こんにちは。rest2012です。
今回も30年くらい前に友人と撮影しました東武バスの写真をご紹介します。
菖蒲車庫で撮影したもので全ていすゞ製になります。
夕暮れ時に撮影したので少し寂しい感じもありますね。
私自身、幼い頃少しの期間、白岡町に住んでいたことがありました。
その頃の菖蒲町のイメージとしては、特になにも無い町という印象しか
ありませんでしたが、今は、モラージュなどで盛り上がっていますね。
ただ、不思議なことに、鉄道の無いこの菖蒲町にバスは集まるんですね。
昔は菖蒲上町がターミナルでした。
桶川、白岡、久喜、蓮田の各駅からこの菖蒲町にバスが集まります。
今は違いますが、似たような例として、かつて鉄道の無い町であった
・埼玉の鳩ヶ谷に国際興業バスが集まる。
・茨城のつくばセンターに関鉄バス、JRバス関東が集まる。
という現象に菖蒲町も似ている気がします。
最後にご紹介した写真は、今では懐かしい東武の観光バスです。
昔は、各路線バス会社が観光バスを多数有していたものです。
しかし、観光ブームが去り、ツアーバスへのシフト、競争激化により
鉄道系の観光バスはめっきり減ってしまいました。
バス正面の看板が東武バスではなく、東武鉄道となっているのが
私は今でも好きです。
私は昭和50年代の東北線の混雑率は258と本で知り、当時の大宮の一つ北寄りの東大宮では高崎線の宮原のように積み残しがあったのかあと思いお伺いしたわけです。
色々ありがとうございました。
私が住んでいた蓮田とは異なり、東大宮駅は最寄りの原市団地や尾山台団地の他、周辺利用者が多い駅でした。ただ今と違ってベットタウン化は進んでなかったので、積み残しや尻押ししないと列車に乗れないと云うレベルでは無かったと思います。それに当時は大宮駅止まりの上り線の電車もざらにあって恐らく起点駅は小山、小金井、宇都宮発車のいずれかだったと思います。短絡で返し、高崎線の上り列車と接続するのはザラで寧ろ大宮駅の溢れんばかりの混雑の方が凄かったです。この時代には急行列車も存在し、在来線特急の数も現在と比較にならんくらいの多さでした。
あと東大宮駅が混雑を感じるのは北隣の蓮田駅より停車する列車数が少ない事も関係していると思います。蓮田駅は優等列車を通過させるホームを持つと同時に準急列車停車駅でもありました。私が小学生だった昭和50〜51年の時点でも蓮田駅には準急列車が止まり、旧形の電気機関車だったEF57のデッキに大人から小学生くらいの子まで平気で乗っていたのをよく見かけました。旧形鋼製車両(恐らくスハまたはスハフ42/43)等は手動の扉だったので、解放した状態で平気で人が乗っているんですよ。今じゃ絶対に見る事が出来ない光景です。
あとこの時代には決まって春闘や冬の一時金闘争時期になると決まって列車のストライキや間引き運転を労働組合がやるもんだから駅に人が溢れてタクシーが大繁盛していたなんて事も珍しくなかったですねぇ。
突然の話で恐縮ですが昭和50年代の東北線の朝は
どれくらい混んでいたんですか?
東大宮あたりじゃ積み残しが出るくらいでしたか?
教えていただければ幸いですが。
長々と失礼しました。
ブログの管理人のrest2012と申します。
この度はコメントありがとうございました。
すみません、電車のことはあまり詳しくないもので(笑)
東大宮でそれだけ混んでいたとすれば
本数が不足していた等あったのでしょうか。
先日コメント頂いたM39881様の方がお詳しいかも
しれませんね。今後ともよろしくお願いいたします。
宇都宮線の混雑はどれくらい混んだんですか?
