海辺暮らし

都会を離れて海辺でスローに暮らす…のはいいんだけど

葬儀はハレの日

2008年03月12日 | Weblog
今日は午後、お葬式である。
私の恩師の葬儀に参列する。
すでに弟子ではないけれど。
同じかつての弟子仲間である友だちが連絡をくれた。
いつもテンションは低く、しかも愚痴の電話なのか相談の電話なのか、私に求めているのがなんなのか分かりづらいひとである。
その彼女が、「駐車場が混むらしい」とかの、まあ些細な情報をたびたび電話してくる。
彼女のいつにないテンションは、毎度私がいうところの「葬儀というと張り切るひと」のものだった。
少なくとも日常生活に倦んでいるひとは、葬儀などの「ハレ」の場の出現を、じつは喜んでいる。
もちろん悲しみの場である。
それなのに、そこに集う人々の多くは、なぜか張り切っている。
ハレとは「晴れ」、儀礼、セレモニー。日常と対極にある非日常のこと。
ハレとケですね。非日常と日常。
晴れの場とかいうでしょ。葬儀も「晴れ」の場なのだった。
人類がどういういきさつで、葬儀というセレモニーを始めるに至ったかは知らないけれど、その必要があったのだろう。
なにごともバランスだ。
日々のルーティンワークと、節目節目の儀式を、うまく織り込んで人々は暮らしていたのだろうね。
儀礼的なことをどんどん捨ててきた私たちは、いまその逆襲を受けているのかもしれない。
儀礼的なこととは、「ねばならない」、社会のルールだ。
そう、火事と葬式は村八分から除外されるのよ。
この地域に来てそれを聞いた。
村八分同然のひとでも、葬儀にはきちんとお呼びがかかる。
どこかセーフティネットのおもむきもある。
「ねばならない」を放棄して、やりたいことばかりやってくると、当然そのツケが回ってくる。
「奴隷はいやだ、自由が欲しい」とわがまま言っているうちに、ひとりぼっちになるのである。
だってね、「完全な自由」とは、「絶対孤独」なんだから。
ほどよく「ねばならない」に従い、ほどよく「私の欲するところ」を求める。
これが理想だけどね、これをいちいち自分の頭で振り分けようとすると大変だ。
だから昔からの儀式がある。田舎にはそれがまだ残っている。
冠婚葬祭に関しては夫の意見や近所のひとの意見を聞くことにしている。
いちいち「私の場合はどうするか」なんて考えることもないかと思うのである。
葬式というと張り切るひとたちを見て、ふしぎだなあと感じていた。
今日は、ひとつ納得した思いだ。
かの友人も、近所の葬式大好きおばさんも、要するに退屈しているのだ。
日常の平々凡々な繰り返しに辟易しているのだ。
ね。だから子どもや自分の病気探しをしたりする。
毎日汗水流して働いていた時代にはそんな暇はなかった。
豊かな、そして自由な時代だから起きる皮肉だ。
ひとの振りみてわが振りなおせ。
はいはい。お後がよろしいようで。

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1 コメント

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検索して (参列者)
2011-03-02 13:18:04
検索してたどりつきました。
社員の親族の葬儀にやたらしゃしゃりでる上司、
仕事ほったらかしで参列者や花輪、提灯持ちなど
の調整に大張り切り。
喪主にとっても参列者にとっても迷惑ですが
当日は彼の招集した参列を見てとても満足げ。
まさに”葬儀はハレの日”です。
私の身内の葬儀の時には取り仕切られても困るので
事後報告としました。

因みに村八分とは、の残り二分とは
火事と葬式の事で、このときばかりは
呼んだり手を差し伸べたりするらしい。
これは火事で延焼すると困るし、
死人を放って置くと病気が蔓延するためだとか。

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