岩瀧山 往生院六萬寺のブログ

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情報提供のお願い(往生院の歴史に関して)

2023年06月12日 | 往生院六萬寺 縁起
情報提供のお願い(往生院の歴史に関して)

この度、往生院六萬寺では、本堂の安置物について詳しく再調査した結果、幾つかの文化的、歴史的な新しい発見と共に、これまでの寺史の見直しが必要となることが明らかとなりました。

そのため、東大阪市・文化財課と協同して、本堂の幾つかの安置物と共にお寺の歴史について、改めて精査していくことになりました。

その精査へと向けた関連となる年表を整理した上で、既に史実的に確実となってあるものとは別に、新たな歴史的な事実として裏付けとなる古文書や史跡等の情報の提供を求めていくことになりました。

特には、浄土真宗の開祖である親鸞の正室であった玉日姫(九条兼実の娘)と往生院、親鸞と往生院に関するものでございます。

もし、年表をご確認して頂いた上にて、関連したことでの知見がございましたら、往生院六萬寺の方へと情報を提供して頂けましたら有り難くに存じます。

宛先メールアドレス oujyouin アットマーク gmail.com となります。(アットマークは、@へと変換をお願い致します)
どうかご協力のほどを宜しくお願い申し上げます。















桜井寺・善信尼帰国入寺
役行者・岩瀧山開山
女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった
聖武天皇勅願・行基開基
六萬寺・本尊・薬師如来
宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった
念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)

安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。

この頃、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往生院に伝わる。また、宗派的には天台系の浄土教であったと推測される。

往生院は、鎌倉~南北朝までは、九条家の寺院として管理され、四天王寺の一院・奥の院として、四天王寺の別当、僧侶が住持を兼ねていたものと思われる。

玉日姫供養
九条家の祈願寺として九条家の子女であった玉日姫を供養

慈円、良快、慈源など九条家の者が四天王寺別当であった時代以降の往生院では、同じく九条家に関係する僧侶により管理されていたものと思われる。

仁和寺御室・道深法親王(九条道家の後見人)の参詣。九条家祈願寺であるため、高野山への中継地として参詣の度に訪れる。(藤原定家・明月記)

この頃における往生院での九条道家・関係者との深い交流が窺える。

親鸞・九条家の祈願寺である往生院を参詣・自作坐像安置・玉日姫を供養する

九条道家が開基となり臨済宗・往生院の成立(九条家文書)

円爾(聖一国師)が来寺
伽藍整備・東福寺の末寺となる(東福寺の開基は九条道家・東福寺初代住職は円爾)

親鸞の供養

楠木家の要所となる。山城として利用される。

この頃から、河内地方は楠木家等、武家勢力が支配する地域となり、各地にあった九条家など公家の荘園地・寺社領地は急速に失われていった中で、往生院も九条家の管理から離れた可能性が高い。

夢窓疎石の弟子・黙庵周諭の兼務寺となる

楠木正成・四天王寺にて聖徳太子の「未来記」見る。

楠木正行と弁内侍が結婚
(弁内侍は後醍醐天皇の女官で親鸞と同族となる日野俊基の娘)

湊川の合戦・楠木正成と足利尊氏が戦う。正成死後、楠木正行が楠木家の当主となる。

四条縄手の合戦・高師直と楠木正行・正時が戦う。正行死後、
黙庵周諭が楠木正行墓所建立(胴塚)。以後、往生院は楠木正行菩提寺となる。

楠木正儀に仕えた、赤松光範の家臣・宇野六郎の子・熊王丸こと和田正寛が法師として往生院に入寺

畠山家内紛時に城塞化

畠山基家戦死・寺院焼失

往生院・城塞として利用され、著しく衰退する

鷹司信房の開基により
浄土宗往生院の成立
欣誉浄泉が初代住職。本堂再興。後陽成天皇の庇護を受ける。

以後、九条家・鷹司家の祈願寺となる。

浄土宗知恩院の末寺として、浄土宗鎮西派となるが、元々平安期より浄土信仰の篤いお寺であったことから、浄土宗だけでなく浄土真宗も受容していたことが、在家墓所や位牌堂にある位牌からも推測できる。

