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占星術への道-誕生史、星見の作法

・占星術の基礎-星見の作法とは?
・今も多くの人を魅了する占星術
・いつ、どこで、どのように生まれたのか?

<9> 2章 アッシリア時代 (紀元前1300-600頃)/小史/占星術の発達

2021-03-09 10:50:46 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

図18: シッパル出土の太陽神の粘土板(紀元前860年)。 著作権:大英博物館。レプリカは大阪市立科学館で見ることができる。

小史

 紀元前13世紀、アッシリアは拡大し始めた。紀元前729年、アッシリアはバビロンへ侵攻し、マルデュックに代わって、アッシュールを神々の中の神とした。サルゴン2世が王位につき、紀元前717年、ニネヴェの北にサルゴン砦を築き、ここに大寺院、ジグラッットと多数の粘土板を納めた書庫を作った。アッシュールバニパル(紀元前669-630)はニネヴェに大図書館を建設し、そこにシュメール語とアッカド語で書かれたあらゆる楔形文字文献を系統的に蓄積し始めた。古代の天文学と占星術の発達についての私たちの知識は、ほとんど、この大コレクションから得たものである。

 

占星術の発達

 アッシリアの神殿は、基本的にバビロニアのものと同じで、違っていたのはそれまでバビロニアの神々の長であったマルデュックに代わって、チグリス川の西の土手沿の都市アッシュールの神、アッシュールが、最高神になったことだった。イシュタルがその次に重要な神となった。マルデュックはエンリル、すなわちベルの力を吸い取った(その後、神はベル-マルデュックと呼ばれ、そして最終的には、接頭辞「ベル」が脱け落ち、結局、マルデュックとなった)。

 シッパル出土の粘土板(図18を参照)には、神の権威をシンボル化したロッド(棒)と輪を手にし、天幕の下で座っているシャマシュ(太陽神)が描かれている。シャマシュが座っている腰かけを支えているのが雄牛人である。その上方には、太陽と月と金星のシンボルが見えるし、神の従者に支えられたもう一つ別の太陽のシンボルも描かれている。

 最初の頃、星占いによる予言は月の位相と関係していた。アッシリア人のもとで、オーメンはとても重要なものとなり、天候や地震やいろいろな大災害と関連づけられた。そのエレメントは都市国家の作物のでき不できに影響した。オーメンは、戦況が国家にとって好ましいか、不利かも教えてくれた。

 正確で矛盾のない暦という、かつての悩ましき問題は、紀元前8世紀、ついに克服された。(後のセクションを参照)。星図は正確に描かれ、また、最終的に黄道帯の星座(占星術で言う黄道十二宮ではない)が天の規則性を示すものとして作れた。正確な惑星運行表が作られるようになったことに加え、これら2つの要因が先にあって、紀元前5世紀、ホロスコープが発明された。

 神とされていた惑星には周期的で、すさまじい、決定的なパワーが与えられ、特別に明るい星には神々と同じように他にはない能力が付与されていた。天体を擬人化する傾向はおさまっていなかったし、ローマ時代になってもおさまる気配はなかった。

福島憲人・有吉かおり


<8> 1章メソポタミア/占星学の発達

2021-03-09 10:32:57 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

 筆や木や骨や金属などを柔い湿った粘土に押しつけて絵やシンボルを記し、これを無限とも言えるほど長期間に渡って保存することができた。その文字はキュニフォーム(楔形文字。ラテン語でcuneiform)と呼ばれていた。粘土板は手の大きさぐらいで、天日乾燥したり焼いたりしたので、まず壊れることはなかった。しかし、粘土はすぐに乾燥するので、一気に書かなければならなかった。これは約3000年にわたって使い続けられた。粘土板の大きさは1×1/2インチから15×9インチだった。(紀元前5世紀以降は、アラム語が文字板に筆で印字された。西暦紀元になって楔形文字に代わった。最後の楔形文字板は西暦75年のものである。パピルスは西暦10世紀頃まで引き続き使われたが、徐々に、動物の皮で作った羊皮紙がパピルスに代わっていった。)

 最も古い星占い文書(図12を参照)は古代バビロニア時代のものである。

 バビロニア人の主な関心事は国の安寧だったから(王は別として個人のそれではない)、天候、収穫、干ばつ、飢饉、戦争、平和および王の運命などについて予言がなされた。毎日くりかえして起こるできごとや、月々、季節あるいは年々の規則的なできごと、あるいは農耕生活がバビロニア人にとって重要で、それらは強大な月や太陽の神々が支配するものとされた。イシュタル(金星と愛の女神)は、シン(月)とシャマシュ(太陽)とで三位一体となっていた。

