復活日本 ~その日まで~

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大和心への回帰ブログより・・・・・・57.日本人ならではの言葉。西郷隆盛「この仕末に困るもの」 ← 自戒を込めて、過去記事から学び直す

2017年07月29日 | 日記
57.日本人ならではの言葉。西郷隆盛「この仕末に困るもの」

2016年06月29日

ひらめちゃん
内記様

日月神示は全く聞きかじり程度の知識しかなく、ご専門の先生に直接ご解説をいただけるなんて、ありがたい事です。(しかも人様のブログで・・)
全て納得、頷きながら何度も読み返しました。ありがとうございます。

私は宇宙に想いを馳せて地球を俯瞰するイメージをよくしています。すると、すべての存在が愛おしく、悪の役割を演じている存在にも、感謝や愛を感じることが出来ますが、テレビやネットの前では相変わらず、うぬぬぬぬ、のギャップがあります。難しいです・・

内記様のご解説を読んでいると、在日反日勢力のことにしても、結局は自己の内的問題であることが分かります。自分の中の悪に対峙し、それを排除せず大きな視点から俯瞰することで認め、一段高い次元に昇華すること・・なのでしょうか。

それにしても、こんな精神論をこのような現実的時事ブログ(最近は違いますか)で、さも当たり前かのように語り合えるなんて、本当に世の中は変って来ているんだと実感します!
ありがとうございました。またよろしくお願いいたします。


花菱様が、ご多忙な中、腐心してまとめていただいた「余命三年時事日記アンケ-ト」の分析は、、目に見えない国民の覚醒過程や意識転換の流れを、目に見える形で公開されて頂き大変参考になります。

最先端をいく ゛生きた世論調査゛ として、公表していただいたことは大変意義のあることであり、深く感謝申し上げます。
http://yomei-hanabishi.seesaa.net/article/439431131.html
ところで、花菱様の「(覚醒の)きっかけ」の分析の中で、日月神示から余命ブログに辿り着かれた方が複数おられることが目に付きましたが、これも日本人の覚醒に影響が及んでいることの証だと言えそうです。
拙ブログには、日月神示研究の専門家・内記正時様とのご縁により、日本の辿るべき指針を、折に触れ投稿いただいております。
政治ブログでは、滅多にお目にかかる機会のない貴重な内容を提供いただいておりますので、ぜひご覧下さい。
(末尾に内記様のコメントを掲載しております。
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゛命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末(※)に困るものなり。