また、何よりも親鸞の正妻であった玉日姫を祀る九条家の祈願寺であり、親鸞の自作坐像が納めてあったこと、玉日姫、親鸞それぞれの舎利(遺骨の分骨)が納められてあった可能性もあることから、浄土真宗と併宗していた可能性も極めて高い。

十世・松誉貞故の際に再整備される。池島村に往生院浄士寺という塔頭寺院があった。

明治・大正・昭和については、往生院六萬寺の寺史に詳しいため省く。


藤原北家、関白・藤原忠通の六男として九条兼実誕生、1155年、兼実の弟である慈円誕生

九条兼実、摂政・関白・太政大臣と出世。弟・慈円は、四天王寺別当、天台座主となる。慈円は後鳥羽上皇の護持僧。浄土信仰に篤い四天王寺における念仏三昧院では民衆だけでなく後白河法皇、天台宗の高僧などによっても百万遍念仏行が常時行われていた。しかし、承元の法難では四天王寺でも念仏停止となる。

九条兼実・法然の下で出家

九条良経(九条家二代目)・死去

九条兼実・死去
九条道家・九条家三代目当主となる。

九条家の玉日姫の供養においては、親鸞の妻であると共に、父である九条兼実の浄土信仰の篤さからも、本来は、念仏・浄土宗において供養するところ、念仏停止の法難中のため、法難の中でも浄土教・念仏で供養ができるところとして、往生院において菩提が弔われた可能性が高い。その際には、玉日姫の遺骨を分骨した可能性もある。(但し、往生院では明治における四條畷神社建立地選定の際に、それを免れるべくに多くの歴史的な古文書等を処分してしまったため、保管されてあった舎利容器の遺骨の由来について書かれたものもその際に失われた可能性があり、それらの舎利を慈雲尊者の舎利と伝わってあるものとして、昭和59年の新本堂建立の際に三重塔に埋葬されてしまった可能性がある。)

慈円・示寂

九条道家・安貞二年の政変で復権。(仁和寺御室・道深法親王がその立役者)
近衛家実から関白を奪還

四条天皇の即位・母は九条道家の娘。九条道家、全盛期を迎える。

九条道家の長男・四代目当主・九条教実死去。その後、九条道家の次男の良実が二条家、四男の実経が一条家と、それぞれの初代となり、九条家分裂。室町・戦国期以降、九条家の権勢は徐々に衰え、荘園地・寺社領地も失っていく。

九条道家・東福寺(九条家菩提寺)建立の発願

慈円・慈鎮和尚の諡を四条天皇より賜る。慈円13回忌。九条兼実の30年遠忌。九条教実の3回忌。法然の遠忌もあり、親鸞と九条家にとっては大切な節目の歳と言える。九条道家の娘・仁子が近衛兼経へと嫁ぐ。九条家と近衛家の和解。近衛兼経が四条天皇の摂政となる。近衛兼経の兄弟・近衛家実の四男・鷹司兼平が鷹司家の初代となる。

九条道家の五男・福王(法助)が仁和寺御室・道深法親王の弟子となる。道家・良快の下で出家する(良快は兼実の子・道家の叔父・天台座主・四天王寺別当)
道家の子・慈源や慈実も天台座主・四天王寺別当になっている。日本仏教界を実質、九条家が管理していた時代でもある。

九条道家・死去
東福寺の完成

親鸞往生後、所縁のところへと遺骨が分骨される。
遺骨分骨の際に、九条家か、あるいは、親鸞の弟子
で玉日姫のお付きであった田村光隆(有阿弥)が、往生院へ親鸞の遺骨を分骨した可能性がある。(慈雲尊者の舎利とされて、昭和59年の新本堂建立の際に三重塔に納められたものがそうであった可能性がある。また、幾つかの舎利容器の一つには分骨された玉日姫の遺骨も含まれてあった可能性がある)

