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つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

切り離された

2013-02-19 15:22:15 | 日記
北海道で買った昆布と、カツオの厚削り粉々になったもので出汁をとって小松菜と油揚げを炊く。
ダブルの出汁だなんて、まるで料理をする人みたいだ。
少しのお酒と、少しの塩、少しの醤油、少しの砂糖。
醤油のボトルが終わったと思って、ふと見た賞味期限の日付がかなり過ぎ去っている。

ふんわりときらきら細かな湯気が立って、お玉からそのまま味見をすると、ふんわりと優しい香りと優しい味。
ついでにいつもの味噌ではない白味噌で、豆腐とネギと、北海道のとろろ昆布のお味噌汁をこしらえる。
こうして時々、ちょっとだけ丁寧なことをして温かいものを作る。

でも、ごはんを炊くのが面倒且つ待てなくて、スーパーのお惣菜売り場で白飯を買う。
北海道の鮭とばハラスもトースターで炙ってみる。
北海道のイカ墨さきイカも同じお皿に添える。

北海道づくし。
お酒のお供はご飯のお供。

明らかに塩分過多だったようで、食べ終わった後、やたらと水を欲した。

Ben Folds Five が来日している。
私が音楽を漁り始めたときのあのiPod nanoの中に1曲だけ「Best Imitation of Myself」が入っていた。
“ご機嫌な休みの日の朝に聴きたいポップな曲”、というのは私の中の勝手な解釈だけれども、のプレイリストの中の1曲でもあった。
You Tubeでライブ映像を見ると、ベンフォールズさんの演奏姿に私は魅せられてしまって、あんなに入った状態であんなふうにピアノが弾けるのかと、単純に驚いた。
それでいてとても楽しそうで明るそうな小柄なベンフォールズさんが私は好きになった。
ある一つのYou Tubeの動画は、入り過ぎてピアノを壊しそうなくらいのトランス状態のものがあって、私はそれが一番お気に入りだ。

ピアノの音もベンフォールズさんの声も、3ピースのギターのいないバンドの響きも曲調も、感じがとても心地良くて、私はそのままアルバムを2枚、借りた。
さほど聴き込んだりすることはないけれど、今も私の1GBのiPod shuffleの中には「Best Imitation of Myself」と「Underground」と「Boxing」の3曲が入っている。

外人さんはもう来日しないかもしれない、と思うから、私の浅いあさい音楽経歴の中で引っかかった人の生は是非観ておきたいと、もう何か月か前にチケットを取った。
実際に見ても、ベンフォールズさんは小柄で、良い意味で頭が良さそうだった。

ただ、なんというか、会場が渋谷公会堂だったのだけれど、良すぎたのだと思う。
市民会館のような扇形のコンサート会場は音が響きにはなるのだけど、跳ね返りとダイレクトさに乏しくて物足りない。
曲にもよるけれど、あっさりし過ぎていたのだ。
今回の彼らがスマートすぎたこともある。
ちなみに席は前から11列目だったから比較的近かった。

単純なうるささも私が飛べる一つの要因だ。
音を浴びたい、というか、音の中に潜りたい。
小さな空間の中で、演奏者の入っているところを見ながら、脳を埋め尽くしてもらいたい。

今後、うるさくない繊細な音が私に響くようになるのであれば、それはたぶん私がまた変化したということなのだろうと思う。
彼らはロックだったり、ポップだったりするのだと思うのだけど、私はまだまだロックだったりパンクだったりするわけなのだ。

でも、彼らの演奏を生で聴けて良かった。
まとめるわけではないけれど。



小さな話

2013-02-18 22:04:03 | 日記
私は携帯電話の裏に直近で買わないといけないものや忘れそうな予定を付箋で貼りつける癖がある。
携帯電話の裏側に、ぴらぴらとしたものがくっついているものだから、よく人に怪訝そうな顔をされる。
付箋アプリとかにすればよいのだけど、データとして中に入っているものはそこを開かないと見えないので携帯電話そのものを見るときに気づけるし、紙が貼り付けてある違和感もあるので、リアルな付箋を使っている。
それに、書いてあることが「はさみ(×2)」とか「まつげ予約」とか「湯島」とか、まあしなくても買わなくてもどちらでも困らないような事柄のため、すぐに剥がせた方が良い。

怪訝そうな顔をする人に一通り説明をして、良くない?と少しだけ薦めてみるのだが、私と同じことをしている人は未だに見たことがない。
確かに、見栄えが悪くて、バッグの中で勝手に剥がれてそれにも気づけないことがあることは、私も認める。

