L’essentiel est invisible pour les yeux

都内大学に通う学生のブログ
どう展開するかはまったくの気分次第

イーヴォ・ポゴレリチピアノリサイタル 2013年12月6日 ミューザ川崎シンフォニーホール

2014-03-05 | リサイタル
-曲目-
ショパン:ピアノソナタ第2番変ロ短調op.35
リスト:メフィストワルツ第1番S.514
ショパン:ノクターンハ短調op.48-1
リスト:ピアノソナタロ短調S.178

ホールに入ると、舞台上にはすでに男が、帽子をかぶり奇妙な服装の巨体の男が座ってこれからイーヴォ・ポゴレリチが弾くはずのピアノを鳴らしていた。その男は調律師などではない、その音を聴いてすぐに分かった。その音は、ピアノとは指が鍵盤を、ハンマーが弦を叩く打楽器であることをすっかり忘れる程輪郭が無い。暗黒な低音にクリスタルに抜ける高音。弾いているものは曲と呼べるものではない。極小の音量で地面を這いずるごとく無造作に音を並べている様に聴こえる。それなのに、その音はあまりにも美しい。もろく、はかなく、繊細な音の羅列に頭がくらくらする。その怪しげな男は紛れもまくポゴレリチだった。演奏前は決まって開演前のホールでこうして指ならしをするらしい。視線は鍵盤を弾きながらも客席にある。怪しげに様子を窺っているらしい。

この日のミューザ川崎は驚くほど閑散としていた。普段の社交的で花々しい空気は無く、皆身動きをせず儀式的だ。一階席はほぼ埋まっているのだが二階席以上はポツリポツリとしか人が見えない。この日の怪しい雰囲気をその異様なミューザの螺旋構造の客席が引き立ててもいた。

しかしだ、袖に引き、燕尾服に着替え拍手を受けるポゴレリチはおよそ噂からは想像できない程普通のピアニストだった。それまでは、特に妻を失ってからの彼は、唯我独尊、孤高にして破壊的で破滅的、暗黒のピアニストという評が専らだった。拍手に応えて頭を下げれば、彼ほどお辞儀の似合わない演奏家はいないと言われていた。曲のらしさなど消散させ、個々の音に耳を澄ますかのように常軌を逸して遅く、極限まで張りつめた音楽やっていた。2012年の来日リサイタルなど今回のものにブラームスの間奏曲が追加されたプログラムを休憩込みで3時間10分かけて弾いていたらしい。Youtubeにある最近の演奏会を観客がこっそりと録音した音源を聴いてみる。左手で暗黒を会場に満たし、右手の旋律の遅さ、不気味さに一緒に心臓が止まってしまうのではないかと想像させられ、鍵盤の強打によって観客は打ちのめされる、暴力的で邪悪だった。それから一年、彼はピアニストの大家の様な威厳で観客の拍手を受ける様になった。お辞儀をしても普通だ。演奏のテンポも曲の判別が付かなくなる程の異常な遅さではない。リサイタルは2時間という常識的な長さで終わった。しかし、彼はまた別の高みに登っていた。

ひとつに驚いたのは、個々の音へ大きくクローズアップするやり方は昔からだが、和音に対する感覚の変化だ。曲全体の横の構成よりも和声の縦構造へのさらなる強い着眼が見える。なんといっても左右の手のタッチに寸分の狂いがなく作られている和音。すべての打鍵された音が生き生きと聴こえる。なので、演奏はより迷いなく慎重になった。すべてが考えつくされているのかと思うとぞっとする。

ショパンのソナタの第一楽章はこの世のものとは思えない美しい旋律があった。その後に続く低い、絶望の和声と過激な展開は非情な運命にさらされる男と女の苦しい運命を想像させられる。その後も耽美な風景が続く、しかしすぐ隣には闇が隣り合わせだ。このソナタからはドビュッシーの様なフランス音楽の匂いがした。フランスの一筋縄ではいかない、美と闇が混在する風景や文学とこの演奏はよく似ていた。東京での公演の後すぐに、パリのシャンゼリゼ劇場でリサイタルを開いたらしい。パリで聴く今のポゴレリチのショパンはさぞ美しいことだろう。第4楽章では強靭な音の連続と美しい高音が点描画の様に散りばめられ終わった。今の明るい文明が崩れ落ちあの世と同一となるかの気分となった。まったく恐ろしい。

ノクターンはこの日よりも2日後にサントリーホールで行われたベートーヴェンプロでのアンコール演奏の方がずっと良い演奏だった。冒頭、夜道をひとりのそりのそりと歩き始めるが、以前の様に漆黒の夜道ではない。トリルの美しさには見えない足元を照らしてくれる星が空に見えている。中間部からは悲しみに満ちた人間の振りしぼる力強さがある。なんと涙ぐましい演奏なのだろうか。きっとベートーヴェンに共鳴されてそんな演奏がなされたに違いない、素晴らしいアンコールであった。

