-曲目-
ショパン:ピアノソナタ第2番変ロ短調op.35
リスト:メフィストワルツ第1番S.514
ショパン:ノクターンハ短調op.48-1
リスト:ピアノソナタロ短調S.178
ホールに入ると、舞台上にはすでに男が、帽子をかぶり奇妙な服装の巨体の男が座ってこれからイーヴォ・ポゴレリチが弾くはずのピアノを鳴らしていた。その男は調律師などではない、その音を聴いてすぐに分かった。その音は、ピアノとは指が鍵盤を、ハンマーが弦を叩く打楽器であることをすっかり忘れる程輪郭が無い。暗黒な低音にクリスタルに抜ける高音。弾いているものは曲と呼べるものではない。極小の音量で地面を這いずるごとく無造作に音を並べている様に聴こえる。それなのに、その音はあまりにも美しい。もろく、はかなく、繊細な音の羅列に頭がくらくらする。その怪しげな男は紛れもまくポゴレリチだった。演奏前は決まって開演前のホールでこうして指ならしをするらしい。視線は鍵盤を弾きながらも客席にある。怪しげに様子を窺っているらしい。
この日のミューザ川崎は驚くほど閑散としていた。普段の社交的で花々しい空気は無く、皆身動きをせず儀式的だ。一階席はほぼ埋まっているのだが二階席以上はポツリポツリとしか人が見えない。この日の怪しい雰囲気をその異様なミューザの螺旋構造の客席が引き立ててもいた。
しかしだ、袖に引き、燕尾服に着替え拍手を受けるポゴレリチはおよそ噂からは想像できない程普通のピアニストだった。それまでは、特に妻を失ってからの彼は、唯我独尊、孤高にして破壊的で破滅的、暗黒のピアニストという評が専らだった。拍手に応えて頭を下げれば、彼ほどお辞儀の似合わない演奏家はいないと言われていた。曲のらしさなど消散させ、個々の音に耳を澄ますかのように常軌を逸して遅く、極限まで張りつめた音楽やっていた。2012年の来日リサイタルなど今回のものにブラームスの間奏曲が追加されたプログラムを休憩込みで3時間10分かけて弾いていたらしい。Youtubeにある最近の演奏会を観客がこっそりと録音した音源を聴いてみる。左手で暗黒を会場に満たし、右手の旋律の遅さ、不気味さに一緒に心臓が止まってしまうのではないかと想像させられ、鍵盤の強打によって観客は打ちのめされる、暴力的で邪悪だった。それから一年、彼はピアニストの大家の様な威厳で観客の拍手を受ける様になった。お辞儀をしても普通だ。演奏のテンポも曲の判別が付かなくなる程の異常な遅さではない。リサイタルは2時間という常識的な長さで終わった。しかし、彼はまた別の高みに登っていた。
ひとつに驚いたのは、個々の音へ大きくクローズアップするやり方は昔からだが、和音に対する感覚の変化だ。曲全体の横の構成よりも和声の縦構造へのさらなる強い着眼が見える。なんといっても左右の手のタッチに寸分の狂いがなく作られている和音。すべての打鍵された音が生き生きと聴こえる。なので、演奏はより迷いなく慎重になった。すべてが考えつくされているのかと思うとぞっとする。
ショパンのソナタの第一楽章はこの世のものとは思えない美しい旋律があった。その後に続く低い、絶望の和声と過激な展開は非情な運命にさらされる男と女の苦しい運命を想像させられる。その後も耽美な風景が続く、しかしすぐ隣には闇が隣り合わせだ。このソナタからはドビュッシーの様なフランス音楽の匂いがした。フランスの一筋縄ではいかない、美と闇が混在する風景や文学とこの演奏はよく似ていた。東京での公演の後すぐに、パリのシャンゼリゼ劇場でリサイタルを開いたらしい。パリで聴く今のポゴレリチのショパンはさぞ美しいことだろう。第4楽章では強靭な音の連続と美しい高音が点描画の様に散りばめられ終わった。今の明るい文明が崩れ落ちあの世と同一となるかの気分となった。まったく恐ろしい。
