最近発売されたラーメンズのCD、
『新日本語学校』を妹が借りてきたので、
とりあえずトラック1、「アフリカ編」だけ
聞かせてもらった。
知らない人のためにここで講釈ができるほど
知っているわけではないのだが、
ラーメンズとは「舞台でコント作品を発表する
男性ふたり組」(公式サイト)である。
僕自身は何年か前に一度だけコントを見て、
笑いすぎて死に掛けた苦い(?)思い出がある。
そのラーメンズがCDを出したというのは
知っていたが、今回少し聞いてみて、改めて
その凄さを実感した。何がどう凄いのか、
以下、書いてみたい。
「日本語学校」という一連のコントは、
二人が外国人の先生と生徒を演じ、
日本語の意味不明な授業を展開するという
形態のコントである。
今回話題にする「アフリカ編」では、
まず二人が謎の言語でしばらくやりとりをする。
具体的に何を喋っているかは不明だが、
とりあえず出席を取っていることは分かる。
この時点では特に笑いは生じないのだが、
まずこの時点で、二人の演技力は際立っている。
これはCDであって、映像はついていない。
しかも何を喋っているのかも分からない。
にもかかわらず、それがどういう状況なのか、
聞いている側には分かるのだ。
(ちなみに、このCDは「聴く」ために
特別編集されているが、彼らのコントは
実際には舞台、ないし演劇というほうが
適切な性格のものである。)
そうしてしばらくすると、
「ニッポンデ ヤクダツ
トッサノ ヒトコト」
という台詞が聞こえる。そこから先は、
まず先生がフレーズを言い、それを生徒が
復唱するという形で最後まで進んでいく。
そのやりとりが恐ろしく面白いのだが、
重要なことは、彼らが喋っている日本語文の
内容が面白いのではない、ということだ。
日本人が聞いたら意味不明な文章を外国人が
喋っているから面白い、というのではない。
そもそも、出てくる日本語のほとんどは、
ただ単語だけで、文ですらないのだ。
「スシ」「スシ」
「テンプラ」「テンプラ」
「フジヤマ」「フジヤマ」
のような単語レベルでのやり取りがほとんどで、
しかもその単語だけ取り出して並べてみても、
決して面白いわけではないのだ。
「東京」「渋谷」「新橋!」
と並べてみても、書いているこちらが
悲しくなるほどに何の面白さも伝わらない。
ところが実際、これが本当に面白いのだ。
妹の言葉を借りれば、これは「言葉遊び」
なのであって、笑いを生んでいるのは
注意深く選ばれた言葉の列が持つ響きと、
それを最大限引き出してくる彼らの喋りに
他ならないのである。
思うに、多くの「お笑い芸人」が短い間に
消えていくのは、かなりの程度、その笑いが
喋りの内容に依存しているからでは
ないだろうか。「それってあるよね(笑)」
という類の笑いの場合、その内容をすでに
知っていたら、ほとんど笑えない。
内容に依存したネタでは、二度聞いた時には
笑えないのだ。だから、そういうネタで
ずっとやっていくためには、常に新しい
ネタを作り出していかないといけない。
しかし実際問題として、それはとてつもなく
難しい。なぜなら、同じものを繰り返し
使えないということは、習熟する余地が
ないということだからである。
考えてみれば、たとえば落語なんかは、
あれは基本的に同じ内容を何度も聞かせている。
落語を聴いて僕らが面白いと思うのは、
話の内容ではなく、その喋りなのである。
だからこそ、落語は「芸」たりえるわけだ。
その観点から見ると、ラーメンズの場合、
これは「芸」の域に達していると思う。
実際、彼らのコントは何回聞いてみても
(もちろん1回目が一番面白いのだが)、
やはり笑えるのだ。
コントの内容が変わったとしても、
そこには変わらない「芸」が存在する。
同じことはだいたい何についても言えて、
僕は基本的に、そういう「変わらないもの」
にこそ価値があると思う。
しかしとりあえず―僕のような非常に
内向的なファンが言うのも何なのだが―、
ラーメンズを知らないという方は、
ぜひ一度お試しあれ。