しかしなんといってもこの日で白眉だったのはリストの2曲。メフィストワルツでは縦横無尽に音が疾駆していく、しかし悪魔的に打ち鳴らしていない。大きな体は微動だにせず腕がひたすらに動いている。考えつくされた和音の連続は、すべてが彼のもとにはめ込まれ、ヨーロッパの大聖堂の様な構造物を思い浮かぶ。まるでチェリビダッケのように。

リストの曲にはショパンに見られるドラマ性をあまり必要としない、なので普通のピアニストであればリストは自分の技巧を見せる道具と成り下がってしまう。以前の彼にはその邪悪さや完全さを披露するにピッタリなのがリストであった。音楽評論家の許光俊先生は2012年のリサイタルを聴いて“鍵盤に集中するポゴレリチの姿を見ながら、おそらくこれはリストその人の姿にも似ているに違いないと感じた。(中略)ある楽器の天才の作品は、その天才に匹敵する演奏家のよらずば、決して真価を発揮しないのだ。なぜなら、そんな作品は徹底的に楽器の表現力に依存しているから。”(最高に贅沢なクラシック/講談社現代新書/p205)と書いている。一年を経て、ポゴレリチは新たな進化を遂げリストの曲をすら新たな境地にのし上げている。彼は芸術の極致、弾いている姿はまさに鬼神である。

”ペーター・コンヴィチュニー、オペラ演出を語る” 2013/4/9 東京ドイツ文化センター 前編

2013-04-15 | 講演会
今回は講演会の記録という形でペーター・コンヴィチュニーの赤坂にある東京ドイツ文化センターで行われた講演の再現をここに書き記そうと思います。
コンヴィチュニーの1人しゃべりで、記憶とメモ書きの限りを尽くして書きますが、書ききれない部分、表現のつたない部分が当然ありますがその点はご了承ください。
あくまでも簡略化されたものとしてお読みください。

(会場のドイツ文化センターは初めて行く場所ですがきれいな建物で、普段はドイツ語教育などをしている場所らしく図書館もあるみたい。
文化センターの人たちだけでこの日の講演会を主催しているらしく、この日の入場料は無料。
中にあるホールは250人収容で天井も高く立派な空間。
ホールの入口で同時通訳のイヤホンとレシーバーを渡されましたがドイツ人のきれいなお姉さんに手渡されて愛想も良かったです。ああ楽しい。)
(時間の7時となり、講演が始まりコンヴィチュニーがホール後方から駆け足で登場。
お初にお目にかかりましたが想像していた怖いイメージとは全く違い、終始にこやかでフレンドリー)

ミナサンコンバンワ(日本語)
今日ここにきてくれた皆さんはオペラが大好きな人でしょう。私もオペラが大好きです。
しかし、オペラは今大きな危機にさらされています。
財政、政治、、、など様々な理由から芸術にかけられている経費が削減され、
ドイツではすでに20ものオペラハウスが閉鎖されています。
これは文化に対する侮辱である他にありません。
世の中が文化を顧みず利益を重視するばかりになってしまいました。
これは大きな過ちです。
この過ちはやがて私たちの世の中を崩壊させるでしょう。

私はオペラと演劇を同じものに捉えています。
演劇を見ることはオペラを見ることと区別はなく。
みなさんは今夜見に行ってきたのがオペラなのか演劇なのかを判断して言う必要はありません。

私は今まで世界中で80以上のプロダクションの制作をしてきましたが、この中にバカげたもの1つとして、ありません。
しかし残念ながら、私は全てのオペラ公演を見たわけではないですが、
世の中のオペラ制作のおよそ90パーセントは馬鹿げた、誤った演出によって行われています。
オペラは私たちに真に何が人間的なのかを教えてくれるのです。
誤った演出はその本来のメッセージを薄めて、オペラをエンターテインメントとしてしまいます。
オペラをこのまま世界に残すことができるには2つの方法があります。
1つは美しい声、衣装、デザインで舞台を作り、有名な演奏家を集めること。
2つ目はそれぞれのストーリーに焦点を与えることです。
オペラから私たちは何かを学ぶことができます。
そのためには舞台に意味がなければナンセンスです。それはエンターテインメントです。
そして舞台の意味、それは観客との対話、議論に成り立ちます。
例えばオテロの嫉妬は私たちの何につながるのか?
タンホイザーはなにを示しているのか?

