井上靖は沼津中学に転校後、武道科目で柔道を選択し初めて柔道にふれて興味を覚え、正課以外にも放課後、道場で時々練習に参加するようになった。五年になって初めて対外試合に出場し、八戦して五勝三敗の成績を残している。
昭和二年、第四高等学校に入学した靖は、直ちに柔道部に入部した。四高柔道部の目指すところは、京都の武徳殿で行われる南下戦=全国官公立高等専門学校選手権大会の中部地区大会を勝ち抜き、全国大会で覇権を握ることであった。そのため、練習場である無声堂では連日激しい練習が行われていた。靖は激しい練習で力をつけ、二年で南下戦に出場し活躍したが、チームは準決勝で松山高校に敗れた。昭和四年、三年になり主将となった靖は部員の数の確保と優勝出来るチーム作りのために練習方法を改めたが、このことで先輩達と衝突し、遂に退部に追い込まれ、目標としていた南下戦に出場することなく、四高での柔道生活は昭和四年五月で終わった。
四高 廊下
「『夏草冬濤』より」
「お前、ちいちゃいくせに、左の足っ払いが利くな。これから柔道を練習してみい」
柔道教師は言った。洪作は面目を施したわけであったが、しかし、あまりいい気持はしなかった。必ず復讐されるだろうと思った。級友たちもみな同じ考えを持っていた。
「お前、今日、授業が終ったら、すぐ帰れ」
と言う者もあれば、反対に、
「遅くまで残っていて、先生と一緒に帰った方がいい」
と言う者もあった。洪作が投げた四年の杉浦がすぐ暴力に訴える余り評判のいい生徒ではなかったからである。
その日一日、洪作は寒稽古のお蔭で不安な思いをした。四年生が固まっていると、自分を殴る相談をしているのではないかと思った。授業中も、洪作は浮かない顔で窓から校庭を眺めていた。どう考えても、このままでは済まないだろうという気がした。
しかし、この不安は翌日の寒稽古の時失くなった。山田が稽古を挑んで来た。山田は選手をしているだけあって強かった。洪作は何回か投げられた。杉浦もまた稽古を挑んで来た。この方は山田に較べると技が下手だった。洪作は二回程度杉浦に投げられ、洪作の方もまた、一、二回杉浦を投げた。こうしたことで、殴られるという不安はなくなった。
五年生で選手をしている佐伯がやって来て、
「おまえか、きのう山田を投げたのは」
と言って、それから洪作の体をねめつけてから、
「お前、もう少し体が大きかったら柔道部へいれてやるんだがな」
そう言って、そのまま帰って行った。この佐伯の言葉で、洪作は自分が柔道部へはいる資格のないことを知った。
しかしこの事件は洪作を少し変えた。洪作は柔道の時間は、他の生徒より熱心にやった。今までのように小林や増田と組打ちをしていないで、体のもっと大きい生徒たちと組んでは、投げたり、投げられたりした。
京都武徳殿
「『北の海』より」
――練習量がすべてを決定する柔道。
この言葉を思い出すと、洪作は身内が痺れるような気がした。どうしてただこれだけの言葉にこんな魅力がはいっているのであろうか。
蓮実が考えている柔道というものは、恐らく自分たちがこれまで考えていた柔道とはまるで違うものであるに違いない。煙草もいけない。酒もいけない。そればかりでなく、
――女というものは、この世にないものと思え!
蓮実は確かにこう言ったのである。洪作は、またこの言葉にも魅力を感じた。毎日毎日、一回や二回、女がちらちらしないことはない。しかも欲望という始末におえぬものといっしょになって思い出されて来る。追い払っても、追い払っても、女というものは眼の前に立ち塞がって来る。
――女というものは、この世にないものと思え!
なるほど、この世にないと思えば、それが一番いいことに違いない。しかし、いくらないと言っても、実際にはあるのだから、もともと無理な話ではあるが、ないと思うことは、ないと思わないよりいいに違いない。れい子もないと思うことである。あると思うからいけない。ないと思うことである。
洪作は何回も寝返りを打った。蓮実のいう練習量がすべてを決定する柔道をやってみたいと思う。蓮実たちは学問はやらないで柔道ばかりやっているらしいが、柔道をやらないで学問ばかりやっているより、洪作にはずっと向いているようである。
それにしても、そうした柔道をやるには、まず四高へはいらねばならぬ。それが厄介だが、どうしても入学試験だけは突破しなければならぬ。尋常なことをしていては、とてもだめである。蓮実が言ったように、ここで浪人生活しているくらいなら、金沢へ行った方が気がきいているかも知れない。
――洪作は何回も同じことを考えていた。
ワン用ヨーグルトの殻は誰にも渡さない!
渡すのはオヤツとの物交の時。
お休みなさい。
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