あけおめことヨロ今年も読者に忖度しないスタイルで(`・ω・´)
でまあ書かなくても書いても同じだからどっちでもいいんだけど、どうせ一つ気もすると自分自身忘れてしまうから、書留渡航w糞糞糞
たいして面白い話じゃないので、まじめに読まないように。リボ様の熱狂的信者以外の方はこの辺でお引き取りいただいて結構でござりまちゅる糞糞糞
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でまあ昨年の年末に、ブーレーズのワーグナーを聴いてて、思い当たることがあったね。
まあ話せば長いんだけど、あの人フランス人で、本来ワーグナー得意じゃないw しかしあの人特有のやり方でやって、業界に一石を投じたということがあった、らしい、リアルタイムじゃないのでね。七十年代かな。
で聴いてて、その片鱗を感じた。まあその後ブーレーズは指揮者として成功してそのころの攻撃的なスタイルは控えめになってしまったと思うけど、当初は、いわゆるドイツオーストリア系のロマン派的解釈に真っ向から対立するようなスタイルで、新風を吹き込んだといっていいと思うし、それはかなり衝撃的なものだったと思う。もちろんそれが万能で真理だというつもりはないし、もちろんむしろ逆なんだろうけどw、ワーグナーの音楽とか、そもそも音楽とは何かという点に人々の関心を向けたという点では、非常に意義は大きかったと感じるね。
でまあ彼の音楽スタイルというのは基本的にそうですね。まあフランス人らしい。セリエリズムという現代的な手法で、細かく音楽の構造を分析して再構築していくというスタイルですね。
つまりちょっと冷たい肌触りの感じのわけですね。合理主義の一つの極みというか。でも確かに、そのような観点から徹底して音楽を分析するということはあまりないことではある。特に人類の芸術において19世紀のロマン主義は絶大な威力を発揮して、それは二十世紀にも続いてたし、まあ私も率直に言ってそれには魅了されてるね。なぜかというと、ガチネイティヴ埼玉野人の私としては、そういうものは元々ないからw 今もない。鬼畜貧乏性生活をしてますからね。神ボッチでwww糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞
ので私の人生としては、ロマン主義を理解し体得する、ということに力点を置いてたというのはある。今でもそういう表現スタイルが基本的には好きだ。くどいようだが、それが私には欠落しているから、魅了される。
でもそればかりではないというのも事実で、まあある意味それは私はわかってる。根は保守長男質実剛健スパルタン鬼畜貧乏性だからね糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞
でまあまあ、簡単に言うと、ロマン主義というのは感情主義・表現主義だ。例えば十二音技法にしても、ドイツオーストリア系は感情を伴っているし、それに重きを置いている。まあ一つの理想の形かもしれない。ベルクやウェーベルンの最高傑作にはそういうものが凝縮されてると思う。
けど、フランス人というのは一筋縄じゃ行かないねw 奇をてらうw ので、構造的な観点に力点を移して、感情や背景的文脈を排した、クールなスタイルを追求した。まあそれが彼らの国民性にもあってるんだと思うけどね。それでそれは二十世紀のモダニズムと合致するので、一世を風靡したと思う。
現実生活に根拠を持っていない、悪く言うと技巧的な遊戯のような表現になるので、シュールな印象を与えるね。そういう超自然的な、メタフィジカルな表現が彼らの好みということになるかな。
まあ私も性質的にはなぜか案外フレンチなネイティヴ埼玉野人なのでww、今年はそちらに振ってみようかと思うね。まあ反省の意味もある。そういうわけで、私はロマン主義のほうに偏りすぎてたかもしれないから。
大体感情的になるというのは、いろんな勝負所なんかではよくないことが多いね。感情的であることは人間的で魅力的なこと、もっと言うと動物的で野性的なことであり、人間本来の姿ではあるが、現代、あるいは未来の社会では、そうではない部分がより重要になってしまうのは仕方ないことなのかもしれない。仕事の効率なんかも落ちるケースが多い。まあ結果を優先すればということになるが。
ツイートなんか見てても、今どきの日本社会は、リボ様のロマン主義・自然主義洗脳が大分いきわたってきて、みんなそんなで自然と触れ合ってw、平和で楽しく満ち足りて暮らしてるようだから、私はそろそろ逆に振ってみようかなと考えてるとこのわけです鬼畜逆神野人ぶれない(`・ω・´)
それでまあ、若いころに聞きかじったことにある、構造主義のとこととか思い出した。ブーレーズの表現の良いものの中には、そういう特別な瞬間があると思う。なかなか伝統的音楽界には理解されにくいから、あまり成功してないけどね。でも瞬間的に、そういう感情を排した非ロマン的な表現の中に、シュールな、超現実的な美の幻が見える瞬間があるように思うね。今まで聞いてきた、過去の巨匠たちやオリジナルとは違う何者かを垣間見たように感じる瞬間がある。
(私はマゼールが好きだが、同様の意味合いがある。彼はアメリカ出身の指揮者で、ヨーロッパの伝統にとらわれない表現をしていた。その際にはやはり構造主義のように楽譜そのものに典拠するというスタイルにならざるを得ないので、独特の表現主義的な古典主義になっていると思う。よい瞬間には、ブーレーズ同様、作曲者の意図を超えた美の瞬間に到達できることがある。クラシック音楽は、すでにある楽譜を繰り返し演奏しているわけなので、なぜ今もまた演奏するのかはよく考える必要がある。当時の時代の音を再現するだけで十分かといえば、そうではないと多くの人が思っているから今も演奏が続いている。私はそのように、よい演奏家や解釈者は、作曲家自身よりもその音楽を分析し得て、表現できる可能性がある、と考えている。まあ本当は自分でオリジナルを書くべきなんだろうけどねw)