 この仕末に困る人ならでは、艱難(かんなん)をともにして国家の大業は成し得られぬなり。゛

                                        西郷隆盛

(※管理人注・「仕末」は原文。「始末」の誤変換ではありません。)
幕末の志士、西郷隆盛の名訓である。
平成の世に、この゛仕末に困るもの゛はなかなか見当たらなくなった。
それもそのはずである。
この西郷隆盛の言葉は、日本人の精神性ならではのものであり、欧米の物質至上主義に支配された価値観では、戦後GHQに洗脳されてきた多くの日本人も含め、到底理解できないであろう。
この世は、いかにして私腹を肥やし、名声と権力を手にするかが勝利者の条件であるが如く、全ては損得勘定で動いているからである。
そこに、損得を基準にした勝ち組、負け組といった価値観が横行し、利権あるところに人が集まり、争奪戦が展開されるのである。
その結果、勝ち組と称されるものは、人生の成功者であり、恰も賢い生き方ということになっているようだ。
このような価値観に支配された現世においては、利害得失を捨て、他利、公益のために命を懸けるものは、要領の悪い生き方、不器用な生き方、愚かな生き方として、ややもすれば変人扱いされ、蔑まされかねないのである。
世の中は、いくら儲かった、どうすれば得をするか、という価値観で世界中が動いているのである。
冒頭に、西郷隆盛の言葉が日本人の精神性ならでは…と指摘した意味についてである。
終戦による最大の悲劇は、日本人の精神性(大和心)を奪われたことである。
だが、戦前の世を生きた経験のない戦後生まれの多くの国民である我々でも、戦前を生き抜いた親の生き様の中に、日本人の精神性が残されていたことを無意識のうちに触れて育っていたのである。
私事で恐縮であるが、私の生家は15代続く雪深い酷寒の信州寒村の農家である。
かつては、代々庄屋を務めた由緒正しい家柄であったが、戦地から帰還して後を継いだ父親の代になると環境は激変していた。
農地改革により、山林や田畑は借地人優位の法に改められ、私が生まれたころには貧困に喘ぐ状態となっていたのである。
信州の冬は長く、初冬の11月あたりからは農閑期となり、父親は現金収入を得るため、当時バスで片道一時間かかる長野市まで出稼ぎに出なければ生活できない状態であった。
そのころの父親の給与は15000円。長野に出るためのバスの定期券が3800円であった。
他府県の方には信じられないだろうが、当時教育県と言われた長野には中学浪人が珍しくなかった。
現在とは違い、長野では私立は二流の烙印を押されていた時代であることに加え、公立でなければ学費も及ばなかったという時代的背景もあった。
私は高校受験に失敗し、15歳の時に浪人生活を送っている。翌年合格した時には、学年の1/3は受験塾で顔見知りだったほどである。
この浪人中、塾へ通うためにバスの定期券が3800円かかり、父親と二人分で給与の半額以上を支出する羽目になった。これは、私にとっていたたまれない思いだった。
高校に入るや、私は奨学金制度を申し出、長野市内に間借りをして自炊し、牛乳配達をして自活した。
父親の仕事の穴は母親が埋めていたが、並大抵の苦労ではなかった。
夜は辺りが暗くなっても、月夜明りで働いていた。幼少期までは明治4年生まれの曽祖父が生きていた。明治の男尊女卑が生き続けており、家族の序列は現在では想像を絶するほど厳格であり、母親は誰よりも早く起き、床に着くのは毎日深夜に及んだ。
それでも親は、世間に後ろ指を指されないように、子供には遜色なく出費を惜しむことはなかった。
この時代、所得水準が低かったことを別にしても、苦しくてもその責任を政治や社会に責任転嫁する風潮は見られなかった。与えられた環境の中で、文句も言わず、労を惜しまずに黙々と生き抜いていたのである。
父親は、損得二の次で地域社会のために貢献していた。
やがて人望を買われ、地方議員になったが、88歳で逝去した時、父の死を悼む住民のお悔やみ訪問で、葬儀会場は人で溢れた。
この時、私利私欲を捨て、地域に貢献した父親の偉大さを知ったのだが、遠く離れて住んでいる私には、生前殆ど語られることがなかった。
私自身は戦争を知らない世代であるが、両親の生き様の中に、今は失われた日本人の精神性に触れてきたことを改めて思い出すのである。
その精神性と民度の高さは、東北大震災で受け継がれ、今も生き続けているのである。
配給された食料を受け取るために、誰一人割り込むこともなく暴発もまったく起きなかった。
この映像は全世界に発信され、海外では驚きと共に感動し、これを奇蹟と呼んだ。
某近隣国家では、われ先に…と私利私欲に走る国民性が日常的に横行し、それが当たり前になっている。
東京ディズニーランドの2倍を越える規模で、内需拡大のためにオープンしたのはいいとしても、初日から落書きはするわ、割り込みはするわ、で日本人には到底考えられない感覚である。
またもう一方の某隣国では、祖国に愛着がもてないようである。
祖国に愛着が持てないものに、日本人の精神性が受け入れられるはずもない。
英国では、EUからの離脱を問う国民投票で離脱派が勝利した。
損得勘定は背景にあるものの、大英帝国の誇りが英国の文化、伝統が蝕まれていくグロ-バリズムに拒絶反応を示したということであろう。
だが、これは偏狭なナショナリズムへの回帰とは異なるものである。
経済優先の国際社会は、いまその価値観からの転換を試されているのではないだろうか。
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内記正時