東大宮じゃ駅員が押さないと乗れないくらい混んだんですか?教えていただければ幸いですが。
岩槻駅〜蓮田駅は国道122号線経由で1時間に1〜2本は必ず運行していましたが、東大宮駅・大宮駅方面の本数となると2〜3時間に1本の割合です。
恐らく蓮田駅から岩槻駅方面へ向かう際の営業出入庫線の性格を帯びた路線だったのかもしれません。
また岩槻駅・蓮田駅・東大宮駅・大宮駅を結んだ地区は東武バスとの路線競合区域でもあった事から国際興業バスの防衛対策路線か路線免許維持の為に敷設された性格が強いと思います。
かつて蓮田駅〜大宮駅東口を結んだ路線も大宮市の丸ヶ崎地区を境に分断され、 現在では蓮田小児医療センター止まりになってしまいました。
今となっては過去形でしか語る事が出来なくてとても残念です。
rest2012と申します。
この度はコメント頂きましてありがとうございました。
私も一時期、白岡に住んでいましたので
蓮田のお話しはとてもなつかしいです。
路線バスの旅の番組でも蓮田駅が出ていましたが
ずいぶんきれいになったものだと思いました。
菖蒲車庫の担当エリアもかなり広い印象がありますので
運転手の方もご苦労があったと思います。
私が小学生の頃には大宮駅から蓮田駅への路線がなくなっており、蓮11-2という系統で大宮車庫→蓮田駅となっていました。また大宮駅から蓮田駅行きは復活してほしいところです。
この度はコメント頂きましてありがとうございました。
昭和46年頃迄は蓮田地区の東武バスは背中の丸いいすゞ車の旧々カラーを纏ったバスを運用していました。確かドアも中折り扉のバスなので、昭和30年代半ばの車両だと思います。当時の蓮田駅(現在の西口)は現在に至ってロータリーが狭く、車掌が外操誘導員を兼ねていました。バスの発着場は4路線分あり、1つは国際興業バスの岩槻駅行と大宮駅行。残りの3つは東武バス向けで高虫経由菖蒲上町行、根金・貝塚経由菖蒲上町行、国立東埼玉病院行(及び白岡駅行)にそれぞれに割り充てられていました。
昭和47年10月の市政化に伴い、蓮田駅も橋上化され、蓮田駅乗り入れの東武バスもその後1年程してからワンマンバスに更新しています。またこれに伴い、蓮田駅東口発着のバスは国際興業バスの岩槻駅行(及び東大宮駅東口経由大宮駅東口行)と東武バスの久伊豆神社・黒浜局前経由国立東埼玉病院(及び久伊豆神社・南新宿経由白岡駅行)の2つの乗り場(4路線分)に移設変更されました。
大宮、東大宮、上尾、桶川、久喜、岩槻、春日部地区の東武バスと比べると蓮田・白岡地区のワンマン化はかなり遅れていた様に思います。
最初期は栃木の関東自動車での音源を公開しているサイトがありますのでご参考になるかと思います。
私自身は見た程度の記憶しかなかったのですが、この音で思い出しました。
中期の音はトランスファーかミッションの経年劣化で音が大きくなる傾向があるそうで、早期に廃車になったツーマンや46年式ワンマンより延命された47~48年式が派手な音を立てていたのを記憶しています。
昔の東武バスで画像検索していましたところ、貴ブログを見つけまして「これは…」と驚いております。
ここに写る全ての路線車の幕の系統表示が四角で囲われていない
系統制最初期のタイプのもので特筆されます。
これは系統番号導入時に前後の方向幕窓に系統番号と行き先の間の隙間に車体色の青い仕切りを貼り、
あたかも系統番号幕が独立したように見せていたものの名残でして、
昭和53年頃までの東京、埼玉、群馬のごく一部の営業所に導入されたものでした。
後に仕切りを剥がした結果、このような形状になっています。
この世代ですと、桶川駅~細谷~菖蒲上町間の系統番号が(桶02)ではなく大65になっていたはずです。
これは大宮商工会館(現在のソニックシティ)から17号国道を宮原一丁目まで進み、
中仙道に入り上尾車庫、桶川駅入口(駅前には入らない)を経て菖蒲上町に至る系統でして、
桶川駅発着はその区間系統扱いでした。
大宮乗り入れ廃止後も幕交換までは当時の幕を使い続けていました。
また、平成初期まで続いていた桶川~北本間や、白岡~春日部間もあったはずです。
逆に東武動物公園開設時の白岡~動物公園西口間は幕継ぎ足しで対処していたはずです。
またお伺いさせていただきます。更新を楽しみにしております。