家にいるとき、もっぱらiPhoneから音楽を聴くようになった。
iPod shuffle も iPod nano もそのままでは音が出ないし容量も小さい。
iPhoneは、PCのiTunesと同期ができて、手軽に曲を選べてそのまま音が出せる。
PCを立ち上げなくても、スピーカーに繋がなくても、そのまま聴ける。

そんなことはこのご時世、どのような方法であれ可能だとは思うのだけど、iPhoneからそれをすることは機械音痴の私が何の迷いもなくできる。
というか、スピーカーだって無線で飛ばして、iPhoneをリモコン代わりに音量を調節したりできるのだとは思うが、それに至るステップを踏む気がしない。

とりあえず、iPhoneってありがたいなあと恩恵に与っている次第である。

付箋にまで書いた湯島の梅まつり。
湯島天神は菊まつりもあって、ここ3年ほど、書道教室のついでに年に2回訪れている。
学問の神様がいるようで、たくさんの合格祈願があった。
私には申し訳ないくらい信仰心がないものだから、参拝に混んでいる本殿を素通りする。

初春を告げる梅の花ではあるけれど、それには痛いほど寒すぎて、3分咲きの梅の花は咲いたばかりで散るにも散れず、凍えていた。
直接仰け反って空を見上げるよりも、カメラを通して見た方が空に落ちそうで、iPhoneの画面を空に向けたまま足元覚束ないままふらふらする。
梅の枝と花で携帯の画面を描きながら、何枚か撮って、しかしふらふらするのも寒すぎて、足早に御徒町へと戻った。

私は桜よりも梅が好き。

やっと、本当にやっと、私は書道で創作を始めた。
先生にちくちく言われ続けて、と言っても圧迫はされない私であるが、2年くらいが経過するだろうか。
やっと私はお手本をちらっとも見ずに活字から作品を起こせるようになった。
これまでももちろんやったことはあるのだけど、とりあえず最初から自分で書く、というスタイルが身に付いた。

「書くこと」それが楽しいから、「先生の字」それがすごいから、「創ること」それは手間がかかるから、それに、どんなにお手本を真似しても技術はかけ離れているから、という理由で進んでやってこなかった。
しかし、これまでの教えやルールや真似も含まれているにせよ、自分で最初から作ってみると、その作品には気持ち悪いくらい“私”が表出している。
今はそれが作品として良いとか悪いとかをさておき、創作とは、のほんの一部分を齧っている気分がして、気持ち悪くも気持ちが良い。

言い訳をいっぱいいっぱいしてきた。
今でもいっぱいする。
その言い訳に罪悪感はない。と言い切る。

教科としての、図工が嫌いだった、美術が嫌いだった。
音楽は好きでも嫌いでもなかった。

でも、自分でやったらそれだけ楽しい。
自分の中に入ってきたらそれだけ楽しい。
おめでたいこと。



山積みのスチール缶

2013-02-15 21:57:43 | 日記
何やら面白そうなTVドラマがやっているようなのだが、如何せん時間がない。
しかし年末年始の多忙はひと段落しており、勝手にやっている趣味や旅行でまったくTVドラマまで手が回らないだけだ。
お奨めいただいた「深夜食堂」も「最後から二番目の恋」も手つかずだし、「デスパレートな妻たち」の最新シーズンも観れていない。

聴きたい音楽、読みたい本や雑誌、書きたいブログ、弾きたいギター、書きたい書道、観たい映画やドラマ、撮りたい花、会いたい人、行きたい梅まつりと王羲之展。
それに、飲みたいお酒、が入ってしまうとその持続力というか破壊力たるや、二日酔いから眠気や疲労までを全部含めると翌日いっぱいまで及んでしまう。
しかしながら、会いたい人と飲みたいお酒というのは強い関係があってそれは私ひとりで成し得るものではないから今は一番大事にしたい。

ただ、私は身体は人よりも丈夫な方だと思うけれど、体力的・精神的に無理がきくタイプではないので、疲れてしまうと色々なことがうまく回らなくなる。
そもそもそこまでストイックな人間ではないのに、おざなりにすることとても増える。

そのすべてを食いとめるきっかけとして、自分の部屋の掃除は効果的だったりする。
そこで普段は土日にしかしない掃除を、平日の夜遅くに帰宅して、カーペットを洗い始め、ラベンダーの精油を数滴落としたタオルで床を水拭きする。
しかるべきところに物を収めて、要るか要らないかわからないものを捨てる。