 紀元前3000年代の終りから紀元前2000年代の初期の頃、オーメン録が目だって増えた。シッパル出土の粘土板は羊の肝臓を模したものである(たぶん弟子たちに教えるために使われた)。(図13を参照。)

 


年始め、夜空が暗ければ、凶の年。

新月が現れ、それを喜びで迎える時、空が明るければ、その年は良き年となろう。

新月の前、北風が天の顔前を吹き渡れば、トウモロコシがたくさん実るだろう。

三日月の日に月の神が天からすばやく姿を消さなければ、「地震」が来るだろう。


図12: オーメン録(紀元前1830年頃)

V.Sileiko「Mondlaufprognosen aus der Zeit der ersten babylonischen Dynastie」、Comptes Rendus de L'academle des Sciences de l'Union des、Republlques Sovietlques Socialistes(1927)から:125.

 

 数世紀にわたって書き継がれたエヌマ・アヌ・エンリルという記録がニネヴェのアッシュルバニパル王(紀元前669-630)の書庫でたくさん発見された。神官は日出および日没の正確な時間や金星の出ている時間や見えない時期を正確に記述し、さらに適切な予言をつけ加えている。これがエヌマ・アヌ・エンリルの63番目の粘土板にある「金星オーメン」(図14を参照)である。大部分が20年以上にわたって書かれている。最初の記録は紀元前2300年頃のもので、他の3つは紀元前1581-1561の間に書かれているようだ。

 境界石はカッシートの時代(紀元前1530-1275年)に見られるようになったもので、3つの重要な天体が記されていることが多い。境界石、すなわち「クドゥル」は公有地あるいは私有地の境界を示すもので、約1.5フィートの高さの丸い石碑である。それには領地へ侵入する者に対する呪いの絵やシンボルや文字がよく彫られていた。ステラのような死者などを記念するための石碑も同じような方法で彫刻されていた(図16および17を参照)。

 最も古い境界石は紀元前14世紀のもので、(1)シンの三日月、(2)シャマシュ、(3)8芒星のイシュタル、があしらわれている。さらに、サソリ、雄羊の頭とヒメジ(魚)がついた神殿、対になったライオンの頭、ハゲタカの頭がついた矛、柱に止まった鳥、うずくまる雄牛の背中の上の光るフォーク、ヘビなどが現わされている。

図13: 羊の肝臓を模した粘土板(紀元前1800年頃)。シッパルから。 著作権:大英博物館

 


 アイヌ月、金星が東にあって、大小の双子星がその周りを取り囲み、この4つの星すべてと金星が暗ければ、エラムの王は病み、生をまっとうすることはない。(紀元前230O年頃)

 

シャバツ月の15日に金星が西に消え、3日間見えないままでシャバツ月の18日目に東に現われたら、王に災難が及び、アダドは雨をもたらし、エアは地下水をもたらし、王は王へ挨拶を送ることだろう。(紀元前1581-1561年)

 

アラサムナの10日目に金星が東に消え、2ヶ月と6日間天に現われず、テベツの16日目に西の空に見えたなら、そこでは大収穫となるだろう。(紀元前1581-1561年)

 

ニサンヌの2日目に金星が東に現われたなら、疫災に襲われる。キスリムの6日目まで金星が東にあり、キスリムの7番目の日にその姿を消し、約3ヶ月の間消えたままで、アダルの8番目の日に金星が西空に輝き始めれば、王は王に宣戦を布告することになろう。(紀元前1581-1561)


図14: 金星オーメン。 写真著作権:大英博物館。 B.L.ファン・デル・ブエルデン「Science Awaking II. The Birth of Astronomy」、オックスフォード大学出版局、1974、から。


 

 紀元前13世紀は出生占星学(個人の誕生ホロスコープに基づく占星学)の先駆けとなった。誕生月によってその子どもについて予言を行ったというバビロニアのオーメン文書をヒッタイト人が翻訳したのであった(図15を参照)。