大和心様、皆様
内記です。今回も宜しくお願い致します。

大和心様の「ブログに対する基本的スタンス」を読ませていただきました。しかと我が胸に刻み込みましたこと、最初にご報告させていただきます。

イギリスのEU離脱騒動で、私は「日月神示」の次の一節を思い出しました。以前のコメントでも取り上げていますが、極めて重要な神理と思いますので今一度記しておきたいと思います。

「金で世を治めて、金で潰して、地固めしてみろくの世と致すのぢゃ」(第二十四巻「黄金の巻」第五十九帖)

イギリスのEU離脱については、専門家や多くのメディアが様々な理由を列挙して解説しています。勿論それぞれ一理ありましょうが、最もシンプルに根源的な理由を切り取るならば、日月神示が示すように、やはり「カネ、カネ、カネ」に落ち着くように思います。

他の国々と組めばカネが儲かると思えば組み、組んだままでは損すると思えば離脱して守りに入る。これが最も深いところで国家の意思さえ決める動機だと言えましょう。大局的に見れば、国といえども「我れ善し」の人間と何も変わるものではありません。

イギリスのEU離脱が決定した時、日本メディアは何を伝えていたでしょうか?ほとんど全てがカネに関することばかりでした。曰く「対ユーロ、対ドルで物凄い円高になる」、「日経平均は最大3,000円下がる」、「リーマンショック以上の金融危機になる」、「アベノミクスは大打撃」「私たちの収入、年金、暮らしはどうなる?」等々、カネしか考えられない(或いはカネで世論を操ろうとする)メディアの報道には、正直ウンザリする思いです。

「金で治めて、金で潰す」という日月神示の神仕組は、紛れもなく「悪の御用」そのものです。
究極の「悪の御用」とは、悪(に見える現象・事象)によって人々を不幸や混迷のどん底、換言すれば地獄の三段目まで落とし、それによってその人の身魂(みたま)を磨き鍛えるというのが最大の狙いです(このように申せば、それは「悪」を擁護する詭弁だと思われる方がいるかもしれませんが、霊的次元では、決してそうではありません)。

イギリスのEU離脱による「カネ」の問題は、否応なく全世界を巻き込んで混乱の渦に落とし込むのは必定です。
ここで我が日本はどうするのか?どうでるのか?トップリーダーとしての安倍総理の正念場ではありますが、「日本再生」を目指す私たちの想念(波動の集積)が安倍総理を支える強力な「場」を形成しなければなりません。困難な時こそ「和をもって尊し」とする、これが大和心、日本精神の原点でありましょう。

次に、ひらめちゃん様のコメントで、「悪」について次のようなご質問がありました。

悪を抱き参らせる。
イシヤと日本の和合・・
日月神示のこの二つのキーワードが未来を開くと思い常々考えるのですが、内記様、大和心様はどのようなお考えをお持ちでしょうか。

個人的なご質問ではありますが、読者の皆様のご参考にもなると思いますので、この場をお借りして、核心部分について少々述べさせていただきます(長くなるためイシヤについては割愛します)。

まず「悪を抱き参らせる」とありますが、正しくは「善も悪も共に抱き参らせる」と表現されています。「善」だけでなく「悪」も共に抱くということですが、わかったようなわからないような極めて謎めいたテーマですね。ひらめちゃん様が仰るとおり、未来を開くキーワードには違いありませんが。

皆様は、この世から悪が無くなれば、善だけの世界になるとお考えでしょうか?
善と悪がそれぞれ独立して別個に存在するという「善悪二元論」の前提に立てば、答えは「イエス」ですが、日月神示が教える善と悪はあくまで「御用、働き」であって、両者は表と裏の関係になります。
このことを「善悪一如」或いは「善悪不二」などと言うこともできますが、いずれにしろ、悪だけを無くすことは原理的に不可能であり、善の裏には必ず悪の顔がある(その逆も)と日月神示は教えています。

