
文久二年四月廿七日、薩摩藩船宿寺田屋の事変に際し、2階に集結していた薩摩藩士廿二名=西郷信吾(のち従道)・大山弥助(のち巌)・篠原冬一郎(のち国幹)・伊集院直右衛門(のち兼寛)・永山万齋(のち弥一郎)・三島弥兵衛(のち通庸)等は、上意に応じて投降したが、寺田屋には、他藩の脱藩士や公家侍=田中河内介・磋磨介父子・真木和泉守・吉村虎太郎など久留米・秋月・土佐・佐土原の諸藩士廿余名も詰めていた。彼等も薩摩藩の京都藩邸(錦小路屋敷)に連行され、軟禁状態に置かれた。その後、諸藩士の多くは、釈放されたが、田中父子とその甥(おい)千葉郁太郎(但馬多気郡栗山村出身)、その義弟中村主計(肥前島原出身)と海賀宮門(かいが・みやと=黒田筑前秋月藩士)の五人は、薩摩に潜伏することを希望したので、鹿児島に護送されることになった。
大坂から鹿児島に向かう途中、五月一日、田中河内介父子は、播磨灘あたりで、警固の者によって斬られ、翌日、遺骸は、讃岐の小豆島に漂着した。残りの海賀・千葉・中村の三人は、別の船に乗っていて、田中父子の最期を知らなかった。護送の薩摩藩士らは、わざと時事について口論を仕掛け、五月四日、日向細島に着くと、果たし合いを挑んで、この小島で、三人を殺害した。当地の黒木庄八は、三士の遺骸を発見し、小島に墓碑を建て、供養を続けた。現在も、地元の人々は、「黒田家臣の墓」といって大切にして守っている。
※小島は、日向岬にあります。→国土地理院2万5千分1地形図 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=322535&a.. を御覧ください。


2010年10月18日撮影 国内 九州 宮崎県
大坂から鹿児島に向かう途中、五月一日、田中河内介父子は、播磨灘あたりで、警固の者によって斬られ、翌日、遺骸は、讃岐の小豆島に漂着した。残りの海賀・千葉・中村の三人は、別の船に乗っていて、田中父子の最期を知らなかった。護送の薩摩藩士らは、わざと時事について口論を仕掛け、五月四日、日向細島に着くと、果たし合いを挑んで、この小島で、三人を殺害した。当地の黒木庄八は、三士の遺骸を発見し、小島に墓碑を建て、供養を続けた。現在も、地元の人々は、「黒田家臣の墓」といって大切にして守っている。
※小島は、日向岬にあります。→国土地理院2万5千分1地形図 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=322535&a.. を御覧ください。


2010年10月18日撮影 国内 九州 宮崎県
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