本当に懐かしい顔ぶれ・・・でも私より新しい顔ぶれ

従弟の喜和もこの頃、よく参加していたんですね、彼は私より5歳下で67歳ですね

もう皆初老の時代に入っているんですね~

因みに今年の我が松流の初吟会で挨拶をしている私を・・・・・

来年は私の詩吟人生50年の年・・・まだまだ頑張りまっせ・・・72才

 

 

  

 

 

 

 

 

 


いよいよ富士・伊豆方面・・最終回400年の伝統の味

2015年11月25日 16時18分46秒 | 日記

まずは江戸三大文化人の絶賛の俳句・小説・浮世絵から・・・・・

松尾芭蕉は1691年、弟子の乙州に贈った餞別の句に

  梅わかな 丸子の宿の とろろ汁

これが当時の旅人に強い印象を与えて、宿場名物として食べられる様に・・・

十返舎一九は1802年 ”東海道中膝栗毛” の丸子のシーンで次の様に書いています

  けんかする 夫婦は口をとがらして とんびとろろに すべりこそすれ

宿場の夫婦が、喧嘩しながら作ったとろろ汁を、ぶちまけてしまう場面で・・・・・

安藤広重は1834年に ”東海道五十三次” を完成します

  

《お店の案内にあったのを写したのでちょっと見ずらいでしょうけれど、広重の五十三次から26番目【鞠子の宿】のとろろ汁屋さんです》

これも偶然でしたもちろん ”とろろ汁” 丁子屋と言うお店をしりませんでした

『腹が減ったねぇ~』と運転しながら外を見ていた息子が、『とろろ汁て・・・看板が出てた』と・・・・

それから、ナビで探しました・・・丁子屋て有名な所とちがうかな~・・・・行ってみようか・・・・

こんなエエ加減な選択でやって来たのが、丁子屋さんでした

      

《むかごが自然薯(じねんじょ)からとは、奥に進んでいくと、お店の玄関に辿り着きます・・何んとも風情のある事、屋根は茅葺きです》

まずはパンフレットをご覧ください

   

   

凄い歴史を感じる、お店でした・・・そりゃそうでしょう、来年で創業420年なんですから

店の中に入りましょう・・・

 

《ガラガラっと・・・引き戸を開ければ・・・タイムスリップしたような・・・入る前のこの近辺から既に時代が遡っておりますけどね》

 

《これが名物 とろろ汁です・・・自然薯をすって御出汁と合わせて頂くのです・・・ご飯はもちろん麦飯です・・・懐かしい味でした》

《店内には、囲炉裏もあってレトロでしょう食事中の家内と息子です、店内の奥には資料室も設けられていました》

 

《有田焼で広重の鞠子宿が飾られてありました、良い物は何に姿が変わっても素晴らしいですね、》

《十返舎一九の木像が・・・・やはり400年の伝統が彼方此方で見受けられて、鑑賞と舌鼓の両方で楽しい時間を過ごせました》

 

 

 

 

 

 


プチャーチンから若山牧水??そして丁子屋のとろろ汁

2015年11月25日 08時58分45秒 | 日記

いや~・・・今回の富士桜墓苑の納骨の旅二日目は・・・

プチャーチンのディアナ号難破の話から始まり・・・ナント

沼津市を走っていると、若山牧水記念館の看板が偶然目に入りました

牧水と言えば、二年前の9月13日付けのブログの【酒と吟】に取り上げました

2012年の9月に岡山県新見の二本松峠にある牧水の歌碑を訪ねた時の事を・・・

牧水が早稲田大学生の最後の夏休みに二本松峠の茶屋【熊谷屋】に泊り

そこから東京の友に出したハガキに二句の俳句が・・・その一句が≪幾山河≫

その歌碑を尋ねたわけでした、・・・・・

  幾山河こえさりゆかば寂しさの

          はてなむ國ぞけふを旅ゆく

《2012年9月に訪れた時の写真、もうあれから三年も過ぎてしまったんですね、でも今回沼津でこの歌碑が見られようとは》

先に、沼津千本松原にある歌碑をどうぞ・・・・・

牧水没後一年目に建てられた全国で最初の牧水歌碑だそうです

 

《この歌碑に辿り着いたのは、先に”沼津市若山牧水記念館” に行ってパンフレットを見て知りました、牧水と沼津との馴れ初めも

            

《入り口の素晴らしい雰囲気・・・記念館にしては、格安の200円を払っていざ中へと、入って右側に≪幾山河≫がありました》

   