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それで今年は少しそっち方面に振ろうと思った。感情を排して構造などに専念する。えーとなんかありました、ソシュールとかね。つまり、今まで私は、表現されている内容が、まあ重要だ、本質が重要だと、くどいほど書いてきたね。今どきのオウユダ売国世界はすべて詐欺なのでね糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞
でも詐欺でない表現や構造もある、はずww糞糞糞 表現されるものでなく、表現するものを分析して極めることで、今まで到達したことがない美や意味に到達できる可能性がある。中身は伴っていない幻想かもしれないが、ある意味では来たるべき世界の形を先取りできるような意味合いがあるかもしれない。
まあ多分、そのころの構造主義とかセリエリズムというのはそういうことを目指してたと思う。それをフランス人は得意にしてた。カッコつけだから。恥知らずだからw
でまあ恥知らず逆神野人としては、今年あたりはそっちを追求してみるのも悪くない頃合いかなと思ったというわけです。まあそれを昨年末にちょっと思い出したし、感じられたのでね。
それで今、本箱からロラン・バルトの本を引っ張り出してきて、読み直そうかと思ってるとこですね。まあ内容的には大体把握してる。「零度のエクリチュール」ですね。で今、前書きを読んでたら、やはりそんな内容で間違いなかろうと確認したところ。
まあこの本、薄い本で、内容も比較的簡明だったと記憶してる。一度しか読んでないが、文章は回りくどいんだけどw、内容的にはそういう主題がかなり明確で、複雑な話ではないと思う。むしろソシュール的な考え方をかみ砕いて紹介してくれてるような内容だったと思う。(当時のエースだったカミュを一つの理想形と考えていたようだ。)
ので、それを読んで、そのころに思い描いた世界をもう一度追及してみようかな、感得してみようかなということを考えてるとこですね。つーかまあ、いい機会だから少し追及してみようと。またひきこもることになるけどね。まあいいんじゃね行き詰まりを感じてたとこだからwww糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞
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まあ超簡単に言うと、さっき書いたように、感情的になりすぎると正解を逃してしまうことがよくある。まあこれ結構根深い問題で、いつもあるね。表現者は、自分の表現に酔わないほうがいいことが多い。そのほうが受け手の側にむしろ強い感情を引き起こせるということがある。
逆に言うと、私たちが感動を持って受け止めているものは、表現者のほうでは意外に冷静の極みにいるということは多い、ということが推測されるわけ。いろいろなジャンルの、優れた能力を発揮できる人がいて、それは私たちから見ると強い感情的な動揺を引き起こされるものだけど、やっている本人たちはむしろ冷静さの極みにいるということは十分考えられる。またそのような精神状態でないと、複雑微妙な高度な表現は可能ではないということはありうることだ。
まあそういう二律背反というものがあるのではないのかと私は思うわけですね。これはだからいつも永遠に続くものなのかなという気はするね。ジレンマに囚われつづける野人(´・ω・`)
まあ若い人は考えが足りないだろうからw、そういうことを少し考えてみるのも重要でしょう。自分だけが感動して酔っていても、外から見る人にはむしろ全然そんなではないということは多々あるものだwww
まあ私がいつも書くように、何を求めるかによるが。あなたがただ自分自身が酔っていたいと思うなら、何も考える必要はないが(酒を飲んだり薬物をやるのも一興糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞)、多くの人を納得させ心を動かすようなことがしたいと思うのなら、むしろ自分は酔ってはいけないのかもしれないわけだ。プロというのは大体そういうものだ。まあ仕事というわけでもないんだろうが、道を究めると、楽しみよりは苦しみが多くなるというのは事実かもしれない。でもそのような高みに行けば、自分では楽しくない活動も多くの人を感動させることはできるものかもしれないわけだからね。
私のサイクリングはまだ低レベルだから、自分で楽しんで継続できるようにしないとならない、という必要性で、あまり追い込んでいない。追い込んだらすぐにダメになってしまうほどまだ弱いからね。なので多くのビギナーの方なんかにもそのように推奨してる。
でもある程度強くなったら、楽しみは乗り越えないとならないだろうね。何かを成し遂げたいという目標があるのなら、そのために最善の方法を選び、集中しないとならない。特にライバルがいて競争があるなら、相手も大体似たようなことを考えて訓練してるということを想定しないとならない。人間はみな凡人です。あなたが考えてるようなことは、必ずみんな考えてるw だから、勝とうと思うなら、それ以上のことを考え、やらないとならない。それはもちろん容易なことではない。同様に相手もそのようなことを考えてやってくるからだねそして無限に続く(´・ω・`)
まあ私もそろそろ本気出さないとならない段階だしw、まあやるべきことも定まってきたし、限られてきたんで、少し感情を排して集中する段階かもしれないと思いました。ふざけてる場合じゃない。だから、なんちゃってを返上する年、ということになるかもしれませんね。結構まじめな話なのですw なかなかつらいけども、まあまあそもそも俺の感情なんてものに何の意味もないのだとしたら、こちらが本筋なのかもしれないと思うね。私はいろいろやっても結局神のようにボッチだから、完全にこっちの道に進んで脇目は振らないのほうがいいのかなと思うことが増えてます。もう俺はリアルにオワタからな糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞
というわけで、今年は零度のほうに振ろうかなと思ってるとこで御座候(`・ω・´)
やはり長くなった(・ω・;)
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