 読者は、3つの天体が大きな意味を持つようになったことに気がついたことだろう。特に興味を惹かれるのは、愛の女神イシュタルが惑星である金星によって表わされていることである。これについてはいくつかの説がある。天文学者のジャストローは、金星が8か月と5日の間、日の出に地平線上にあり(明けの明星)、次に、3か月後に日没後の地平線上にあるので(宵の明星)、これは金星の季節的な二重性を示し、ひいては愛と肥沃の神であり、かつ戦いの神という2つの属性となったのではないか、と言う。

 太陽と月を除けば、金星は最も明るい天体で、常に太陽の近くに見える。太陽と月は共に男性神である。この「さまよう星」が小さくて、明るく光ることから、バビロニア人はこの星を整然と光輝を放つ愛の女神としたのであった。

 


9番目の月に生まれた子どもは死ぬだろう。

12番目の月に生まれた子供は、長生きするだろう。


図15: 誕生月について述べているヒッタイト人の文書(紀元前13世紀)。Meissner、「Ueber Genethlialogie bei den Babyloniern」(KLIO 19(1925)):432-34.


 

図16: 境界石(紀元前1100年)。 著作権:大英博物館。


図17: 境界石に描かれた種々の生物。W.J.Hinkeから、ネブカドネザルの新しい境界石1、Nlppurから、ペンシルバニア大学、1907年。ファーガソン・フォトグラフィックスによる写真。


福島憲人(2007.1.30.)


<7> 1章メソポタミア/古代バビロニア時代(紀元前2000-1300頃)

2021-03-07 22:00:48 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

図9.雄羊の石像。ウルク出土(紀元前3000年頃)。 ©大英博物館


 ハンムラビ(紀元前1727-1685)が、バビロニア王国(紀元前1830~1530が古代バビロニア時代とされている)を打ち立てた。ハンムラビ王が法的な判断基準を収集し、マルデュック神殿の閃緑岩石碑(結晶質岩の石柱)に記したものが、かのハンムラビ法典である。ハムラビ王朝の最後の頃の王であるアンミサデュカ王(紀元前1581-1561)の下で、金星の出現や消失についてのオーメンが書かれている(アンミサデュカの金星粘土板)。

 図10.雄牛の石像。ウルク出土(紀元前3000年頃)。©大英博物館


 北東小アジアとシリアからやって来た人々の緩い連合体であったヒッタイト人が、紀元前1530年、バビロニアへの侵入しようとした。そして、バビロンを略奪したが、その地を支配することはできなかった。だが、これでバビロニアはひどく弱体化した。

 ヒッタイト人が侵入しようとした後、東部ザグロス山脈からやって来たカッシートがバビロニアとアッシリアを征服し、期間は不明だが、その地に留まった。この時代の年代学はよく分っていないが、王の統治年代を列挙している粘土板によれば、カッシート人が紀元前1530年から、アッシリア人がバビロンを征服する紀元前1275年まで政権を握っていたようだ。


図11. 銅製のライオンの頭部。テル・アル・ウベイド出土(紀元前2500頃)。©大英博物館


福島憲人・有吉かおり p.7


<6> 1章 メソポタミア/神殿という組織

2021-03-07 21:49:53 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

図5.ウルのジグラット。

上: ジグラットの空中写真。 著作権:ペンシルベニア大学博物館(フィラデルフィア(Neg. # NC35-9112))。
下: Marjoris V.Duffell(1937)によるジグラットの修復スケッチ。 著作権:ペンシルバニア大学博物館、フィラデルフィア(Neg。# S8-55876)


 太陽、月、金星の神々と交信することができた神官が最初の支配者となった。神官は神々に祈り、動物を生贄として捧げるというような宗教上の役割だけでなく、都市国家のために農業やその他の行事の記録を保存するというような多方面にわたる役割を持っていた。小さな神殿はやがて書記、下級神官、事務官agent、カウンセラー、歌手、音楽家、織物職人、陶芸家、官僚bureaucrat、軍人および兵隊を擁する組織化された神殿へと拡大した。この神殿は大きな富を蓄え、多くの財を所有していた。また、楔形文字板の保存場所ともなっていた。S.H.フックは、ウルカギナUrukagina時代(前2600年頃)の女神ババBabaの神殿に従事する人たちを数え上げると736名にもなり、また、その後の新バビロニア王朝の時代(紀元前1000年)、マルデュック神殿のスタッフは数千人だったと言っている。