《東京の生活に疲れた牧水が、大正9年8月に沼津に移って、昭和3年9月17日、43歳で亡くなるまでの8年間を沼津で暮らす》

 

記念館で頂いた ”牧水略年譜” です牧水の43年間の生涯を辿ってみて下さい、あまりにも早すぎる43年間です

牧水の歌碑がある公園には、ほかに ”井上靖” の碑もありました

        

《千本浜公園の入り口にはモニュメントや案内板、 井上靖文学碑の案内と文学碑、裏に回ると井上靖文学碑の文字が》

最後に若山牧水の ”幾山河” の松作譜の譜面を載せさせて頂きます

 

次回・・・このシリーズの最終回は静岡の丸子に400年以上続く ”とろろ汁屋” さんを紹介します

あの・・・松尾芭蕉が俳句に、十返舎一九は東海道中膝栗に、

そして安藤広重が東海道五十三次の一枚の絵の中に・・・お楽しみに

 

 

 

 

 


伊豆の二日目・・・戸田港(へだこう)から富士山が・・・???

2015年11月23日 20時03分02秒 | 日記

昨夜は八種類のお造りだけでお腹がふくれると言う贅沢さ

そして一夜が明けて・・・まずは戸田港へ向かいました、と言っても宿から3分

         

《戸田温泉の文字を横目に、中央桟橋へ到着、のどかな風景ですね~、案内の看板の先に本来なら富士山が、更に先端に》

すると行き止りになり、ユーターンするのに、空き地に入るとそこに

沼津市・戸田造船郷土資料博物館・駿河湾深海生物館があったのでした

閉館しているのかと思うほど、錆びれた感じの概観でした・・・よく見ると・・・

 

《手すりも錆び付いていて、本当に開いているの・・・と疑いかけたらこの文字が・・・・・そして二匹の猫ちゃんが出迎えてくれました》

《外装だけで判断してはいけないことを、中に入って痛切に感じました、・・・・幕末にペリーと共に有名なプチャーチンの登場です

 

《この博物館で得たものは大きかった、ペリー提督が黒船四隻で浦賀沖にやって来た翌年の嘉永七年にプチャーチンが下田へ》

 嘉永7年10月15日に入港したプチャーチン一行に大きな試練が待ち受けていた

11月3日に幕府側と第1回目の交渉に臨むことが出来たその翌日

有名な安政の大地震が東海地方を襲います、下田に停泊中のディアナ号は・・・

船底とと舵を大きく破損してしまうのです、プチャーチンの希望で戸田港で修理を・・・

しかし強い風と波のため富士川河口近くまで流されたが、500人の乗組員は全員無事

そして地元の漁民の漕ぐ沢山の漁船の曳航で戸田に向かいます

しかし、悪いことは重なるもの、再び西風が強まり、結局駿河湾に沈んでしまいました

幕末フアンの私はこの話を知りませんでした、今回の大収穫であったのです

この博物館の入り口右横に ”ディアナ号の錨” が展示されていました

船を失ったプチャーチン一行は戸田でロシアへ帰る為の船を作ります・・・

戸田の船大工達が中心になって、わずか3ヶ月で100トン程の帆船を作り上げます

船大工達の技術と道具には作業の間中、ロシア人たちを驚かせたと云います

無事進水した船は、プチャーチンによって ≪ヘダ号≫と命名され、ロシアに帰って行ったのです

さて・・・この博物館に駿河湾深海生物館が隣接されていました

駿河湾は日本一深い湾で、深海生物の宝庫なんだそうです・・・写真を撮って来ました

 

《これぐらいにしておきましょうちょっと・・・気色悪いでしょう・・・皆さんに言われそうです ”エエ加減にしんかい(深海)” と

博物館を出て、戸田港に戻ったら、富士山が薄っすらと姿を現したんです

《望遠使わずに写しました、岬と岬の真ん中に薄っすらと富士山らしき形が浮かんでいるでしょう・・・これを望遠で》

《このカメラのズーム、半分ぐらいの力です・・・・・舟なんかハッキリ移っているでしょう、もちろん富士山も近寄って来ました》

《そしてこれが、このカメラの限界ズームです・・・・・もっと天気が良ければ誠に残念です・・・でも霞む富士もいいかも》

これで ”戸田港” をあとにして・・・思わぬ出会いが待っていたのです・・・続きは次回に・・・・・・