井頭山人のgooブログ。

そうですね、日記としてエッセイとして、いま考えている事を記事として書いて行きたいですね。今後とも宜しくお願いします。

ニュー・サイバネティクス

2020年05月16日 11時27分41秒 | 日記
USAの数学者ノーバートウィーナーが人間と機械の共生を基に、新たな社会システムを思いついたのは1950年代の事であったが、彼がこの工学分野につけた名前はCyberneticsであった。初期の考えは自動機械制御の方法を人間の能力を補う方向へと進展したのがこのサイバネティクスという分野である。もちろん最初のアイデアから発展して行き、その考えは新たなる技術の進歩によって、一本の木が大樹となるに従い様々の枝葉を出す如く総合的な分野へと発展する。最近の電子技術と計算機の速度的な発達により学習する機械が登場し、その発達の速度は目を見張るごとくである。思考機械が出てくるのは19世紀の事であるが、それは飽くまでもおとぎ話のレベルであった、然し現在の時点ではそうとも言えないレベルに到達しつつあるようだ。

デープ・ラーニング(深層学習)とでも称する、計算機の選択のアルゴリズムが進んでいる。learningラーンと云う如く、それは習うという事であり、自らの思考を駆動する機械ではない。学習という英語にはlearnラーンという言葉とStudyスタディという言葉がある。ラーンとは真似る、習う、という意味を有する。それに対してスタディは獲得する、究める、という、より創造的な学習の事である。もちろん電子計算機に植え付けた深層学習は、将棋や囲碁の様な規則を持った勝負ごとに強い。それは計算機の性質上、人知をはるかに超える速度を持つゆえに、学んだ規則を基に猛烈な選択肢(例えば100万手先まで)を一瞬の下に読むことが可能だからだ、計算機はこの様な特徴を有している。

「この馬力と速度の疲れを知らぬ計算機は人知を超えられるか?」という問題がある。計算機は莫大な記憶量とその記憶量を処理する速度が特徴であるが、或る友人との対話では「計算機は人知を超えられない」と彼はいう。「計算機は自ら考える事はしないからだ」と云うのだが、それは彼の考え違いであると私は言った。脳が動いて居るような、今の段階では未知のアルゴリズムに、似たようなソフトが開発・導入されれば計算機は自ら知識やソフトを検索して行動を決定する思考機械も可能だろう。それがまだ発見できない内は、確かに計算機は思考機械ではない。問題は計算機にどの様にして、問題意識を持つようにソフトを導入すべきか?という技術上の壁なのだ。人間の思考と云う物を具体的に考えてみよう。ここで云う「好奇心」をソフト化するのは、まず好奇心のmechanismを知らねばならない。それを把握するのにはひどく難しい概念のことだ。人間の脳の思考様式を決定している言葉と云う物が一つのヒントを持っている。ウィーナーがどれだけCyberneticsの未来を見ていたかは定かでなないが、計算機械の発達に比例して、人間の脳神経系の探究はひどく遅れている。言語の探究にしてからが、その端的な例である。生物(人間)の意識に関する心理学が遅れている。数学もそういった心とことばと、それを体現している具体的な神経系に関するその分野ではまだ意識さえ皆無の状況だ。

これから先、どの様な事態が考えられるだろう。