ノクターンはこの日よりも2日後にサントリーホールで行われたベートーヴェンプロでのアンコール演奏の方がずっと良い演奏だった。冒頭、夜道をひとりのそりのそりと歩き始めるが、以前の様に漆黒の夜道ではない。トリルの美しさには見えない足元を照らしてくれる星が空に見えている。中間部からは悲しみに満ちた人間の振りしぼる力強さがある。なんと涙ぐましい演奏なのだろうか。きっとベートーヴェンに共鳴されてそんな演奏がなされたに違いない、素晴らしいアンコールであった。
しかしなんといってもこの日で白眉だったのはリストの2曲。メフィストワルツでは縦横無尽に音が疾駆していく、しかし悪魔的に打ち鳴らしていない。大きな体は微動だにせず腕がひたすらに動いている。考えつくされた和音の連続は、すべてが彼のもとにはめ込まれ、ヨーロッパの大聖堂の様な構造物を思い浮かぶ。まるでチェリビダッケのように。
リストの曲にはショパンに見られるドラマ性をあまり必要としない、なので普通のピアニストであればリストは自分の技巧を見せる道具と成り下がってしまう。以前の彼にはその邪悪さや完全さを披露するにピッタリなのがリストであった。音楽評論家の許光俊先生は2012年のリサイタルを聴いて“鍵盤に集中するポゴレリチの姿を見ながら、おそらくこれはリストその人の姿にも似ているに違いないと感じた。(中略)ある楽器の天才の作品は、その天才に匹敵する演奏家のよらずば、決して真価を発揮しないのだ。なぜなら、そんな作品は徹底的に楽器の表現力に依存しているから。”(最高に贅沢なクラシック/講談社現代新書/p205)と書いている。一年を経て、ポゴレリチは新たな進化を遂げリストの曲をすら新たな境地にのし上げている。彼は芸術の極致、弾いている姿はまさに鬼神である。
ショパン:ピアノソナタ第2番変ロ短調op.35
リスト:メフィストワルツ第1番S.514
ショパン:ノクターンハ短調op.48-1
リスト:ピアノソナタロ短調S.178
ホールに入ると、舞台上にはすでに男が、帽子をかぶり奇妙な服装の巨体の男が座ってこれからイーヴォ・ポゴレリチが弾くはずのピアノを鳴らしていた。その男は調律師などではない、その音を聴いてすぐに分かった。その音は、ピアノとは指が鍵盤を、ハンマーが弦を叩く打楽器であることをすっかり忘れる程輪郭が無い。暗黒な低音にクリスタルに抜ける高音。弾いているものは曲と呼べるものではない。極小の音量で地面を這いずるごとく無造作に音を並べている様に聴こえる。それなのに、その音はあまりにも美しい。もろく、はかなく、繊細な音の羅列に頭がくらくらする。その怪しげな男は紛れもまくポゴレリチだった。演奏前は決まって開演前のホールでこうして指ならしをするらしい。視線は鍵盤を弾きながらも客席にある。怪しげに様子を窺っているらしい。
この日のミューザ川崎は驚くほど閑散としていた。普段の社交的で花々しい空気は無く、皆身動きをせず儀式的だ。一階席はほぼ埋まっているのだが二階席以上はポツリポツリとしか人が見えない。この日の怪しい雰囲気をその異様なミューザの螺旋構造の客席が引き立ててもいた。
