いや。新三の忠義さに感動してしまって。よ、良かったな、新三。五郎左殿が許してくれて。良かったな」
「もう元服したので、新三はやめてもらえませんか」
と、憎たらしい顔だった。
絶対にたまは渡さない。
七月十三日。
上総介は伊勢長島を討伐するべく、嫡男勘九郎とともに岐阜を出立、同日、木曽川下流に面する尾張西部の津島に着陣した。
尾張津島から南西方向にかけての伊勢長島一帯には美濃から流れ出る川が幾条にもなって集まっており、大きな川だけでも岩手川、大滝川、今州川、牧田川、一之瀬川、木曽川などなどがあり、これらの大河に加えて周辺の山々から流れ出る谷水もこの地で合流している。
これらの流れは長島の東西北を幾重にも囲みながら南の海へとそそがれており、この中に位置されている長島は四方を天然の要害に囲まれた難攻不落の地であった。
およそ五十年前、この地に本願寺中興の祖である蓮如の六男蓮淳によって浄土真宗本願寺派願証寺が立てられた。願証寺は地元の国人、地侍を取り込んで地域を教義支配し、さらには賊や罪人を囲いこんで門徒衆十万人、石高約十八万石という大教国を作り上げた。
かつては尾張の国人領主たちばかりではなく、美濃の斎藤道三でさえ、まったく手出しのできない存在であり、上総介も上洛のときにこれを避けており、願証寺側も介入してこなかった。
沈黙に火花が落ちたのは、織田と三好三人衆とのいくさに宗家石山本願寺が参戦したためである。願証寺はこれに習って北伊勢の豪族たちや紀伊の雑賀衆などに檄文を飛ばし、これらがぞくぞくと集結。
数万に膨れ上がった軍勢は織田方であった長島城を一気に攻め落とすと、次いで上総介実弟、彦七郎信興が城主を務める尾張小木江城に進軍。
彦七郎は兄の上総介に援軍を要請するが、織田本隊はこのとき琵琶湖西岸を京に向けて南下してきた浅井朝倉勢に対応せねばならず、さらには比叡山に立てこもられてしまい、動くに動けない状況であった。
北伊勢桑名城の滝川彦右衛門も一向宗に攻め立てられており、完全に孤立してしまった彦七郎は、六日間奮戦し耐えたが、多勢に無勢、小木江城は落城し、彦七郎は八十人の家臣とともに自害を果たした。
上総介が長島一向門徒衆に向ける憎悪は浅井長政への比ではなかったが、長島への侵攻を二度失敗している。
一度目は東西各地の中洲に築かれた砦を攻めるも、河が容易に進軍をさせず、さらには数千から万単位が立てこもった砦からは鉄砲、弓矢が雨あられと飛んできて、河上の要塞と化した長島になすすべがなく、撤退。この退却戦において柴田権六郎がしんがりを務めたが、氏家卜全、犬の夫であった佐治八郎などが討ち取られた。
二度目は一度目の失敗を反省し、海上からの進軍を目論んだが伊勢大湊での船の調達の交渉していた上総介次男、北畠三介具豊の動きが芳しくなく、本隊は北伊勢のある程度は攻め入れたものの本拠長島の攻略まではいかず、撤退。そこを一向宗はしたたかに待ち伏せして狙いうち、織田軍にとっては再び惨憺たる退却戦となった。
三度目の正直かどうか、上総介は長島討伐を号令し、織田総所領から軍勢を津島へとかき集めた。
その数、八万。明智十兵衛と羽柴藤吉郎は、京、越前、と各々の業務のために参戦していない。にも関わらず、この大軍勢であった。
戦場へ
武田攻略に専念しているので今回の長島侵攻も不参加であろうと高をくくっていた牛太郎であったが、上総介からの下知は参戦。
「兄上様は長島に向かわれるそうですね」
犬は百日紅のつぼみを眺めながら言った。普段は柔らかい表情が少しうつろげであった。
