世界と私

このブログのタイトル「世界と私」について

ブログを「世界と私」というタイトルにしたのは、世界というものを学んでいくと同時に自分自身についても知っていこう、向上させていこうという考えからです。その考えの根底にあるのは大なり小なり自分と世界とは相互作用しているし、無関係ではいられないという単純な思考です。さらに、分からなかったことが分かるようになりたいとか、出来なかったことが出来るようになりたいというような、生命の進化を求める本質的な欲求を反映させた単純なタイトルにしました。

世界という言葉を環境という言葉に置き換えてみるとより身近に感じるかもしれません。環境に影響を与えるのも自分であり、環境に左右されるのも自分であるけれど、環境は環境、自分は自分と分けて考えることも出来ますね。
では、環境を変えるといっても人間一人が変えられる環境とはどれほどのものなのでしょうか。自分の部屋とか庭ならば、比較的簡単に変えられますよね。しかし、学校や会社となると条件や制限をクリアしていかないと個人の力ではなかなか変えることは出来ません。ここで、すぐに諦めてしまうのか、一つずつクリアしていくのかを決めるのは本人の意思次第です。ただ変えるとはいっても本人や一部の組織のエゴの実現のためだけに動くのか、そうでないのかというところが重要で、ここにその人や団体の器の大きさが表れてくるようです。

実現を図るといった観点において、個人や組織が計画を立て、自分たちの利益のためだけに手段を問わずに周囲を利用し、実現を図ることを「陰謀」といい、そうでない方を「願い」というのが適切な表現な気がします。
ただ、100%どちらかに分けられるというのは個人レベルではほとんどないでしょうけど、現在の世界の潮流は牛耳ろうという勢力と解放しようという勢力のせめぎ合いのような気がします。

牛耳るために上意下達で金や権力、テクノロジーなど結集するのがまさに「陰謀」です。しかし同じように、より人間らしい世界を目指す「願い」を持った人たちも金や権力、テクノロジーを持っています。ただ後者は上意下達よりも、組織化されていないムーブメントを味方に出来ているところが大きいですね。陰謀を持つ人々は周囲や関係者を騙せなくなったら終わりがくるという考えは普通ですし、矛盾やウソを抱えたままではそのうち統合できなくなって自己矛盾から分裂へと向かうのは自然の理ではないでしょうか。

つまり、「陰謀者」は医療ファシズム等による支配の実現どころか、逆に制限がかかってくるということです。実際、非公式ですが、米国では軍事裁判で裁かれている「陰謀者」が多いらしいですね。

このような世界の動きや日常生活から学べることは学び、言いたいことは言い、やってみようと決めたことはやっていく。それがこの個人ブログの趣旨です。


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