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連珠学1

神無月好男が、連珠にかかわる薀蓄を、好き放題に傾ける部屋。本講座の講師の専門は、四追い論。

四追い界の4大潮流について(7)

2005年07月25日 | 四追い論(shioiology)

さて、いよいよ最後、4つめの潮流です。これが何と呼ばれているのか、ここまで、その名を明かしてきませんでした。この潮流は「難解作」と呼ばれています。

「難解作」とは、読んで字のごとく、正解四追い経路を発見することが難しい、迷路のような作品のことです。坂田吾朗の「これが四追いだ」(「連珠世界」誌1966年1月号)が、そのエポック作でしょう。「初手から最後の一手までを完全に読み切らなければ絶対に解けない問題を作ることも可能だ」という作者の信念のもと、どこから打ち出してよいものやら、ちょっと見ただけではとても判断がつかない作品が作られました。【余談として、それなら…と、盤と石とを使わず頭の中だけで本題を本当に読み切った連珠家が2名ほどいる…と風の便りに聞いています。】

「難解作」は、ルール変更が生み出した新たな潮流であり、19道四々勝ちルールでは存在し得なかったものです。なぜなら、四々が禁手でなければ、難解作のすべては簡単な余詰め作となって、構想そのものが破綻してしまうからです。

19道時代の四追い作品と、15道以後の四追い作品を解き比べてみると、すぐにわかることですが、四々が許されていた19道時代の作品は、四追いの過程が単調です。禁じられていたのは黒の長聯(6つ以上並ぶ)と三々であり、「四を追う」ときには、どちらについても、まず心配する必要がありませんでした。

それが四々禁へと変更されたことにより、状況は一変します。解答者の立場としては、解案中に四々禁箇所を見つけて、一瞬ドキッとします。作家の立場としては、(1)四々を使って余詰めを消す、(2)長連筋を逆用したり、一方の四先を無理やり止めさせるように仕向けたりすることで、禁点を解禁し打てるようにする等、四々の禁点をめぐる虚々実々のかけひきが、作品に盛り込めるようになったのです。そのため、難解作でなくても、15道四々禁ルールのもとでの四追い作品は、それ以前のものよりも、四追い過程にはるかに深みが出せるようになった。…これはまちがいのない事実です。

そして、この深みを突き詰めた、言い方を換えれば、そこをとことん強調した作品が、「難解作」と呼ばれるものなのです。

坂田吾朗の「これが四追いだ」の後、丹野修吉が「人類月に立つ」(「連珠世界」誌1969年10月)で難解作に挑戦しますが、残念ながら余詰めでした。この後も多くの作家が試みていたとは思われるのですが、迷路が多い=余詰めが出易い、こともあったのでしょう、次の完成作が現れたのは11年後のことでした。

「連珠世界」誌1978年9月号の四追い作品コンクールに、河尻幸伸「七度狐」と、J.トラボルタ「サタデーナイト・フィーバー」が同時に発表されました。後者は、現代的な感覚ではたいしたことのない難しさですが、当時はとんでもない代物だったようです。前者に至っては、それに輪をかけたとんでもなさ。これ以降、難解作がたいてい1作はコンクールに入選するようになり、解答を寄せる読者数が、この年の59名をピークに、減少の一途をたどります。

河尻幸伸は、この後数年おきに難解作を発表します。一方のJ.トラボルタは、「プロゼ」(「連珠世界」誌1978年12月号)、「表参道」(「連珠世界」誌1979年1月号)など、コンクール後も次々と難解作を発表します。そして1979年10月、今もって史上最難題とされる「これが四追いだPart2」を世に問い、坂田吾朗の意思を継ぐ者であることを宣言したのです。その後も難解作を作り続け、「四追い界に頭痛の種を持ち込んだ」とさえ称されるようになりました。本講座の講師は、「十年フィーバー」(「連珠世界」誌1989年10月号)が、J.トラボルタのベスト作品だと思っています。

8年後、J.トラボルタの後に現れたのは、木村一美でした。氏の「妖怪の館」シリーズ作がそれです。J.トラボルタの初期の作品がそうであったように、「妖怪の館」シリーズもまた、無理やり腕力で作図している感の強い作品群です。J.トラボルタがその後、難度はそれほど落とさず洗練された題図と四追い順へと昇華していったように、木村一美にも同じことを期待したのですが、ここしばらく作品の発表がないのは残念です。

木村一美の後の作家は、まだ出現していません。相当程度の棋力と気力(根気)を必要とするであろうことは容易に想像できるので、やむをえない面はあるのですが…。


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