昨日、育ての親が死んだ。
世界でたった一人だけの味方だ。
葬式の準備を頑張っているが、その後はどうしよう。。
火葬することになっているけど、嫌いなんだよね。
他にどうしたいとかいうのは無いけどね。
とりあえず、棺桶に入れた状態にしてある。
葬式は火曜日にしてもらった。
自分の中で整理できていない部分が多いと感じる。
寝ているようにしか見えない。
もう冷たくなってしまった。
これを焼くのか。。
涙が出てこない。
もう会うことは無いのだと思うと、そこから先が考えれなくなる。
顔を見ていると、死ぬということはそれほど恐怖するようなことでも無いのかも
しれないという気分になる。
産まれてきた惰性で生きてきたわけだが、そんな中でも死ぬのが怖いというのは生きる理由としては強いものだった。
他にも育ての親と一緒にいれば死という恐怖を誤魔化せていたのもある。
しかし、今はそれも無くなってきている。
何故死ぬことを怖がっているのだろうか。
ずっと意識が暗闇の中にあって、そこで永遠に一人でいなければならない。
そんなイメージがあったせいだろう。
だが、息をしていない死体を見ているとこのまま焼かれたとしても熱いという感覚も無いのではないかと思うように少しずつなってきている。
火葬が嫌いなのは、焼かれたら熱いし痛いからだ。
一晩中死体を眺めていたらその思考が少しずつ変わってきている。
これは他人事として脳内処理をしているのか、それとも死体を見て別の感性が生まれようとしているのかが分からない。
前者ならただの下衆なので、これからも死を恐怖するのだろう。
ただ、死ぬというのは産まれる前の状態に戻るのだという考え方ができるようになった。
これは、今までの死のイメージよりも怖くない。
自分が産まれる前の記憶などないわけだが、他人の言うことを信じるならそれは今から何十億年以上前という期間が存在する。
そもそも、何時からスタートしているのかも分からない。
無という状態が存在するのかも不明である。
産まれる前に何十億年以上も耐えることができていたことなら死んだ後も耐えられることなのではないだろうか。
そう考えると、死ぬことへの恐怖が段々薄らいでいく気がする。
今は、葬式が終われば孤独感が極端に強くなっていくことを嫌だと感じている。
ずっと、一緒にいられると思っていたわけではない。
自分が残される側になるのだろうと思っていた。
実際に体感してみると、寂しいという気持ちが強い。
このままの生活を続けるならこれからは、一人で生きていくことになる。
どうしよう。。
結論を出さないままだと静止した世界の中で生きていくことになる。
これまでのようにマンガやアニメを見続ける日々を送る。
それでいいんだろうか。
たしか、遺書があったはずだから葬式後にそれを見てから判断することにしよう。