goo blog サービス終了のお知らせ 

おやさま探訪

天理教教祖中山みき様のお言葉やお諭しなどを紹介し、人生をより豊にすごしてみたいと思います。

正月祝いの理

2005-05-09 06:29:47 | Weblog
 年の始まり、月の始まり、日の始まりを正月というのは、これは正しい。月様は泥海中の処より、正しい人間、正しい世界を造られたのをいうなり。正しい事を正という。暗がりの世界を照らす月様は先に立ってこの世界を造られた理をもって、この世界をこの日とは言わず、この夜(世)というなり。
 三日の祝いは、これは人間元々、お産(さん)で産み広められて、日々身の内は、温み、水気、息の三つでもっている。又世界も同じ事。水と火と風とは台なり。身の内、温み、水気、息の三つが十分の守護あれば不足なし。この三つ変われば、身の内に不足出来る。よって、身の内の悩みを看るに、脈を看る。脈とは、この三つのやくをいうなり。
 この世界は皆三つの理、三つずつの理あり。天地人とか、上中下とか、又、月も三日月が始まりなり。三日芽でなくば見えかけぬとは、人間でも子が宿っても一ヶ月、二ヶ月のうちは、人から見てはわからん。三ヶ月目からちょっと見えかけるのも同じ事なり。三日の祝いの理は、これは、水、火、風の三つの理をもって祝うなり。
 一重の餅は、天地の理。天地は丸きりものなり。丸きは正しきなり。
 門松の女松、男松は、これは女神、男神の夫婦の二神よりできたる理を示せるものなり。
 ゆずり葉をつるは、代々親は子を産み、子は親となりて、子孫に世をゆずり行く理をもつなり。
 注連縄の七五三は、七は天神七代、五は地神五代、三はさんで産み広められたる理なり。世界でいう天神七代は、これを神々七人のように思えど大いに違う。これは、な、む、あ、み、だ、ぶ、つの「くにとこたちの命様」より「たいしょく天の命様」迄の神々をいう。この七柱の神は、道具となってした理をいう。地神五代というは、これも世界では神々の思えども、ぢしん五体というて、皆銘々の身の内の事、五体の人間のできた事を言うなり。
 数の子を用いるは、元々いざなぎ、いざなみの二神は、今のおぢばの甘露台を神々の身体の真ん中として、なむ/\と三日三夜に子数九億九万九千九百九十九人を宿仕込み、腹にや凭れた理をもって用いるなり。
 まめを用いるは、無事にてこの世を送らそうとの、神の思し召しの理をするなり。
 注連縄というは、しめとは、しめる事なり。なは、「くにとこたちの命様」月様の事なり。わは丸く取り巻く事をいうなり。これは月様は、この世界を輪の如くに取り巻きて、しめていられる理なり。よって注連縄は、左なわに縫う物なり。その形は、月さまの本体、頭一つ、尾一筋の大竜の形なり。
 七日七草は、元々人間は九億九万年泥海中に住まいたる時は、海草等を食べて通りた理をするものなり。十四日のとしこしという理は、十四日で月は満月とはいえぬ。十五日は満月なり。
 人間も男は十四才では一人前とはいえぬ。十五才よりは、男一人前なり。これで十四日をとしこしというなり。
 十五日の小豆の粥は、これは元々人間は、泥海中で住まいしたる理でするものなり。
天の理法より

 各全国の神社が一番活気ずくのはもちろん正月だ。神社によっては、経費の大部分がこの正月でお供えが上がる神社も少なくない。
 では、なぜ日本人が神社にいくのか。それに対して明確に答える人は皆無だ。
しかし、それには深く深く理由があるのだ。

 つまり、人間の元始まりの理を忘れぬように、元の神、実の神、月日二柱を忘れぬようにとこの行事をおこなうのだ。それほど、大切な行事であるのだ。
 しかし、昨今この行事でさえすたれつつある傾向にあるが、それは、この深き正月祝いの理の話しを知らぬが故だろう。



最新の画像もっと見る