しかしだ、袖に引き、燕尾服に着替え拍手を受けるポゴレリチはおよそ噂からは想像できない程普通のピアニストだった。それまでは、特に妻を失ってからの彼は、唯我独尊、孤高にして破壊的で破滅的、暗黒のピアニストという評が専らだった。拍手に応えて頭を下げれば、彼ほどお辞儀の似合わない演奏家はいないと言われていた。曲のらしさなど消散させ、個々の音に耳を澄ますかのように常軌を逸して遅く、極限まで張りつめた音楽やっていた。2012年の来日リサイタルなど今回のものにブラームスの間奏曲が追加されたプログラムを休憩込みで3時間10分かけて弾いていたらしい。Youtubeにある最近の演奏会を観客がこっそりと録音した音源を聴いてみる。左手で暗黒を会場に満たし、右手の旋律の遅さ、不気味さに一緒に心臓が止まってしまうのではないかと想像させられ、鍵盤の強打によって観客は打ちのめされる、暴力的で邪悪だった。それから一年、彼はピアニストの大家の様な威厳で観客の拍手を受ける様になった。お辞儀をしても普通だ。演奏のテンポも曲の判別が付かなくなる程の異常な遅さではない。リサイタルは2時間という常識的な長さで終わった。しかし、彼はまた別の高みに登っていた。
ひとつに驚いたのは、個々の音へ大きくクローズアップするやり方は昔からだが、和音に対する感覚の変化だ。曲全体の横の構成よりも和声の縦構造へのさらなる強い着眼が見える。なんといっても左右の手のタッチに寸分の狂いがなく作られている和音。すべての打鍵された音が生き生きと聴こえる。なので、演奏はより迷いなく慎重になった。すべてが考えつくされているのかと思うとぞっとする。
ショパンのソナタの第一楽章はこの世のものとは思えない美しい旋律があった。その後に続く低い、絶望の和声と過激な展開は非情な運命にさらされる男と女の苦しい運命を想像させられる。その後も耽美な風景が続く、しかしすぐ隣には闇が隣り合わせだ。このソナタからはドビュッシーの様なフランス音楽の匂いがした。フランスの一筋縄ではいかない、美と闇が混在する風景や文学とこの演奏はよく似ていた。東京での公演の後すぐに、パリのシャンゼリゼ劇場でリサイタルを開いたらしい。パリで聴く今のポゴレリチのショパンはさぞ美しいことだろう。第4楽章では強靭な音の連続と美しい高音が点描画の様に散りばめられ終わった。今の明るい文明が崩れ落ちあの世と同一となるかの気分となった。まったく恐ろしい。
ノクターンはこの日よりも2日後にサントリーホールで行われたベートーヴェンプロでのアンコール演奏の方がずっと良い演奏だった。冒頭、夜道をひとりのそりのそりと歩き始めるが、以前の様に漆黒の夜道ではない。トリルの美しさには見えない足元を照らしてくれる星が空に見えている。中間部からは悲しみに満ちた人間の振りしぼる力強さがある。なんと涙ぐましい演奏なのだろうか。きっとベートーヴェンに共鳴されてそんな演奏がなされたに違いない、素晴らしいアンコールであった。
しかしなんといってもこの日で白眉だったのはリストの2曲。メフィストワルツでは縦横無尽に音が疾駆していく、しかし悪魔的に打ち鳴らしていない。大きな体は微動だにせず腕がひたすらに動いている。考えつくされた和音の連続は、すべてが彼のもとにはめ込まれ、ヨーロッパの大聖堂の様な構造物を思い浮かぶ。まるでチェリビダッケのように。
リストの曲にはショパンに見られるドラマ性をあまり必要としない、なので普通のピアニストであればリストは自分の技巧を見せる道具と成り下がってしまう。以前の彼にはその邪悪さや完全さを披露するにピッタリなのがリストであった。音楽評論家の許光俊先生は2012年のリサイタルを聴いて“鍵盤に集中するポゴレリチの姿を見ながら、おそらくこれはリストその人の姿にも似ているに違いないと感じた。(中略)ある楽器の天才の作品は、その天才に匹敵する演奏家のよらずば、決して真価を発揮しないのだ。なぜなら、そんな作品は徹底的に楽器の表現力に依存しているから。”(最高に贅沢なクラシック/講談社現代新書/p205)と書いている。一年を経て、ポゴレリチは新たな進化を遂げリストの曲をすら新たな境地にのし上げている。彼は芸術の極致、弾いている姿はまさに鬼神である。