少しだけ立て直った気がして、床の上のホットカーペットに仰向けになる。
結局電気と消音のテレビとPCからクロマニヨンズを流したまま夜を明かしてしまう。
化粧を落としていない、コンタクトを外していない。

少しも立て直ってないではないか。

最近は、どっぷりずぶんと、色の濃い何かの中にいるような感じがする。
何やらその濃い何かは魅惑的な極彩色に満ちていて、たとえば万華鏡の中に入ったような気分だ。
少しだけ息がしづらくて、刺激が強くて。
私のある友人を見ていると、私の万華鏡など小さな小さなものだけれど、私にとっては大きな大きな色の中。

たぶん極彩色の万華鏡の中にいるのは、自然に抜けるか自分で抜けるかどちらにしても、ずっとは続かない。
この中のある要素としては続くのは楽しいけれど、ずっとは疲弊してダメになってしまうだろう。
次の地点は、青空が続く平原か、波しぶき上がる嵐の海か、曇天でくすんだ町か、他の何かか、またそれらの組み合わせがバランスが取れているというものなのだろうが、良い方への歩みを進めるとして、とりあえず今は万華鏡の中を楽しめるだけ楽しみたいと思う。


真心ブラザーズが良い。
斉藤和義とフリッパーズ・ギターとウルフルズとエレファントカシマシの要素を含み、青臭すぎたり甘すぎたりして、くすぐったいを超えてちょっと気持ちが悪い。
私はこういうのがすごく好きなのだ。
みんな真面目で、私も真面目だ。

いただいた28本のチューリップを色々と生け替える。
普段こんなにたくさんの花を買うことはないから、たくさんのことができて、それぞれに切り取りたくなる。
贅沢な遊びも、枯れるという果てがあるから、より贅沢に思う。

チューリップのお尻が集合。


夢が香る

2013-02-13 14:54:54 | 日記
これまでクロマニヨンズはあまり聞いていなかったのだけど、やはり今の彼らをということと3月のライブを控えて、最新アルバム『YETI vs CROMAGNON』を買った。
CDは未だに買う習慣がないのだけど、初回限定のDVDが欲しかった。

現在の彼らの姿。
今の彼らが創る音楽。

ヒロトが歌う。
マーシーが叫ぶ。
輪になって演奏する。
ただそれだけでもう、充分なのだと、このDVDはそんな感じ。

ついでにトム・ロビンソンバンドのアルバムが欲しくて、探してみてもレンタルはないので買う。


自分のことを過小評価している部分と、過大評価している部分と。
それを言われてなんだか心地が悪くて、心地が悪いということはおそらく自分の中でも認識しているのにそれを認めたくないということなのだと思う。
私が甘えられる人の前で、私は小さな嘘をつくこともできなくて、時にそれが残酷に相手を傷つけることがあるのかもしれない。

分からないことを分かる、と言ったり、そう思わないことをそう思う、と言ったりすることが難しい。
相手との距離感が近ければ近いほど。
お互いの違いを認識していればいるほど。
もし相手を傷つけてしまったのならそれは本当にごめんなさい、と思うのだけれど、分からないことやそう思わないことについて謝るのも筋違いに思ってしまう。

それでもこちらがさっぱり悪気のないことが、相手に変に響いてしまうことも確かにある。
逆もまた然り。

優しい、ということが難しい。
どういうふうに考えても、自分以外の思考をすることはできない。
でも、自分が未経験の他人の経験を精一杯自分なりに想像することはできる。
慮る、ということはひとつの優しさのあり方かもしれない。
分からなくても、想像してみること、またその姿勢。

甘えられる人の前で、奔放に出す甘えは、こちらはそうしていたいのだからそうできないことはひどく切ない。
信頼の中で相手から成長も願われるわけだからそれに応えたくもあるし、そもそもの自分の折れられない部分もあるわけで。
甘えたい、も、貫きたい、も相手にそれを向けることができるのは贅沢なことだとも思う。

何をここで弁解しよう、これは私の恋人関係の話について言ってはいない。


例年1月終わり~2月くらいから花粉に反応する私なのだが、今年はまだ反応していない。
今年は花粉の飛散量が去年の何倍と騒がれているのだからもう反応してもいい頃なのだが。
まさか体質まで変わったとしたら、本当の意味で細胞が生まれ変わったことになる。
花粉症が治った人の話は未だに聞いたことがない。

28本のチューリップが、少し先端の水分を失い始めた。
再度水に浸けている部分をはさみで切り落として、背丈を低くする。

いつも自然光か常時ライトでしか撮らないけれど、光の具合で写真は同じアングルでも様変わりするだろうからそんなこともやってみたくなる。
この花にしか出せない、この花のかわいさセクシーさ。
それに私という味付けをちょっとだけして切り取る。

チューリップの園。
なんてかわいいのでしょう。


人間だから欲もあります
人間だから恥もあります
花じゃないんです人間はいろいろあるんです
人間だから 人間だから
日本の夏だロッケンロール!




