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El Combo de la Paz

エル・サルバドル・メキシコ人、ブラジル人、日本人で広島を中心にライブ活動を展開するサルサ&ラテンバンド

☆メタレス隊☆

2009年06月10日 | メンバー紹介

ラテン音楽命!酸欠になるまで吹き続けます!
Miho Kariya (Flute)


スペイン語ならMIWAにお任せ。
Miwa Kubota (Clarinet)


ちょっぴりシャイなペット担当ナリ。
Terumasa Onari (Trumpet)


ボンボン吹きます。にしボンボン。
Yoshikazu Nishiyama (Trombone)



☆Percussion & Voice 隊☆

2009年06月10日 | メンバー紹介

見かけによらずお茶目で可愛いビール好き。
Marcelo (Timbales)


最年少。鮮度一番!元気100%な熱い男。
Takashi Kimura (Conga & Bongo)


料理の腕はプロ並み。ボサノバ&サンバならおまかせ。
Meiry (Cantante)


ラテンのりなパワフルボーカリスト。
Miharu Kawakami (Cantante)

☆Alvar Castillo (炎のリーダー)☆

2009年06月09日 | メンバー紹介


アルバル・カスティージョ(リーダ:作曲:ピアノ)

中米エルサルバドル共和国出身。
幼少のころより、エルサルバドルのポピュラー、民族音楽、70年代のポピュラー音楽に慣れ親しむ。音楽高校を卒業後、自国の内戦もあり、1980年メキシコへ移住。
メキシコ国立自治大学音楽学部作曲科で学びその後中退、1990年エルサルバドルに帰国し母校で教鞭をとる。
1998年、メキシコへ二度目の移住、念願の大学復学、2002年11月卒業。ポピュラー、ジャズからクラシックまでさまざまなジャンルの作曲を手がける。
17歳からプロピアニスト活動を開始。主にエルサルバドル、メキシコで歌手のバックバンド、ラテンジャズ、ラテンミュージック、サルサバンド等で活動。また演劇作品の音楽なども多数担当した経験をもつ。
2006年4月より広島在住。ラテンバンド「El Combo de la Paz」のリーダーをつとめる。
ソロピアノ演奏や複数のラテン、JAZZ、ポップス等バンドで演奏活動を展開中。



JOE(Bajo)

2008年01月04日 | メンバー紹介
 バンドでは、ベースを担当。サルサのベースを始めたのは、2005年夏。広島の日系ペルー人らで結成するSON LATINOに参加してから。ベースがいないということで参加することになった。その後、バンドは解散し、メキシコから来たアルバルの呼びかけで今のバンドに参加することになった。そのときは、ピアノのアルバル、ボーカルのチョージ、ボンゴのネルソン、そしてベースの私の4人であった。
 音楽活動の経歴を中学生の頃から、ざっと振り返ってみる。
 中学生のとき叔父さんからギターを譲り受け、禁じられた遊びを弾いたのが音楽活動の始まり。また、ディスクジョッキー、深夜放送が普及し、全米トップチャートをFMでチェックする日々を過ごしていた。
 高校に入り、ロックバンドに参加。同級生で超凄腕のギター野郎がいて、ベースを担当することになった。レパートリーは、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルで、あちこちの高校の人気の的であった。当時、広島にもたくさん海外ロックバンドが来ていて、レッド・ツェッペリンも伝説のライブを行った。うちのギターは、そのときのライブをこっそり録音し、ジミーペイジのアドリブをすべてコピーしていた。私は、その影に隠れて、地味にベースを刻んでいた。ただ、ロックバンドというと不良の代名詞であったが、結構みんな勉強はできていた。
 大学(横浜)に入り、今度はプロブレシック・ロックから、ソウル・ミュージック、ジャズ・フュージョンの世界に入り、バンドでは、ギターを担当。YESや、リー・リトナー、スティーリー・ダンの曲などを演奏していた。このころは、東京で開催された国内外のライブやコンサートに精力的に通った。ラテンといえば、ブラジル音楽が大好きで、サルサは知らなかった。そのため、ファニア・オールスターズが大学在学中に東京公演があったのに、知らずに行っていないのが悔やまれる。
 就職(広島)してからは、広島工業大学のOBで結成されたジャズ・マシーン(サックスがリーダー)とプレアデス(トロンボーンがリーダー)でジャズ・フュージョンを、また、ウォーター・カラーズ(ボーカルがリーダー)でブラック・コンテンポラリーをやっていた。このころ、サルサに出会い、デ・ラ・ルスの「私がピアノ」もレパートリーにしていた。
 というのも、広島に1984年に「オルケスタ84」というサルサバンドが藤田氏のもと、広島の実力派のミュージシャンを集めて結成された。ジャズ・マシーンやプレアデスのサックス2人が、このバンドに参加。以来、サルサというものをバンドのライブを通じて知ることになる。
 また、アコーディオン奏者と出会い、ギター、バイオリン、ビオラ、フルートの組み合わせで、シャンソンやタンゴをあちこちの喫茶店で演奏した。
 1991年にアメリカに半年留学する機会に恵まれ、ジャズ・フュージョンやソウルのライブに通っていたが、アフリカの同級生とも仲良くなり、アフリカンドラムを習ったりした。この時期が、私の人生で大きな転換期となった。というのは、サルサやメレンゲでペアでダンスすることを体験したからであった。留学生の中でも、ベネズエラやスペインの学生は美男美女で陽気。パーティがあると、いつもダンスを踊る。当時の世界的大ヒットは、ファン・ルイス・ゲーラの薔薇のバチャータ。日本では全くなじみのない音楽で、皆楽しく男女がペアで踊っている!ビックリ。素敵だと思った。ぶきっちょな日本人に皆やさしく教えてくれて、なんとか踊れるようになった。
 その後、日本に帰り、広島でオルケスタ・デ・ラ・ルスのライブに行った。楽しく踊っていたら、会場で日系ペルー人と仲良くなり、一気に日系ペルー人コミュニティの一員となった。その後、日系ペルー人の寮に通い、パーティや海水浴などくっ付いてスペイン語を覚え、サルサを教えてもらった。
 先のオルケスタ84を招いての、広島初のサルサ・ラテンダンスパーティを日系ペルー人らと開催した。県外からもペルー人だけでなく、コロンビア人やベネズエラ人など多数の参加があり、記念すべきイベントとなった。
 以降、サルサダンスを本格的に習い、1996年から本格的に広島でサルサ音楽やダンスを広める活動を行ってきた。サルサダンスのグループを立ち上げ、ダンスパーティを定期的に開催。NYのサルサイベントのステージでパフォーマンス出場も果たした。ペルー、キューバ、ドミニカ、ニューヨーク、フロリダ、メキシコ、プエルトリコ、ブラジルなど、サルサやラテンを求めてライブやダンスクラブを訪問。
 CDやDVD、ビデオは2000ぐらいあると思う。
 1996年以降の活動は、ファシナシオン・ラティーナのHPを見てください。これ以上長くなってはいけないので、このあたりで一旦筆を置きます。