落語 馬糞
熊公 おっ、あそこ行くのは八の野郎じゃねえか。なんでぃ、小首ひねってぴょこぴょこ歩いてやがら。おう、八、
どこへ行きやがるんでぃ。
八公 おっ、こりゃ熊の兄い、ごきげんやう。けふはお仕事お休みですかい
熊 けっ、なにがごきげんやうでい。それにけふはとかぬかしやがって、何でい、そのふにゃふにゃ言葉は
八 これは旧仮名とかいいやして、あっしがちとたしなんでいる俳諧の符牒みてぇなもんです。
熊 俳諧? そういえばおめえんところのかかあが、近ごろ変なものに凝って、ちっとも商売にみがはいらないっ
てこぼしていた、あれけ? 小難しい顔して梅の枝だの雲だの蝉だのを睨みつけて、指で数なんか数えている
あれけ?
八 そうそう、そのあれけでござんす。どうです、これから、その俳諧の師匠のところにあっしがこしらえた俳句
を見てもらいに行くところで、兄いもひとつ一緒に行ってみやせんか
熊 そうさな、メリケン野郎が関税がどうのこうのと言ってきやがって不景気になりそうで、このところ大工仕事
めっきり減って暇だし、行ってみるか。ところでおめえがかぶっている、そのしょうちゃん帽みてぇなもなは
なんだ?
八 これは宗匠帽っていいやして、これをかぶるとなんか俳句がうまくでける気がして、師匠のところで買ってき
やした。
熊 けっ、べらんめえ。おめぇみてえなぼて振りが、そんなもんかぶったって上手くいくはずねえじゃねえか、
生意気に二足歩行しやがって
八 兄い、二足歩行はひどいな。あっしも犬じゃねえんで人間並みに歩けやす。おっ、そうこうするうちに師匠
のお宅が見えてきやした。
熊 お宅?そんなもんどこにあんでい。ここは明神下のきったねえ裏長屋じゃねえか。
八 しっ、兄いきこえますよ。棲んでるとこはこんなでやすが、師匠はもと御武家様で、応仁の乱、ん?違った
戊辰戦争で戦に負けて越後から逃げて来たそうでやす。元は百五十石取りの御馬回り役とか、今は傘を貼っ
たり、あっしらみてぇな町人に俳諧を教えてくださっているんで
熊 ふーん、そうけい。苦労なさってるんだな。たく、薩長の野郎がこの将軍様のお膝元まで乗り込んできやが
って、今じゃ肩で風きって歩いていやがる。
八 先生ー、こんつわ。今日はだちの兄いを連れてきやした。兄いもぜひ先生に俳諧をご指南していただきてぇ
って申していやすんで。
熊 ばっ、ばか。そんなこといってねえって。へい、どうも先生。あっしは深川のでえくの熊五郎と申しやす。
お初にござんす。
師匠 おお、左様にござるか。熊五郎殿と申されるか。身どもは名を松雄忠右衛門宗房と申す越後の浪人でござる。
以後お見知りおきを。
八 先生、ところであっしは、ついこのめえ、なんでも俳諧でご高名な子規さんてぇー方の住んでいらした家を
見てめえりやした。江戸で俳諧をやっていて、見に行かねえと、なんかかっこがつかねえんしゃねえかと思
いやして。
師匠 おう、そうでござるか。あの子規先生のお宅、子規庵をご覧になったか。あの方は伊予松山藩を脱藩され、
国事に奔走、その後俳諧の道に転じられ大成された偉大な俳聖でござる。惜しいかな、よわい三十七歳で
身まかれた。
八 でね、先生。その子規庵ですが、どうもあの辺はいけやせんね。曖昧宿や出会茶屋がひしめいていて、あ
れじゃ子規庵も形無しですね。
師匠 左様、あの辺りは将軍家御廟のある上野のお山の下、実に嘆かわしい時勢になったものでござる。
八 ちげえねえ。で、あっしもちょうどかかあ連れてたもんですから、かかあと離れて他人のような顔をして、
地図なんか取り出して、えーと確か子規庵はここを曲がってなんて、わざと聞こえるようにぶつぶつ言って歩きや
した。まつたく、ご維新なんて、ろくなもんじゃありゃしません。
熊 ところで先生、いま江戸じゃ、てえそう俳諧が流行っていやすが、なんですかい、やっぱり俳諧にも流派というか徒
党のようなもんはござんすかい?
師匠 ふむ。ござる。今、最も勢力大なるものは「ほととぎ派」と申して、飛ぶ鳥落す勢いでござる。その派で一句でも認
められると、町内こぞって赤飯を焚くといわれておる。
熊 ふーん、そんなもんですかねー。ところで先生の流派はなんてえんで?
師匠 身どもの流派は直心影流と申す
熊 げっ、そりゃ剣術の流派じゃござんせんか
師匠 さにあらず、昔から剣俳一如と申す。
熊 ふーん、そんなもんでござんすか
八 ところで先生、あっしは一句ひねり倒してきやした。今日は先生にご披露し、ご講評を給わりてえもんだとまかりこ
しやした。
師匠 おおー、そうでござるか。それは殊勝なるお心構え、ぜひご披露を
八 えー、おほん。それではひとつ。ありんこや馬糞をよけて通りけり ってんで、どうだこんちくしょう。
師匠 うーん、なかなかの出来栄え。しかし、惜しいかな。切れが二つ入ってござる。やとけりを一句に入れるのはご法度
にござる。打首獄門でござる。それに季語も二つ入ってござる。
八 えっ、季語は確か夏のありんこ一つだと思いやすが
師匠 いや、八殿。句の中に馬糞というのがござろう。その馬糞というのも立派な季語でござる。
八 馬糞が季語でやすか?
師匠 左様、貴殿は雲丹というものをご承知であろう。その雲丹は春の季語でござる。そして、その雲丹には北の海で採れる
馬糞雲丹というのがござっての、したがって馬糞は雲丹の子季語でござる。
八 ふーん、馬糞が季語ね。さすが博識の先生。ひとつ勉強しやした。
師匠 切れが二つ、それに季重なり。その点を除けば動きもあり、夏の気怠いような暑気の中で蟻が懸命に働く景も見え、写
生句としては見事な出来栄えでござる。八殿は上達が早い。
八 ありがとうござんす。これからも励みやす。先生、これは今月のお月謝で、どうぞお納めを。
師匠 これはかたじけない。どうぞ熊殿もこれを機に俳諧をお始めなさい。
熊 へい、先生。それじゃ今日のところはご免なすって。
八 兄い、どうでい。先生はさすがだね、馬糞が季語だなんて、ちっちも知らなかった。これでますます俳諧の道を究めね
ばってもんだ。
熊 おう、そうよってなもんだ。ところで八…
八 なんでい
熊 おめえ、今、その春の季語を踏んづけしゃってるの、しってるかい?
おあとがよろしいようで
注、さすがに馬糞は季語ではありませんが、馬糞風という春の季語はあります。北海道などでは、冬の間に路傍におちていた馬糞が
春になり、乾いて粉々になって風に飛ばされるのを馬糞風と呼んでいます。
風の向きかわれば馬糞風となる 斎藤諒一
貧農の石屋根乾く馬糞風 藤田寒
ち