 やがて、軍官は神殿の支配から離れていき、神殿の支配層は寄り合い所帯となった。また、王になった軍官もいた。神官、王を兼ねた神官、下級神官そして女性神官が現れた。予言を行う神官、すなわち予言者はオーメン(予兆)と夢を解釈し、天の発する警告を知るため、特に月食に力を入れて天を観察した。予言者は王の軍事作戦に同行し、武運のある日かどうかを見極めた。また、未来についての情報も与えた。予言を行う神官は最初の星占い師と言うべきではないだろうか。

 神々と交信するため、聖地を示す塚を粘土で作った。粘土は砕けるので、初めの塚の上に新しい塚を、そしてさらにその上に次の塚を、と次々と築いて行った。時が経つとともに、塚はどんどん大きくなり、ついに、多くの層が重なって、神聖な塔(ジグラット)ができた。この塔は神殿のそばや頂上に築かれていた。塔の頂上に神殿が置かれ、動物の生贄を供えたり、神々が地上に降り易くするため階段が設けられているものもあった。その後、バビロニア人とアッシリア人はこのジグラットをオーメン(予兆)を得るための天体観察や星図を描くために使った。ウルクに築かれたのが最初で、紀元前4000年代後半のことだったようだ。他に大きなジグラットと言えば、紀元前2100年頃にウルにあった(図5を参照)。今日発掘されているものは幅260×175フィートある。最も有名なものは、ネブカドネザル王(紀元前606-562)の時代にバビロニアで築かれたバベルの塔である。これは古いジグラットを再建したもので、神殿であり、天文台であった。

 予言を行う神官は、ビット・タマルティbit tamarti(観測場所)という神殿の特別の部屋で寝そべるか、鐘楼用ジグラットの平屋根に登って、一晩中天を観察していたのではなかろうか。北半球のどこにも、澄みきった夜ほど天が美しく見えるところはないし、悪天候の夜ほど不吉に見えることもなく、これがさまざまな推測や空想を呼び起こした。

 神殿では、神々と交信するための儀式が整えられた。羊がオーメン(予言)のために犠牲となり、その腸や肝臓によって占いが行われた。肝臓の形や特徴、あるいは腸の形から、神官は戦争開始時期の適否を占い、またその勝敗を予言し、豊作となるか飢饉となるか、あるいは王の健康はどうかを占った。

 やがて、その日のできごとから得られたオーメン(予兆)が記録されるようになった。天体現象の中でも、特に月の満ち欠けと食について記録された。月食は大災害の前兆となることが多かったからだ。月が見えない暗闇の期間(ブッブルbubbulu)は悪霊がとても危険になる時期だった。解釈に信用性が要求されるようになり、予測を間違うと追放されたり、殺されたりするので、神官は用心深く、少しずる賢くなった。今日の多くの占星術者や心理学者のそれとは違い、真実は背景に追いやられ、占いは芸術へと創り上げられて行った。

 食の予報は正確な数学を駆使して行われ、その後、その数学によって当時の天文学の定式化が行われた。正確にできごとを予言すると賞賛されたから、神官は飢饉や疫病、洪水などの予測を努めて行なおうとした。お金や貢物を持ってくるように促された。

 次にあるのは、アシュバニパル図書館の占い文書で、紀元前1200年頃からセレウコス王朝の時代のものである。神官の報告文書を例示するため紹介しよう。(図6、7および8を参照。)

紀元前2000年代の初期の頃には、後になって星座に組み込まれることになる動物や架空の創造物の多くが、旧石器時代の洞窟絵画やメソポタミアの美術品や彫刻に見られるようになる。雄牛は紀元前4000年頃から、ありふれたテーマとして銅やブロンズによく彫刻されていたし、さらに後になると、琴の共鳴箱にも使われていた。雄羊とライオンは、紀元前三千年代中頃のウルクの花瓶に見られる。(図9、10および11を参照。)

 水をもたらす者は肥沃のシンボルとして、紀元前2000年の彫像に見られる。シュメール人の美術品には、頭がライオンのワシ、頭が人間の雄牛、魚人、翼のあるライオン、半人半獣(ライオン)のケンタウルス、そして、頭がライオンやガチョウ、鳥、カモシカ、イナゴ、鹿、猿、蛇やさそりなどの人間というような、さまざまな生き物が見られる。こうした架空の創造物の多くは夢や(または)シャーマニズムの儀式から生まれたと考えられている。

 もっとも容易に観察できる太陽、月、金星の3天体に関する神話と同じように、地、水、風(火が後で追加された)という占星術の「エレメント」はシュメール人によって取り入れられたものだ。

