海辺暮らし

都会を離れて海辺でスローに暮らす…のはいいんだけど

二人だけのシーソーごっこ

2009年01月09日 | Weblog
また17歳の少年の父殺しのニュース。
また、と書いたけれど、そんな感じだから。
父を好きだけれど好きではない、といった書き込みがあったらしい。
うむ。
よく分かる。
自ら110番した彼は、警官が到着したとき玄関で震えていたと言う。
何とかできなかったのだろうか、と思う。
10年近く父と子で支え合って生きてきたのだろう。
支え合う…もっとはっきり言えばよりかかりあって。
よりかかりあって暮らしている老夫婦である私たち。
その片割れである私だから分かる話なのだけど。
もたれあい=依存しあう人間関係がいけないとは言わない。
しかし子どもが大人になるときは問題だ。
子どもは親から自立して、社会に出ていく。
このときこそ親が幸福であることが重要になる。
そう「幸福」だ。
不幸な親は子どもを自らのつっかい棒にしようとする。
もちろん無意識にね。
子どもだけが生きがい、なんてセリフには気をつけたほうがいい。
子どもへの親の愛が、まるで真綿で首を絞められるような苦しみとなる。
父親を好きだけれど好きではない。
この感じ、わかる人は多いのではないか。
巣立とうとすると、危ないからと引き止められ、
外に出るのをためらっていると、巣立てよと言われ…。
二人の間でシーソーごっこが展開する。
おそらくはこの息苦しさから脱出することの必要性を感じていたのだろう。
少年は父親を殺すつもりなんかなかったのだろうに。

このように一対一の人間関係は、外に向かって閉じてしまうから怖い。
二人だけのシーソーごっこには、終わりがこない。
引きこもりを打開したかった、と彼は言った。
誰かに助けを求めろよな。

わが夫婦の二人暮らしも、なんとか落ち着いた。
しかしやはり出てくるのである。
当然だろう。
人は自らの力で生きていく。
誰の指示でもなく。
人と人は、奴隷と主人ではないのだからね。
しかし時に、密着しすぎた関係は、相手の領域に踏み込みすぎるのである。
わが夫婦にとって、訪問者もない、外出する用事もない正月は危険であった。
夫はそんな見方はしないと思うけどね。
何となくいらいらしてきた私は、
身体を動かしに行きたい、と表現した。
彼はなんでもなさそうなふりをした。(あるいは私にしがみついた?)
私にとって「身体を動かしに行く」=「フィットネスに行く」とは、窮屈な檻から出る、ということでもある。
たいへん申し上げにくいのですが。
夫だって同じだと思う。
24時間同じ顔ばかり見ているのは、苦痛でしょ。
どんなに惚れた相手であっても。(じつは相手の、特に惚れた部分ほどいやになる)
びろうな話だが、便秘の原因を運動不足に求める私に異議を唱える夫。

その夫さまが、ホームセンターに行くそうである。
午後一のフィットネスの前に、行くことにした。
なのでまたね。

尻餅ついた恋。

2009年01月06日 | Weblog
昨年の暮れに、「生活」が楽しい、と書いた。
これはね、日常こそ愉し、という意味。
昔から、そう若い頃から「非日常」が大好きで、
だからもちろん祭りが好きで、恋が好き。
旅が好きで、空想が好きで、おはなしが好き、であった。
よほど「日常」=リアルが居心地悪かったのか。
いやいや、非日常の快感に味をしめたに違いない。
今や私は日常大好き人間になった。
なんなんだろうね。
つい数日前、この問いに対する答えが頭に浮かんだ気がしたが。
忘れてしまった。しょうがない。
日常っていうのは、退屈なものである。
昔、私は退屈に耐えられなかった。
もしや、ちやほやと大人に囲まれて王女のごとき扱いを受けていた幼少期の影響か?
どうしてか、なんて分からないでよろしい。
ただ退屈が苦でなくなったのは、とても嬉しい。
だって、退屈ってけっこう辛いんだから。
退屈している暇に、床磨き。
本当なのよ。
私の年末、「掃除の時間」だった。
文字通りあっちこっち掃除をしながら、いいなあいいなあ、とひとりごちた。
60歳を過ぎて、ああそうか、私、人生のお掃除の時間なのだ、なんてね。
ずっとお掃除なんか大嫌い、家事も苦手、お手伝いさん付きで結婚したい、と豪語していた横着娘だった。
結婚して子どもを産んで、家事・育児に奮闘した時期はおよそ10年。
さあ時間が出来た。退屈はいや。
仕事を求めたら運良くいい仕事に恵まれた。
この仕事が私の「非日常」好きにぴったりだったね。
やっちゃば=青果市場のような活気。
これは「祭り」じゃありませんか。
ここで私の能力が開花した。
仕事が早い! 呑み込みがいい! 要領がいい!
あっちとこっちと同時にこなす業師だ。
自分の能力が全開状態のとき?
それは当然快感でしょ。
祭りだ、祭りだ! 
ノリで突っ走る。
前進あるのみ。脇目もふらず前へ行け。
攻撃こそ最大の防御なり。
ねえ。
これって、私ひとりのことかしら。
時代とともに走っていたのだと、つくづく思う。
バブルがはじけても、まだ祭りは続いていた。
祭りは祭りを招く。
そう、恋ってやつ。
やたらでっかいサカナと波長あってさ。
とほほとほほの大波乱が起きた。
恋はやがて日常に落下する。
尻餅ついた恋。
おほほおほほの大落下。
お尻の痛さは半端じゃない。
痛みというのは、幻想を壊すに最も適した感覚だった。
痛みに耐え、いや痛みのない肉体なんてあるもんか。
そうかそうか、夢心地の「非日常」は、日常ではないという自明。