「でも、左衛門尉様は岐阜にお残りになられるんですよね
「もう元服したので、新三はやめてもらえませんか」
と、憎たらしい顔だった。
絶対にたまは渡さない。
七月十三日。
上総介は伊勢長島を討伐するべく、嫡男勘九郎とともに岐阜を出立、同日、木曽川下流に面する尾張西部の津島に着陣した。
尾張津島から南西方向にかけての伊勢長島一帯には美濃から流れ出る川が幾条にもなって集まっており、大きな川だけでも岩手川、大滝川、今州川、牧田川、一之瀬川、木曽川などなどがあり、これらの大河に加えて周辺の山々から流れ出る谷水もこの地で合流している。
これらの流れは長島の東西北を幾重にも囲みながら南の海へとそそがれており、この中に位置されている長島は四方を天然の要害に囲まれた難攻不落の地であった。
およそ五十年前、この地に本願寺中興の祖である蓮如の六男蓮淳によって浄土真宗本願寺派願証寺が立てられた。願証寺は地元の国人、地侍を取り込んで地域を教義支配し、さらには賊や罪人を囲いこんで門徒衆十万人、石高約十八万石という大教国を作り上げた。
かつては尾張の国人領主たちばかりではなく、美濃の斎藤道三でさえ、まったく手出しのできない存在であり、上総介も上洛のときにこれを避けており、願証寺側も介入してこなかった。
沈黙に火花が落ちたのは、織田と三好三人衆とのいくさに宗家石山本願寺が参戦したためである。願証寺はこれに習って北伊勢の豪族たちや紀伊の雑賀衆などに檄文を飛ばし、これらがぞくぞくと集結。
数万に膨れ上がった軍勢は織田方であった長島城を一気に攻め落とすと、次いで上総介実弟、彦七郎信興が城主を務める尾張小木江城に進軍。
彦七郎は兄の上総介に援軍を要請するが、織田本隊はこのとき琵琶湖西岸を京に向けて南下してきた浅井朝倉勢に対応せねばならず、さらには比叡山に立てこもられてしまい、動くに動けない状況であった。
北伊勢桑名城の滝川彦右衛門も一向宗に攻め立てられており、完全に孤立してしまった彦七郎は、六日間奮戦し耐えたが、多勢に無勢、小木江城は落城し、彦七郎は八十人の家臣とともに自害を果たした。
上総介が長島一向門徒衆に向ける憎悪は浅井長政への比ではなかったが、長島への侵攻を二度失敗している。
一度目は東西各地の中洲に築かれた砦を攻めるも、河が容易に進軍をさせず、さらには数千から万単位が立てこもった砦からは鉄砲、弓矢が雨あられと飛んできて、河上の要塞と化した長島になすすべがなく、撤退。この退却戦において柴田権六郎がしんがりを務めたが、氏家卜全、犬の夫であった佐治八郎などが討ち取られた。
二度目は一度目の失敗を反省し、海上からの進軍を目論んだが伊勢大湊での船の調達の交渉していた上総介次男、北畠三介具豊の動きが芳しくなく、本隊は北伊勢のある程度は攻め入れたものの本拠長島の攻略まではいかず、撤退。そこを一向宗はしたたかに待ち伏せして狙いうち、織田軍にとっては再び惨憺たる退却戦となった。
三度目の正直かどうか、上総介は長島討伐を号令し、織田総所領から軍勢を津島へとかき集めた。
その数、八万。明智十兵衛と羽柴藤吉郎は、京、越前、と各々の業務のために参戦していない。にも関わらず、この大軍勢であった。
戦場へ
武田攻略に専念しているので今回の長島侵攻も不参加であろうと高をくくっていた牛太郎であったが、上総介からの下知は参戦。
「兄上様は長島に向かわれるそうですね」
犬は百日紅のつぼみを眺めながら言った。普段は柔らかい表情が少しうつろげであった。
「でも、左衛門尉様は岐阜にお残りになられるんですよね