めいぷるアッシュEnnyの日々是好日

井上靖①

「『私の自己形成史』より」

 私は高校時代を金沢の沈鬱な気候の中で、徹底的な禁欲生活を送った。柔道部に籍を置いていたので、他の学生が持つような青春を享楽するといったゆとりはなかった。当時の金沢の高等学校(四高)の柔道部は岡山の高等学校(六高)と竝んで練習の烈しいことで知られていた。インターハイの一回から七回までを四高が優勝し、八回から十三回までを六高が替わって優勝、私たちのころは、四高、六高に混じって松山高校が強くなり、この三校が三つ巴になって覇権を争っているころであった。

 私たちが真面目に考えていたことは、練習量がすべてを決定する柔道ということであった。私たちは一時間でも多く練習した方が、必ず相手を倒すことができるということを信じていた。今考えてみれば、これは他の専門学校に比べて非力な体格を持つ高校生が試合に勝つために考え得られる唯一の手段であった。そしてそれが真実であろうとなかろうと、それを信じなければならなかったのである。
 それからまた、私たちは立業より寝業を重視した。立業となると、なんといっても体格が物をいったし、天分もまた強く作用した。高校へはいって初めて柔道着というものを着たといった連中が、体格のいい天分のある選手たちを制するためには、当然なこととして、立業を避けて、練習量が物をいう寝業に移らなければならなかったのである。
 明けても暮れても、私たちは道場で組み合っていた。冬休みも春休みもなかった。夏季休暇にだけ、何日間か家へ帰ることができただけで、あとは柔道ばかりだった。その頃、私たちはお互いに言い合ったものである。学問をやりにきたと思うな、われわれは柔道をやりにきたのである、と。
 私たちは一年、二年と文字どおり柔道の稽古に明け暮れた。そしてその私が三年になったとき、一つの問題が起こった。それは柔道部へはいってくる新入生がほとんどなくなったことである。私たちは大事な稽古を休んで、入部の勧誘に努めたが、それでも新入生を迎えることはできなかった。彼等は一様に、学校へ柔道をやるためにはいってきたのではなくて、勉強をしにはいってきたのであった。

 私たちは全く柔道部に新入部員を迎えるためだけに、柔道の稽古の時間を少なくし、多少部の規約を改める必要があった。それも大きな改革ではなく、試験前は練習時間を少なくするとか、春休みの合宿期間を多少短くするとか、そういった改め方であった。しかし、このことは四高柔道部の伝統を無視したこととして先輩の顰蹙(ひんしゅく)をかい、これが問題となって、首謀者として私が責任をとって退部し、三年の柔道部員の全員が、私について退部するのやむなきに到ったのであった。そして私たちに退部を迫ったのは、すでに社会に出ていた柔道部の先輩たちであった。

 現在、私はそれらの先輩たちと親しく交わっており、ときどき当時のことを話し合ってなつかしい気持ちになるが、しかし、そのころ私たちは仇敵のように睨み合ったものである。この事件は四高の柔道部としては大きな事件であり、私たちはいわば汚名を着て、退部させられるの余儀なきに至ったのであった。
 しかし、この事件のおかげで、私たちは高校生活の最後の半年を汗臭い柔道着と縁のなくなった生活を持つことができるようになったのであった。除隊になった兵隊のように、私たちは毎日ぼんやりして卒業までの何カ月かを送った。退部した仲間は毎日のように一団となって町や郊外を歩いた。机に向かうという習慣はなかったので、道場にはいらない限りは、どこかを歩いていなければならなかった。私たちは遠い孤島で終戦を知った兵隊のように、ぼんやりし、生きる目的を失い、体と時間を持てあまし、そして何もすることがないので物でも考える以外仕方がないといった考え方で、物を考えたものである。私はこの時期から、柔道の代りに詩作を始めたのであった。詩の真似事のような文章を私は卒業するまで毎日、ノートに書いて暮らした。





全国からこの地に集い、放吟 闊歩 天下御免の
モラトリアム 面白い!

金大生はどこぞの山に行ってしまった。
お休みなさい
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