 古代のメソポタミアには科学というもの(天文学も含め)はなかったし、星占いもなかった。その頃の神官は日食や月食、稲妻、地震、そして飢饉のような神の気まぐれを正確に予言することに関わっていたから、それによって権勢を保持することができた。そうした活動の中から、太陽や月、惑星、そして星々のめぐりが明らかにされ、同時に暦が生まれた。月が年に12回めぐるという周期から、1年は12ヶ月に分けられた。そして、数学的にうまく予測することができるできごとが注目されるようになった。


これが、日食や月食が起こっている時に、シン(月神)に歌うものである。神々の家の入り口や広い場所に、ガラック(祭壇)を築く。

ガラック(祭壇)の上で、杉、イトヒバ、ミルテ、上質の葦、山ギョリュウ、ルツlutu杉を掲げよ。

食が始まれば、ツエTU-E神官はたいまつを灯し、ガラック(祭壇)に取り付ける。

野に捧げる哀歌に、汝、抑揚をつけるべし、 枯れることのない流水に捧げる哀歌に抑揚をつけるべし。

 食が続いているなら、その地の人は頭の被り物を外し、そして衣服で頭を覆うべし。

大災難、殺戮、反乱、そして衰退はエレク、ビット-レシュ、イシュガル、イ-アンナの神殿に及ぶことなし。

 その国の7人の労役者、その家族、住居、川、彼らの目、手足を聖油で清めるべし。

 そうした大災難、殺戮、反乱、そして衰退をエレク、ビット-レシュ、イシュガル、イ-アンナの神殿、そしてティランナの神々の家に招いてはならぬと、声を出して叫ぶべし。

 食が終るまで、彼らは叫ぶべし。食が終わり、月がまた現われたらすぐに、汝、祭壇上の火をビ・マット・ナムを用いて消し止めよ。

 2日目に、祭壇を建てた者は祭壇を取り壊し、灰と共に川に投げ込むべし。

アヌ、エンリルと唱えて、彼らを呼び出せ。家の右側にいる呪術師と、左側の呪術師は、ウドゥ・ウッドゥ・ア・メッシュと呪文をくり返すべし。


図6.食を観察するための儀式。「アッシリアとバビロニアの文学、抜粋翻訳」から。R.ハーパー編集(D.アプルトン社、1901年)

 


ウバヌ(肝臓の指形の突起物)の右側の面に指形が印が見えていれば、王子は戦利品を獲るだろう。 


図7. 肝臓による占い。アッシリアとバビロニアの文学から:抜粋翻訳、R.ハーパー編集(D.アプルトン社、1901年)。

 


ティラニ(腸)が似ていれば:

さそりに似ていれば、神殿は豊かになり、王の武器は本物となるだろう。

戦う雄牛グドゥ・グドゥ・ナに似て、かつ右側に伸びていれば、王の武力と軍隊は「王の兵士」と呼ばれる。彼らは進軍し、これに勝つものはないだろう。

人の手の形に似ていれば、その土地は飢饉となるだろう。

魚の心臓に似ていれば、王は強くなり、敵が現れることはない。

首が切り落とされた雄牛に似ていて、とても大きければ、王子の土地では穀物や藁、野菜が不足するだろう。

星に似ていれば、王子の軍隊に敵が現れることはない。


図8.腸による占い。「アッシリア・バビロニアの文学、抜粋翻訳」から。R.ハーパー編集(D.アプルトン社、1901年)。

福島憲人・有吉かおり p.6


<5> 1章 メソポタミア /シュメール・アッカド (紀元前4000-2000年頃)

2021-03-07 21:41:28 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

図3.方解石の円筒印章(紀元前3000年) 図4.緑色岩の円筒印章(紀元前2300年頃)、アッカド出土。©大英博物館


 シュメール人は、紀元前4000年代の初め頃、東方から南メソポタミアに入った遊牧民だった。シュメールの主要都市がウル、ニップール、キシュ、ラーサ、ウルクに開かれ、紀元前3200年頃に繁栄していた。また、紀元前3300年頃に文字が発明された。紀元前3000年には、アッカド人という別のセム語を話す民族が、北部チグリス・ユーフラテス谷(図2)へ移ってきた。

