
日本国憲法原本
戦後まもなく、東大法学部長の我妻栄は日本占領にあたったGHQ(連合国総司令部)に呼び出された。GHQ幹部等の前で我妻は、「My name is my wife(わがつま)]と自己紹介した。GHQ幹部等は大爆笑した。「日本人法学者にもユーモアを解する奴がいる」と好意をもたれた。我妻の計算通りだった。

我妻栄
我妻等はGHQから新しい日本憲法の起案をGHQから求められた。我妻は太平洋戦争の実体を知っていた。南方からの石油を日本へ運ぶタンカーは次々と米国潜水艦に沈められた。太平洋の個々の孤島に守備隊を置いたが、米軍が上陸した島の守備隊は全滅し、米軍が上陸しなかった孤島では守備隊が餓死していった。
我妻は日本の政治や軍事のリーダー達にはほとほと呆れ果てていた。しかし愚かなリーダーは今後も現れるであろう。「日本国民は将来、外地での戦争に巻き込まれてはいけない。幸い、GHQは日本の軍事力復活を恐れている。それならば、新憲法に、日本は外地での戦争を放棄するという案件を盛り込もう。GHQから指導された、強制されたという形にすれば、今後、日本が戦争に巻き込まれることはないだろう。」我妻らの巧妙な企みだった。このようにして、1947年、いわゆる日本国平和憲法は発令された。その後、日本はたびたび米国から自衛隊の海外派遣、戦争参加を求められたが、「あなたがたが押し付けた憲法のために参戦することは禁止されています」と言い逃れることが出来た。

岸信介
1960年、岸信介首相は熟慮していた。日本には国土防衛上の最小限の軍備しかない。しかし、冷戦は厳しさを増している。核爆弾を多数保有し、強力な軍備を有する国々が周辺に存在する。日本の防衛はどうあるべきか。日本が抑止力として核を有するのは論外である。米国と軍事同盟を結び、その庇護のもとで対峙するよりほかはない。岸は日米新安保条約締結の決心をした。当時、日本が戦争に巻き込まれると考えた学生たちの、反安保運動は非常に激しかった。しかし、その後の日本の経済繁栄は岸の決断に負うところが大きい。
概して、岸の評判は悪い。官僚的イメージ、戦犯容疑者としての過去に起因するものであろう。しかし、現在、改めて、岸の決断力は評価されるべきであろう。

我妻栄記念館(米沢市内)
我妻栄は、米沢の武士の出であり、米沢で生まれ、育っている。本ブログ中、https://yaplog.jp/rekishi-houko/category_58/参照。現在は、米沢駅から徒歩10分にある生家は、我妻記念館として保存されている。一度訪れる価値がある記念館である。
岸信介は、源義経の家来である、米沢在の佐藤兄弟の子孫であることを誇りにしていた。本ブログ中、岸信介と米沢参照。
岸と我妻は東大法学部の同期生、友人であり、岸は日ごろ、「同期では、成績は我妻君が一番で、私は二番だった」と自慢していた。岸も我妻も意識していなかったが、くしくも両者はともに伝統的な米沢の侍魂を心底に秘めて日本の歴史を動かしていたのである。

米沢城跡
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ペンネーム:高井元信
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この機会に、読み直していただければ幸いです。

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