(タンホイザーのあらすじを話す)
終盤、許しを乞うたタンホイザーにローマ法王は「この杖から緑の葉が出ることが無いのと同じく、お前に救いがもたらされることはない」と言います。
そして最後にエリザベートとタンホイザーが死に、緑の葉のついたローマ法王の杖が舞台に登場してタンホイザーに救いがもたらされます。
このオペラではローマ法王が間違いを起こします。ローマ法王がですよ?
神に代わって発言するような人が間違えるはずはないです。神は絶対なのですから。
ここでは異教徒となったタンホイザーと世の中との二重道徳の結果が示されています。
これはワーグナーのカトリック批判です。
このエッセンスを見逃してはいけません。
こういったことを見逃してオペラを制作しているようではそれこそエンターテインメントです。経費の無駄遣いでしょう。
それでも今は何も伝わらない、分からない多くの、大変多くの馬鹿げたオペラ制作があふれています。

(ここからはコンヴィチュニーが影響を受けた演出家の話なのですが単語や人名についていけませんでした。
若い時にブレヒトの舞台制作に触れ、フェルゼンスタインから演出をならったそうです。
この2人はオペラ、演劇を音楽中心ではなく歌手、俳優が中心となりストーリー全体を動かすことに重点をかけたと言っています。
またスタニスラフスキーやロバート・ウィルソンもピックアップしていました。
特にロバート・ウィルソンはヨーロッパの誤ったイリュージョニズムを正したと高く評価しています。
イリュージョニズムとは人間の生活を舞台上で再現する手法だとか。)

オペラではたくさんの古い作品と触れ合います。
よく一般的に行われていた演出、例えばエフゲニー・オネーギン、これは140年前の作品ですが、
これをその140年前のやり方を想像して行うオペラ制作に意味があるのか?
それだけ前の時代の人々が果たしてどういう関係もっていたのか、
今の私たちにそれを生みだそうとするのは、無理な話です。
、意味はない、あり様がない。
オネーギンはもっと素晴らしい作品です。我々にもっと様々なことを教えてくれます。
私たちはそのための手段を見つけなくてはなりません。
特に演出家は観客の誰よりも作品を理解する必要があります。
そのためには音楽、台詞には手を出しませんが、ト書きの変更を行うことは辞しません。
音楽、台詞、ト書きのうち、ト書きは一番早く劣化してしまうからです。

これから私がかつて演出したヴォツェックのラストシーンの映像を観ます。
まずやはりこの作品は素晴らしい。どう歌うか、響くかによって20世紀が見えるのです。
(照明が暗くなりスクリーンに映像が流れる、お札が床にばらまかれヴォツェックとマリーの他に10人ほどの男女がいて、お金への執着を示したり、列を成して二人を取り囲んだり。
マリーが殺されるときにはその列が二人に向かって猛然と歩いてきて肩がぶつかる位置でマリーが悲鳴をあげて死んでしまう。
ヴォツェックは人々によってお札の山の中に埋められてしまう。)
(映像は衝撃的、隙のない緊張した舞台で、映像が終わって会場の照明が明るくなっても観客の空気はなんとも重かったです。)
(調べると1999年頃にハンブルクオペラハウスで行っていた公演。メッツマッハーと組んで様々な舞台を制作していた時期ですね。)

この作品の普通の演出の上演において良くないことはヴォツェックとマリーの貧しさを前面に出してしまうことです。
二人が不幸な結果に陥ってしまったのは貧しさだけではありません。
この舞台では床に大量のお札がばらまかれ、また本来は二人のシーンである場面に更なる人々を登場させました。
私はこの作品に社会を出演させたかったのです。ヴォツェック一人に罪をきせるのは間違いです。
私はそれがこの作品の効果を薄めてしまうと確信しています。
普通の演出のこの作品上演を観た後“ああ良かった、自分があんなに貧しくなくって”と思いながら帰る観客もいるのではないでしょうか。
そうじゃなくてよかったと客観化してはいないでしょうか。
そうではないのです。カタルシスこそが舞台の意味です。それによって人間は生まれ変わるのです。

1821年ライプツィヒでヴォイツェックが起こした殺人事件がこの作品の原作です。
当初死刑判決を受けた彼ですが、精神異常、さらにこういった状況にまでさせてしまった社会の責任を指摘され民衆は彼の死刑に反対しました。
結果的に彼は死刑となりましたが、ビュヒナーがこれに衝撃を受け芝居にし、
その100年後に偶然見つけたベルクがオペラ化をしました。
“どうしてここまで苦しまられるのか”という衝撃が彼らを戯曲、オペラの制作に突き動かしました。
それぞれの作品の役割を理解しなければなりません。そうしなければ全てが削除されてしまうでしょう。
私の舞台では音楽を、オペラハウスを出たときに、なんていい音楽だったんだろうと楽しむことを目的としています。
音楽は一番最後に楽しむものです。より音楽を新鮮に聞こえるようにするのが演出の役目です。