対等じゃない

2013-02-11 14:27:54 | 日記
北海道に行く。
雪まつりという名目。
7月の初めての北海道・富良野から約半年、再び半年前と同じ友人と新千歳空港で再会。

私はさほどそういう意識がないのだけど、よく旅行に行く。
考えてみると私は自ら人を巻き込んで遠出の予定を立てることがない。
ありがたいことに、私はよく人から旅行に誘われる。
たぶんそれは、私が単純に準備に時間がかからなく、さほど気分屋でなく、さほど主張をしないからだと私は思っている。
ちなみに、今私が自ら行きたいと遠出の旅行に誘うとしたらそれは花畑以外にはない。

私がこだわりのあるところなど本当にほんの少しで、その他のことは広範囲の事柄において許容度が高いと思う。
食べるものも泊まるところも、もちろん良い方がいいに決まっているけれど、でも相手が決めてくれるのなら、何でもどこでもいいと思ってしまう。

決める責任が嫌なのだと思う。
私が決めて、相手にとって美味しくなかったら心地良くなかったらと考えると、やはり相手のいいようにして欲しいと思ってしまう。
私は相手が決めてくれたことなら本当に何でもいいから。
しかしながら、決定権の放棄が物事を進まなくしたり責任転嫁になったりもするから、ある程度の意見は言うようにしている。

一緒に旅行に行く相手が私を連れていって少し怒りを覚えるとしたら、地図が全く読めないこととそれを放棄することによるだろうと思う。
初めての土地で目的地までの道のりを考えようとしないのは迷惑なやつだと重々承知しているけれど、努力しようとしたところで私がやるよりも相手がやった方がどう考えても早いので、どうかそれだけは許してほしい。

私は誘われるのは嬉しいし、どこか遠くに行きたいという欲求はあるから、行く行くと言って行く。
でも、趣味は何か、と問われて旅行とは言わない。
趣味というには能動さが足りなさ過ぎる。
だから、誘ってもらえるのはとてもありがたい。

札幌は、雪国だった。
ゲレンデにまだ一度も行ったことがない私は、初めての雪原という雪原を見たのはイエローナイフだった。
日本の都市として、雪ありきの街を見たのはこれが初めてである。

ちょうど冷蔵庫に閉じこめられたかのような冷たさで、街中が雪と氷に覆われている。
光が雪の白さを増して、目を細めてしまうくらい眩しい。
雪かきをしていないところは10センチ以上の分厚いアイスバーンが乗っかっていて、アスファルトは見えない。
手付かずになっている路地裏の小径はふかふかの雪がこんもりと1mほど積もっている。
常緑樹の木々はもう限界まで雪を積み被っていて、落葉樹の木々は枝上に細く白を乗せている。

カフェオレのシャーベットのような土混じりの雪の上では転ばないように気をつけながら歩く。
何食わぬ顔でヒールをはいて歩いているのはこちらの生まれの人なのだろう。
道路横に高く積まれた雪から滑り降りて遊ぶ子供たちは旅行者なのだろう。

雪まつりを見て、ジンギスカンを食べて、お酒を飲んで、喋って、喋って、喋って。
小樽に行って、昆布やら鮭とばやらガラスペンやらロイズのチョコポテトチップスやら六花亭のフリーズドライの苺ホワイトチョコがけやらを買って、海鮮を食べ、雪に降られ、喋って、喋って、喋って。
ワインを飲んで、また喋って。
気が付いたらベッドの掛け布団の上で夜を明かした。

再び新千歳空港でバイバイと別れを告げて一人になった途端、また音を欲して急いでiPodをつなぐ。
止まっていたのは、「君のため」だった。

非日常、異世界の雪国。
雪が常であるこちらの日常。

結局、寒いのは苦手。

ロンドンよりも俄然寒い。
ロンドンよりも俄然美味しい。

一番美味しかったものは何ですか?
ジンギスカンのラム肉です。