笑いすぎて死なない程度に。
『新日本語学校』を妹が借りてきたので、
とりあえずトラック1、「アフリカ編」だけ
聞かせてもらった。
知らない人のためにここで講釈ができるほど
知っているわけではないのだが、
ラーメンズとは「舞台でコント作品を発表する
男性ふたり組」(公式サイト)である。
僕自身は何年か前に一度だけコントを見て、
笑いすぎて死に掛けた苦い(?)思い出がある。
そのラーメンズがCDを出したというのは
知っていたが、今回少し聞いてみて、改めて
その凄さを実感した。何がどう凄いのか、
以下、書いてみたい。
「日本語学校」という一連のコントは、
二人が外国人の先生と生徒を演じ、
日本語の意味不明な授業を展開するという
形態のコントである。
今回話題にする「アフリカ編」では、
まず二人が謎の言語でしばらくやりとりをする。
具体的に何を喋っているかは不明だが、
とりあえず出席を取っていることは分かる。
この時点では特に笑いは生じないのだが、
まずこの時点で、二人の演技力は際立っている。
これはCDであって、映像はついていない。
しかも何を喋っているのかも分からない。
にもかかわらず、それがどういう状況なのか、
聞いている側には分かるのだ。
(ちなみに、このCDは「聴く」ために
特別編集されているが、彼らのコントは
実際には舞台、ないし演劇というほうが
適切な性格のものである。)
そうしてしばらくすると、
「ニッポンデ ヤクダツ
トッサノ ヒトコト」
という台詞が聞こえる。そこから先は、
まず先生がフレーズを言い、それを生徒が
復唱するという形で最後まで進んでいく。
そのやりとりが恐ろしく面白いのだが、
重要なことは、彼らが喋っている日本語文の
内容が面白いのではない、ということだ。
日本人が聞いたら意味不明な文章を外国人が
喋っているから面白い、というのではない。
そもそも、出てくる日本語のほとんどは、
ただ単語だけで、文ですらないのだ。
「スシ」「スシ」
「テンプラ」「テンプラ」
「フジヤマ」「フジヤマ」
のような単語レベルでのやり取りがほとんどで、
しかもその単語だけ取り出して並べてみても、
決して面白いわけではないのだ。
「東京」「渋谷」「新橋!」
と並べてみても、書いているこちらが
悲しくなるほどに何の面白さも伝わらない。
ところが実際、これが本当に面白いのだ。
妹の言葉を借りれば、これは「言葉遊び」
なのであって、笑いを生んでいるのは
注意深く選ばれた言葉の列が持つ響きと、
それを最大限引き出してくる彼らの喋りに
他ならないのである。
思うに、多くの「お笑い芸人」が短い間に
消えていくのは、かなりの程度、その笑いが
喋りの内容に依存しているからでは
ないだろうか。「それってあるよね(笑)」
という類の笑いの場合、その内容をすでに
知っていたら、ほとんど笑えない。
内容に依存したネタでは、二度聞いた時には
笑えないのだ。だから、そういうネタで
ずっとやっていくためには、常に新しい
ネタを作り出していかないといけない。
しかし実際問題として、それはとてつもなく
難しい。なぜなら、同じものを繰り返し
使えないということは、習熟する余地が
ないということだからである。
考えてみれば、たとえば落語なんかは、
あれは基本的に同じ内容を何度も聞かせている。
落語を聴いて僕らが面白いと思うのは、
話の内容ではなく、その喋りなのである。
だからこそ、落語は「芸」たりえるわけだ。
その観点から見ると、ラーメンズの場合、
これは「芸」の域に達していると思う。
実際、彼らのコントは何回聞いてみても
(もちろん1回目が一番面白いのだが)、
やはり笑えるのだ。
コントの内容が変わったとしても、
そこには変わらない「芸」が存在する。
同じことはだいたい何についても言えて、
僕は基本的に、そういう「変わらないもの」
にこそ価値があると思う。
しかしとりあえず―僕のような非常に
内向的なファンが言うのも何なのだが―、
ラーメンズを知らないという方は、
ぜひ一度お試しあれ。
笑いすぎて死なない程度に。