クラウス・フロリアン・フォークト テノールリサイタル 

2013-04-02 | リサイタル
なぜクラウス・フロリアン・フォークトにして“美しき水車小屋の娘”なのか
なぜこの選曲をしたのか
あのフォークトがこの曲を歌いこなす様なことがあるのか?
この日の公演が発表されたときにまず感じたのはなんといってもそこです。

なぜか、それはフォークト、新国立劇場のローエングリン(オケとフォークト以外の歌手、演出には全く幻滅しました)を見ましたが、
彼の容姿、声が似合うのは悲劇の主人公であって、
この“水車小屋の娘”の主人公である青年の様な人物ではない、と思い至ったところです。
歌曲とオペラが全く異なることは当然ですが、
それにしてもこの青年の性格はフォークトがオペラの舞台上で演じてきた性格とはあまりにもかけ離れてはいませんか?
意中の娘の気を引き付けたいが為に自分の仕事の出来なさを向上心もなく嘆く愚かさや、
自分の気持ちを伝えられないので森の木や鳥や花にその思いを彼女に伝えてくれないかと願う卑しさ、
ライバル(狩人)が現れても面前で敵対するようなことは出来ず、彼女だけには近づかないでくれと乞うばかりの臆病さ、
など、ワーグナーの諸役の、ローエングリンの理知的な端正さ、ジーグムンドの誠実さ勇敢さ、パルシファルの純粋さ神々しさと比べると、
どうでしょう。シューベルトでしか表すことのできていない人間の本性がまるで現前するかのようです。
このシューベルトのリートが要求しているのはより人間臭い歌い手であります。
あのローエングリンを観て、魅力でもありながら自分にひっかかりがあったのは彼のその人間臭くない完璧に見せようとする様でした。
このような人にシューベルトが歌えるのでしょうか?

ではこの日のフォークトはどのような様子であったのでしょうか。
長身と照明によって金に照る茶色い巻き毛の長髪、端正な顔立ちは相変わらず若々しく、
終始美しく響く歌声は全く稀有なものであることは明らかです。
昨年6月のローエングリンでは広めの新国立劇場を美声でもって満たしていましたが、
今回は規模も小さい東京文化会館の小ホールなので細かなニュアンスをしてメリハリのついた歌、
そして、うまい、ほんとうにうまい。
なによりも彼がいるだけで舞台、会場が引き締められるオーラを持っています。
世界の名だたる歌劇場で名声を勝ち得ているわけです。この人もスターです。

しかし自分の懸念が無き物にはなりません。
やはり、彼のオーラはこの歌にはあまりにも不向きです。
彼に似合うのはいじらしい片思いではなく一目ぼれの両想いでした。
もっと貪欲な、もっとナイーブな様でこの歌は捉えなければ面白くないです。
彼の小川への言葉にはどこか冷めたところがあり、
心情を吐露する曲では愚かさが見えない。
14曲「狩人」は前述した通り臆病さが見える場面ですが、彼は敵対し排斥しようと動きだしているようにも見えます。
この場面はまったく歌劇的で切り取って観るだけなら面白かったのですが。。。

この歌で主人公はその愚かさ故に絶望し、朽ち果てるようにおかしくなり、最後は愛する小川に入水自殺します。
同情には値しませんが、その最期の姿は狂気に満ちています。
狂気はおぞましく、そしてときにやはり美しい。
狂気はクラシック音楽とは切り離せない代物ですが、
しかしこの曲は天才シューベルトにしか書けないものであることは間違いないことを確信しました。

フォークトのここでの“絶望”は“唖然”でした。
この日、懸念を持ちながらも“芸術家たるフォークトがこの選曲をしたということはきっと何かがあるのではないか”
と本気で予想しながら上野に向かったのですが、、、どこかむなしく響きますね。
比較なんてするものではないですが、
同じ世代のヨナス・カウフマン、彼の舞台上での人間臭さはそれこそ狂気に満ちているように思います。
Jonas Kaufmann: The complete "Die schone Mullerin" by Schubert D. 795

自分はこちらの方が好きです。
自分はこのままではオペラで演ずる上でも非常に惜しい歌手であると思います。
もちろん魅力的なこのままの路線を突き進むのか、はたまた努力の末フォークトは新境地に達するのか!
最後の「小川の子守歌」は大変に美しく、無残にもはかなく、感慨深いものでした。
このような選曲が彼の今後の発展に結び付くよう願います。

シューベルト:「美しき水車小屋の娘 D.795
テノール:クラウス・フロリアン・フォークト
ピアノ:イェンドリック・シュプリンガー
2013年3月27日19:00開演
東京文化会館小ホール Q9