一本の「棒磁石」を想像してください。
棒磁石の一端がN極ならば、反対側は必ずS極ですね。ここで、棒磁石を半分に切ったらどうなるでしょうか?N極とS極は別々に分かれるでしょうか?いいえ、絶対にそうはなりません。棒磁石は単に短くなるだけで、N極とS極は必ず両端に存在し続けます。いくら切っても同じことです。

どんな人間の心の中にも必ず「善」と「悪」があります。
そこで、善と悪の関係を、前記した棒磁石のN極とS極の関係に置き換えてみてください。どんなに細かく切っても絶対に分離できないN極S極のように、人間の心の中の善と悪もこれと同様分離することなど不可能なのです。このようにお考えください。

「善も悪も共に抱き参らせる」の意味を考えるには、まずほとんど全ての人が「悪を自分の外に見てしまう」という現実に気づかなければなりません。
日本の現状で言えば、自分の外に存在する在日・反日勢力が、「大和心、日本精神」と正反対の行動をとることは確かに「悪」に見えますが、さりとてそれを排除すれば、「善」だけに満ち満ちた日本が復活するというのは大きな間違いです。長い目で見れば、何も変わらないどころか、返って「メグリ」を積む結果を招くだけです。

このように、自分の外(他人)に悪を見ると、誰でも自動的(無意識)に「自分は善人」の立場に立っていることに気づいてください。ここに「自分=善」、「他人=悪」という構図が自動回路のように構築されてしまいますが、これが悪を排除すれば善だけが残るという大曲解を生む原因なのです。

自分の心の中の善と悪を分離できないように、世の中の善と悪も分離できるものではありません。世の中といっても、所詮人間の(想念の)集合体に過ぎないのですから。
また、人は誰でも熱い使命感や正義感に駆られている時は、「自分は善」と信じて疑わないものですが、その裏では無意識に自分を高みに置き、心地よい陶酔感に浸らせる「悪」がほくそ笑んでいるのです。

以上のことを念頭において「善も悪も共に抱き参らせる」の意味を考えれば、「外(他人)ではなく内(自分)」だということがお分りになられると思います。限りなく自分の心の中の「内的・霊的な作業」なのです。ここからスタートしなければなりません。

自分の中の悪の心、切り取って捨ててしまいたいほど醜悪な心、なぜそのような悪心が湧いて出るのか?何に気づけと誘っているのか?何を学ぶべきなのか?
どんなに苦しくても自分の悪心から逃げずに、真正面から対峙してその意味を問い続け、新たな気づきを得た時、その人の心はより高次の善へと昇華する・・私が考える「善も悪も共に抱き参らせる」とは、このようなものであります。

「他人(の悪)を赦す」という言葉は、一般的に「罪や過失を免除する、放免する」という意味に使われますが、これは現実社会の法律やルールの適用において成り立つ概念だと思います。
霊的次元においては、神ならぬ「我れ善し」の人間が、他人の悪を「赦す、免除する、放免する」権能はないと心得ています。
私たち人間にできることは、「悪」が反面教師として教えていることに気づくことであり、そこに至れば自然に外(他人)の悪を見る目も変わってくるはずです。そうでなければ、本物の気づきとは言えません。

悪に対する「怒り」を超えて「哀れ」を感じ、そのようにならざるを得なかった背景や境遇を「理解」しようと思い、やがて「(霊的な)受容」が生まれ、最終的には「(高次の善に昇華できたことの)感謝や歓喜の念」すら湧く・・これが「悪の御用」の真髄ではないでしょうか。

そこにあるのはやはり「魂の学び」であり、これによって私たちの「大和魂、日本精神」も大きく成長していくと信じています(ちなみに日月神示では、このことを「身魂(みたま)磨き」と称しています)。

抽象的かつ観念的で申し訳ありませんが、以上のように説明させていただきます。
長文・駄文にて大変失礼致しました。


2016年06月27日 18:2