南北朝~室町~戦国と武家中心の政権となり、それに伴い九条家を始めとした摂関家、公家の力は衰えていく。

鷹司家12代・鷹司忠冬・死去・直系が絶える

九条家15代・九条尚経の長女・経子を母とする二条晴良の子・信房が、織田信長の勧めによって正式に鷹司家を再興する。

鷹司信房は、1606年・関白となっている。

信房の兄は、九条兼孝・17代九条家当主。九条尚経は九条兼孝の曽祖父にあたる。

鷹司家は、以後、近衛家から九条家の流れとなる。そのため、九条家の祈願寺であった往生院の後見となって、以後、往生院を支援していくことになる。

江戸期、鷹司家により、玉日姫坐像並びに親鸞坐像が奉納されている。

法然・誕生
親鸞・誕生
法然・浄土宗立教開宗
親鸞・慈円(青蓮院門跡)の下で得度
親鸞・磯長の夢告

法然・慈円や兼実と交流、四天王寺で日想観を修している(一心寺は、法然の日想観の庵)

法然・選択本願念仏集を著す(九条兼実の要請)
親鸞・六角夢告

親鸞・法然の弟子となる

親鸞・玉日姫(九条兼実の娘)と結婚。範意(印信)・善鸞の誕生

興福寺奏状(貞慶・解脱上人の起草)

承元の法難(後鳥羽上皇)
法然・土佐へ流罪
親鸞・越後へ流罪

玉日姫・死去(25歳)
法名・善変、京都伏見・西岸寺(九条兼実の父・藤原忠通が建てたと伝えられる法性寺の小御堂が後の西岸寺)に葬られる

親鸞・越後にて三善為教の娘・恵信尼と結婚
恵信尼の先祖には拾遺往生伝を著した三善為康がいる。(安助上人が往生院を創建した由来が記されてある)

法然・京都へ帰る
法然・往生
(親鸞・越後から一時帰京して玉日姫と法然の墓参をする)

親鸞・越後から関東へ

承久の乱(後鳥羽上皇の失脚)

親鸞・顕浄土真実教行証文類を著す(浄土真宗・立教開宗)

法然・親鸞と親交が深くあった九条兼実(兼実は、法然・親鸞と熊谷直実[蓮生法師]と高野山参籠も共にしている)は、九条道家の祖父。寵愛を受けていた道家は、祖父より法然・親鸞の庇護を頼まれていた可能性が高く、九条道家が執権を担うと共に、念仏への弾圧も当然に緩みつつあったと思われる。※熊谷直実は平敦盛を討った武将

親鸞・関東から京都に帰る
玉日姫の27回忌を期として帰京したと思われる。当時の日野家15代当主・日野家光が病床に伏したことも関連があるかもしれない。以後、京都で過ごすことになった下京区の光圓寺は九条兼実の別荘・月輪本庄花園殿のあった地で、結婚時代に玉日姫と過ごしたところにて晩年を迎えて往生するのである。

親鸞・九条家の祈願寺である往生院を参詣・自作坐像安置・玉日姫を供養する

法然・華頂尊者の諡を四条天皇より賜る。法然25年遠忌。

日野家15代当主・日野家光死去

親鸞・玉日姫との次男・善鸞を義絶

親鸞・往生

唯善事件・大谷廟堂留守職就任問題・浄土真宗後継問題・1309年決着・覚如(親鸞と恵信尼の娘である覚信尼の子)が後継となる。この際、唯善と親鸞と玉日姫の子・範意の娘の子・源伊とも後継を争ったとされる。

三世・覚如・大谷廟堂を寺院化し本願寺とする

正中の変。後醍醐天皇の下にあった日野資朝・日野俊基が鎌倉幕府討幕を計画し失敗する。

建武の新政(後醍醐天皇)

足利尊氏、日野賢俊の仲介にて光厳上皇から倒幕の院宣を受け、鎌倉幕府を滅ぼす。

足利尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府を起こす。後醍醐天皇、吉野にて南朝を立てる。

日野家は室町幕府の立役者となったことで、以後、足利家の下で権勢を強めていく。

四世・善如・楠木正勝に浄土真宗を講じる

蓮如・東国布教

蓮如・本願寺八世となる

日野家の権勢、日野富子の代で最も大きくなる。

応仁の乱

蓮如・石山本願寺建立
蓮如・往生

明治になり、大谷光尊の子・三名が九条道孝の子・三名と結婚して、親鸞の家系は、再び九条家と縁戚関係となる。