井頭山人のgooブログ。

そうですね、日記としてエッセイとして、いま考えている事を記事として書いて行きたいですね。今後とも宜しくお願いします。

大学者ー森銑三先生の著作

2020年01月21日 13時13分00秒 | 日記

 森銑三先生の著作の思い出は、私が小学校5年生の時に目にした「オランダ正月」であった。父の蔵書の中に、それこそ古い新書版の厚い本があった。それが確か発刊が昭和13年8月の「冨山房百科文庫」の一冊として出されたものだ。もちろん当時はそんなことを知る由もない。最初の見出しから、私はオランダにも正月があるのか?神社のお参りに行き、雑煮を食べ凧あげでもやるのか?と考えた。ページを開けてみると、昔の人が集まって座敷にテーブルと並べて、お酒やご馳走を並べて歓談をしている図が出てきた。これは正月のお祝いをしているのだなと早合点した。昭和36年の夏の休み中である。当時は小学校の休みは、薄い「夏休みの友」という冊紙を一学期の終業式に渡されて、一日1ページの自己学習をするだけで、あとは自由研究といって、昆虫採集でも朝顔の成長の記録でも、工作でも、絵を描いても何でも好かった。たぶん学校では子供が規則正しく40日間の休暇中に自堕落にならないように配慮していたのかもしれない。昆虫採集が好きだった私は、トンボやセミを追いかけまわして、標本を作った。私の田舎の小学校は、1年生から6年生まで各学年2クラスで一クラスが45人くらいは居た。ですからザーッと生徒数は500人以上は在校していました。現在の時点での生徒数は、一クラス20人前後、約120人~150人くらいで、約3分の1くらいに変貌している。子供の数が極めて減少した。親は子供をあまり産まなくなったという事なのでしょう。子供を産まなくなったのは、それなりの理由はいくつか挙げることが出来る。よく聞くことは、子育ては手間がかかりが大変だ、子供への塾や生活への投資が大変だ、両親とも共稼ぎで子供の面倒を見る時間がない、家族構成の核家族家への変貌で、大家族ならば、子育ての大先輩として知恵を持っている、おじいさんやおばあさんが子供の面倒を見てくれたのが、それが無くなり子育ての知恵も忍耐も無くなった。ですから、家族構造の変貌が、子供の数を減らしている大きな原因の一つだと思います。この問題は将来の日本人の文化の創造についての問題にも大きい影響を与えずには置かないものです。

さて、話の趣旨が飛んで仕舞いましたが、私が5年生の時に、親父の蔵書のなかに「オランダ正月」をみて夏休みに読んでみようと思い、勝手に本棚から本を抜き出した。同じようなことは以前に書いた「日本国現法善悪霊異記」の時も同じであったが、霊異記は手に取ったが題名が怖くて読んでみようとは思わなかった。子供にはすこし難しく小5では無理な著作である。その点オランダ正月は言葉つかいも子供に語り掛けるような雰囲気を持っているので、読んでみょうと思った。後年、この「オランダ正月」を詳細に読むと森銑三さんという書誌学者がお書きになられていて、その著作たるや膨大な数の碩学であることを知った。著書は江戸期に活躍した蘭学者、本草学者、ほか、永田徳本から伊藤玄朴まで52人が網羅された、一種の特徴ある学者のアンソロジーになっている。このなかの人物については子供向けの伝記を読んで、大方は既知の人物も何人かいた。伊能忠敬、青木昆陽、関孝和、杉田玄白、などであった。しかしほとんどの人物は未知の人であり、森先生はその人物をできるだけわかりやすく伝えようと努めている風が伺われた。植物を中心とした本草学はあまり関心はなかったが、和算や天文学の人物には大いに興味がわいたものであった。子供の記憶と云う物はすごいと思う、夏休みの終わりころには、ここに出てくる52名の人物の名前とその業績を覚えてしまった。 

私の人生で、それ以後の江戸の科学者というと、この人物群が記憶の基礎になっている。やはり子供のころは、何にしても詰め込み教育で好いのかも知れない。漢字でも7歳以降の小学一年生~六年生まで、子供は際限なく覚えてかつ読むことが出来る。この頃に記憶したものは、一生を通じて忘れる事は無いのであるから素晴らしい。本草学は草花の名前を知り、その薬学的な効用を理解するのに役立った。また、特に興味を抱いたのは暦学と和算であった。関孝和から浅田剛立、高橋義時、間重富、伊能忠敬、高橋景保と続く和算暦学の系譜である。オランダ正月には、今でいう数学と天文学、地球物理、人文地理学などの要素が多く収録されている。この知識は小学五年の小生には大いに役立った。夏も終わり9月からは田舎の小学校でも二学期が始まる。終業式の時に通知表と一緒に渡された「夏休みの友」と夏の間に捕まえたセミや甲虫の昆虫をお菓子の箱に入れて作った標本を持って登校したものである。40日間合わなかった友達も多い。真っ黒に日焼けしたガキ大将も居たし面白かった。水彩画も課題の一つであったが、私は夏休み中の絵日記で代用した。絵日記は今では私の宝物である。

こうして森銑三という書誌学の大学者を子供の頃に知った。その後、時を経て森銑三という方の大まかな伝記的な事績を知った。明治維新以降には政府による学制が発布され、学校制度が整備されつつあった。それは日本が西欧の制度をまねたものであろう。だが、日本の子弟教育は西欧などよりはるかに古く、江戸期の置いては、その制度は明治政府は最初に小学校令を出し、子供はみなある期間教育を受けるように指導しょうとしたが、当時の子供は富裕な家以外は皆な労働力でもあった為に、特に農村の田舎では反対運動が起きた。その上教育は有料であったこともあろう。そのうち初等教育は義務化されて月謝は無料化になったが、もちろん教科書やノート鉛筆は自分で賄わねばならなかった。これは記事なので正確さは期しかねるが、概略を書くと、明治政府の計画時系列は、まず尋常小学校を創り、高等小学校、尋常中学校、高等中学校、そして帝国大学を創る計画であったらしい。この教育制度は単線ではなく複線である。他には専門学校、高等専門学校が非常に充実していた。教育では、各県には師範学校が置かれ、東京には高等師範が置かれた。東京高等師範は授業料が免除されたために家が貧しく、学費を出せない家庭の優秀な子弟がここを目指したという。その様であるから高等師範の学生のレベルは極めて高かったらしい。高等師範はその後、広島(広島高等師範)にも置かれたという。この様な日本の学制制度は以後、改革・改変されて終戦まで続き、GHQによる学制制度破壊から現在に至っている。是は国際法違反であるのだが新聞テレビは決してそのような事を書かない。

森銑三先生の人生は飽くことなき探求心の生涯であったと謂える。多くの事績を書き溜めた論文資料を米軍の空襲で失い努力の結晶は焼失した。気を落としてもう仕事を辞めるかと思いきや、一時は気落ちしたが再びその努力を続けられた。「生きている以上は人生に定めたものに努力を続けるべきだ」、という心には啓発されることが誠に多い。


風邪を引いてしまいました。

2020年01月17日 19時45分16秒 | 日記

一月のお祝いをして今年は皆元気で過ごせるようにと氏神様に、また父母・祖父母・曽祖父母にも祈りましたが、残念なことにインフルエンザをもらって仕舞いました。点滴の治療と飲み薬をもらい暫く寝ていました。十日ほどして平熱になりようやく動けるようになりました。ここ8年ほどは寝込む疾患に罹りませんでしたので、健康の有難味を深く感じているところです。井頭山人(魯鈍斎)。