地に足のついた暮らしの楽しさを、身体が思い出した。
箒で掃く。
雑巾がけをする。
これってねえ、やってごらんなさい。
掃除機で掃除するよりずっと楽しい。
目線は対象に限りなく近づく。
高いところからエラそうに掃除する気分と、明らかに違う。
床や窓ガラスと身体が接触する。
これがどうやら楽しさのようだ。
凍るように冷たい水、ってわけじゃなし。
お湯を使い、仕上げに掃除機で吸い取るのよ。
楽しんじゃいけないかしら。
夫をはじめ一部の人は、辛気くさい顔していないと仕事していると見ないようだから、たまには真面目な顔をするけれど、ほんとは楽しい、るんるん。

話は戻る。
非日常の幻想破れて、ドライ&クールになった私。
夫は相変わらず「一杯のかけそば」に涙したころの心情を持ち続けて、
先日は「きみの父さんこそヒーローだよ」という木村拓哉のセリフに泣いていた。
引くね。
父親という自らのアイデンティティが満たされぬことに涙したのか、なんて深読みもしてみた。
でも、なんだこの人、変わってない。
私ひとりが幻想破れたのか。
このギャップは何でしょね。
彼がぶちあげたアドバルーンを、勝手に誤解したのはわ・た・し。
だからまあ、「夢」とか「幻」にご用心、ってわけなのだろう。
そうでもしていないと私って、危ういからなあ。
今度はどんな風船に魅せられるか。
まさか、もうないと思うけど。

このように私は、自分がマインドコントロールされやすいことを知っている。
恋をする人としない人の差は、そこだもんね。
しかし、である。
時代にマインドコントロールされてしまった人間は多い。
そう時代の空気に、ね。
それを自覚しているかしていないかの違いはあるけれど。
無縁な人はいないと思うよ。

今、世界中が金融という幻想のシャボン玉が壊れて大慌て。
慌てることないよ。
ほら、日常の楽しさを思い出してみない?
これが私のメッセージ。

たたえあう循環

2009年01月05日 | Weblog
2009年のブログが今日から始動です。
なんだかずいぶん長い間留守にしていた感じで、
そんなときは戸を開けるのが怖いもんです。
ずっと学校を休んでいるとますます行けなくなる不登校にも似て。

暖かい冬です。
母の病気のおかげで、弟妹とのやりとりが増えました。
いえじつは、母との交流が深まったのですね。
私個人について言えば、狂言回しの役割が板に付いたと言いましょうか。
とにかく筆まめなのが私の一台特徴ですので、
筆無精な人々の間を縫うようにメールを届け、
まあ、関係の潤滑油の役割を発揮できたというところです。
もともと家族のなかでの役割が酷いものだったので、
このポジションを得て、
これは私の成長を物語っているな、と自画自賛。
自画自賛なんて言いますけど、
まずは自分を誉められないでどうしましょ。
他人を心から祝福することなどできません。
世の中がギスギスしているときほど、たたえあう心が大事よねえ。

新年早々、ため口日記で申し訳ないけれど。
とりあえず更新、です。