 太陽と月と金星(最も容易に観察できる惑星)は古代シュメールでは神あるいは神の住み家と目されて、崇拝されていた。それを示す古い証拠が円筒印章に残されている。文字が発明される数世紀も前のことである。円筒印章は2~3インチの円筒状の石で、装飾を施し、人物を彫刻したもので、粘土などの上で回転させると模様が浮き出て、書類や財産に個人の権威の象徴である印を付けることができた。光り輝く太陽、三日月、そして金星が8尖頭星として描かれ、よく使われていた。

 図3の方解石の円筒印章は神殿の正面を描いており、門柱には金星の女神イナンナのシンボルが刻まれている。2頭のヤギと羊が控え、まわりには神殿献酒に使用された4つの注ぎ口がある壺があしらわれている。2匹のサソリに蛇もいるが、これらは多産のシンボルである。

 この宇宙は「天-地」(アンAn-キki)から成っているというのがシュメール人の宇宙観である。地は平らで静止した円盤(すなわち山)で、天はがっちりとした丸天井で囲まれた空間である。星は地にかかるアーチ状の道に釘づけにされていて、このアーチの道を通って太陽と月が行き来するとされた。天と地の間には、気、つまり風があり、天-地を無限で永遠の海が囲んでいた。シュメールの神々は擬人化され、人間の姿で、人間の特性を備えていたが、目に見えず超人的な存在だった。

宇宙の創造:


1. 初め、原初の海があった。この海は永遠の存在で、擬人化されて女神ナンムとされた。ナンムは水の神エンキを生み、さらに天アン(アンは男性の天の神)と地キ(キは地の女神)を結ぶ宇宙の山も生んだ。

2. 天アンと地キが結合して気の神エンリルが生まれた。この気の神により母なる地キと父なる天アンは離れ始めた。

3. まだこの世は完全な暗闇の中にあったから、気の神エンリル(Enlil)はシュメール人にとって重要で神聖な月の神ナンナ(Nanna)を生み出した。そして、今度は月の神が太陽神ウツと女神イナンナ(Inanna)(後には、金星と同一視される)を生んだ。


人間の創造


1. 気の神エンリルが今度は母神キと結ばれ、水の神エンキの助けを得て、植物と動物を造った。

2. 水の神エンキは母神ナンム、つまり、天、地および他のすべての神々を生んだ女神ナンム(Nammu)に人間を作る方法を教えた。人間は、女神ナンムと地の神キと水の神エンキが力を合わせて作り出した最後の創造物である。


 紀元前3000年代の中頃になると、何百もの神々(少なくとも神と言う名前がついているもの)が誕生していた。重複しているものも多かった。シュメールの神々で重視されたのはアン(天の神)、キ(もしくは、ニンフルサグ、ニンマ、ニントゥ。地の女神)、エンキ(水の神)、そしてエンリル(気の神)といった創造神であった。次に重要なのは、ナンナ(月神)、ウツ(太陽神)およびイナンナ(金星の女神)という天体神で、他に穀物や家畜の神のような余り位の高くない神々もいた。

 各都市国家はそれぞれの神を崇めていた。紀元前3000年、ウルク(エレクまたはワルカとも)では、アン(あるいはアヌ)がメソポタミアの神々の中の最高神だった。イナンナ(愛の女神)も崇拝されていた。その後、都市国家ニップールは、気の神(エンリル)の下でその地域の精神面での中心となった。ウルでは、ナンナあるいはシンという月の神が支配し、エリドゥではエンキが支配していた。ナーゲル(冥界の王。後に土星とされた)はクタKuthaで崇拝されていた。ラーサとシッパーではウツ(太陽神)が最高神だった。

 アッカド人はシュメールの神々を継承したが、アッカドでは別の名前が使われた。ウツ(太陽神)はシャマシュになり、水の神で知恵の神であるエンキはエアとなった。イナンナ(愛、豊穣そして戦争の女神)はイシュタルになり、ナンナ(月神)はシンとなった。ニップールのエンリル(あるいはベル)はバビロンの主神のマルデュックとなった。この神はアッカドおよびその後のバビロニアの神々の中での最高神となった。

 図4のアッカドの緑色岩円筒印章はアッダの書記が使ったものだ。弓を持った狩猟の神が左側にいる。その女神イシュタルは武装し、翼を背にし、日付の束を持っているのが見える。太陽神シャマシュは東の山々を切り開いている。雄牛が水の神エアに付き添い、一羽の鳥が表裏の顔のある従者の近くにいる。

 神々の名前や支配力はさまざまな要因、たとえば誰が誰を征服したかによって、時代と共に頻繁に変わった。

福島憲人・有吉かおり p.5