酔ってもないのに床で世を明かしてしまって、体が痛い。
冬に向かうことはちっとも好ましくはないけれど、瞬間的なホットに季節に関係はないし、事実上の季節が冬だったとしても、真実上の夏にひっくり返すことも可能だからいい。
ただそれはこれを書いている今ちょっとしたことで私がホットだからという理由が大きくて、寒さに立ち会ったら「寒い寒い」と叫ぶのだけれど。
全部をさらけ出すことが目的ではない。
それは全部であることの社会性の乖離とその跳ね返りもあるだろうし、別に全部をさらけ出さなくても得られるからというのもあるだろうし、商業的な側面もあるだとう思う。
まあその前に全部を知ることが非常にひじょうに難しいというかほとんど不可能だ。
しかも、たとえ全部を知ることができたとしても、その時点からそれは全部ではなくなる。
味付けしてオブラートで包むのか、エッセンスを少し切り取るのか。
奥田民生は味付けしてさらにオブラートで包んでいるだろうし、クロマニヨンズはエッセンスを少し切り取っているだろう、と思う。
誰かの何かのアウトプットからロックンロールを見るとき、それが根底にあるかないかがまず重要であるのだけれど、私は最初の頃そういうものは「まるのまま溢れ出ている、垂れ流している」から私に届いたのだと思っていた。
しかし最近私はそれはなんとなく違うような気がしていて、そういうものが根底にある人がその片鱗を切り取って見せてくれているんだなと思うようになった。
とは言え、よりまるのままに近くて溢れ出してしまっているようなものが私は好きだけど。
また勝手に思うわけだけれど、ガキンチョだますのがロックだと思う、と言ったヒロトの言葉はここにあって、そのロックンロールの入り口を見せ続けてくれているのだと思う。
あとはそれを受けた個人が、自分の中のロックンロールに入り込んだり探し続けたりする。
根底のロックンロールが消えることはなくて、それは死ぬまでずっと追い続けることなのだろうと思う。
私にとってのロックンロールとは、心の奥の奥の中核にある、ひどく熱く熱せられた鉄の玉のようなイメージで、自覚的にその熱い“ロックンロール玉”みたいなものに触れたい衝動が起こり続けている、という現象のような気がしている。
“ロックンロール玉”はひどく熱いものだから、初めて触れるときも次に触れるときも、触れている最中は何が何だかよくわからない、という感動という状態に陥る。
私はこれを真顔で言うし、私はお母さんから生まれました、というのと同じくらいのレベルで本気でそう思っている。
ときにそれを「今さらの青春だ」と半ば揶揄されることへの抵抗については早く止めたい。
“ロックンロール玉”に触れようとするだけで私が楽しいのだから、それ以上に何かが関わることではないのだから。
何度言葉を変えて私はこのことを言い続けるのだろう。
今のところ、終わる気はしていない。
本当に“ロックンロール玉”に触れることができたら勝ちだし、本当に笑い転げることができたら勝ちだ。
それが、勝ちだ。
アロエは怖い。
冬に向かうことはちっとも好ましくはないけれど、瞬間的なホットに季節に関係はないし、事実上の季節が冬だったとしても、真実上の夏にひっくり返すことも可能だからいい。
ただそれはこれを書いている今ちょっとしたことで私がホットだからという理由が大きくて、寒さに立ち会ったら「寒い寒い」と叫ぶのだけれど。
全部をさらけ出すことが目的ではない。
それは全部であることの社会性の乖離とその跳ね返りもあるだろうし、別に全部をさらけ出さなくても得られるからというのもあるだろうし、商業的な側面もあるだとう思う。
まあその前に全部を知ることが非常にひじょうに難しいというかほとんど不可能だ。
しかも、たとえ全部を知ることができたとしても、その時点からそれは全部ではなくなる。
味付けしてオブラートで包むのか、エッセンスを少し切り取るのか。
奥田民生は味付けしてさらにオブラートで包んでいるだろうし、クロマニヨンズはエッセンスを少し切り取っているだろう、と思う。
誰かの何かのアウトプットからロックンロールを見るとき、それが根底にあるかないかがまず重要であるのだけれど、私は最初の頃そういうものは「まるのまま溢れ出ている、垂れ流している」から私に届いたのだと思っていた。
しかし最近私はそれはなんとなく違うような気がしていて、そういうものが根底にある人がその片鱗を切り取って見せてくれているんだなと思うようになった。
とは言え、よりまるのままに近くて溢れ出してしまっているようなものが私は好きだけど。
また勝手に思うわけだけれど、ガキンチョだますのがロックだと思う、と言ったヒロトの言葉はここにあって、そのロックンロールの入り口を見せ続けてくれているのだと思う。
あとはそれを受けた個人が、自分の中のロックンロールに入り込んだり探し続けたりする。
根底のロックンロールが消えることはなくて、それは死ぬまでずっと追い続けることなのだろうと思う。
私にとってのロックンロールとは、心の奥の奥の中核にある、ひどく熱く熱せられた鉄の玉のようなイメージで、自覚的にその熱い“ロックンロール玉”みたいなものに触れたい衝動が起こり続けている、という現象のような気がしている。
“ロックンロール玉”はひどく熱いものだから、初めて触れるときも次に触れるときも、触れている最中は何が何だかよくわからない、という感動という状態に陥る。
私はこれを真顔で言うし、私はお母さんから生まれました、というのと同じくらいのレベルで本気でそう思っている。
ときにそれを「今さらの青春だ」と半ば揶揄されることへの抵抗については早く止めたい。
“ロックンロール玉”に触れようとするだけで私が楽しいのだから、それ以上に何かが関わることではないのだから。
何度言葉を変えて私はこのことを言い続けるのだろう。
今のところ、終わる気はしていない。
本当に“ロックンロール玉”に触れることができたら勝ちだし、本当に笑い転げることができたら勝ちだ。
それが、勝ちだ。
アロエは怖い。
