日々の思い出

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UとTクラブ2月行事「水戸の歴史を訪ねる」

2024-08-03 14:55:22 | 日記
令和6年2月27日、UクラブとTクラブ合同で水戸の茨城県立歴史館、水戸偕楽園、水戸城址、大串貝塚ふれあい公園をめぐる行事を
おこないました。
当日は、快晴で20人乗りの中型観光バスで、狭山を8時に出発、圏央道~常磐高速~北関東自動車道経由で水戸に向かいました。


道中、不思議な建物があり皆さんの意見ではなにか宗教施設ではないかといっていますが?
10時半頃、茨城県立歴史館に到着しました。
茨城県立歴史館は、茨城の原始・古代から近現代に至る歴史の流れを概観できる歴史館です。偕楽園公園の一部である広い敷地のなかに、茨城県指定文化財である
旧水海道小学校本館など歴史建造物があります。





旧水海道小学校本館がこの建物です。



ここで参加の皆さんの記念撮影です。

歴史館の中で、皆さん持参のお弁当で昼食を取り隣接の偕楽園に向かいました。
水戸偕楽園は、金沢の兼六園・岡山の後楽園とともに日本三名園のひとつに数えられています。天保13年(1842年)7月、水戸藩第九代藩主徳川斎昭公により造られました。
「偕楽園」という名は、「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」という中国の古典『孟子』の一節から名付けられました。
現在、偕楽園には約100品種、3000本の梅が植えられています。





偕楽園名物「無類絞り」の梅です

孟宗竹林の通り道です。

庭園のなかの好文亭(後楽園のなかに藩主の居所としてでなく庶民とともに利用することを目的とした濡縁の間)を見学そます。飲食の類を三階まで運搬するための木製の
滑車を利用した昇降機とか物見引手と称する建具連動式障子など斉昭の進取の気質が見てとれます。
好文亭の内部です。

バスで水戸城址にむかいます。
水戸城は、国内最大規模を誇る土造りの城です。鎌倉初期に、馬場小次郎資幹が館を築いたのが始まりです。室町時代には江戸氏の支配が約170年続き、戦国時代
の天正18年(1590年)、小田原征伐の際に、秀吉側の佐竹氏が馬場城を攻め取り本拠とし、この時から名称が「水戸城」となりました。
関ヶ原の戦いで、家康方に参戦しなかったことから秋田への国替えとなり、徳川頼房公が水戸に封じられるとともに、水戸徳川家の居城となりました。
水戸城大手門





水戸城大堀切り

おなじ大堀切













水戸城からバスで大串貝塚ふれあい公園に向かいました。
「大串貝塚」は文献に記載されている貝塚としては最も古いものですが、『常陸国風土記』に、「身体きわめて大きく、丘の上にいながら手は海辺の貝をほじくった。
食べた貝殻が積もり丘となった」とタイダラボー伝説が書かれています。この巨人伝説を再現した「ダイダラボー」像が1992年に作られました。
台座5mを含め、総高20mで、奈良の大仏より大きい姿です。



此処を最後に往路と逆コースで狭山に帰りました。








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現地探訪 白井城址と伊香保温泉

2023-10-25 12:31:38 | 日記
コロナの影響で自宅で過ごす時間が長くありましたが、ようやく2023年10月24、、群馬県渋川市の白井宿と白井城址の散策とあわせ
伊香保温泉の温泉まんじゅうでもと友達7名とでかけました。
ワンボックスカーで、AM8:00狭山市出発関越鶴ヶ島より高速に入り、高坂でトイレタイム、そして渋川で高速を降り伊香保から
白井宿にむかいました。




















薬師井戸鐘楼
 江戸時代の寛永元年(1624)年頃、掘られた井戸で枯れたことがないと言われる井戸の鐘楼です。
 そばに門番の様に猫がいました。




薬師井戸から上之坂をすぎると、玄棟院という曹洞宗雙林寺の末寺で、天正3年(1575年)に建立されたお寺にでました。


寺の眼下には、吾妻川に架かる吾妻橋が見えます。


そして、玄棟院から道なりにいきますと、室町時代の15世紀中頃に関東管領山内上杉憲実の信任厚かった長尾景仲が築城した白井城に出ます。




ここから伊香保にむかいますが、途中道の駅「こもちか」で昼食を取り、伊香保温泉の坂の上の露天風呂に皆で入り階段商店街を散歩し、渋川から関越自動車道に入り
狭山市に戻りました。







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ロマン多き古墳の旅・埼玉

2022-11-21 10:53:50 | 日記
 10月25日、狭山の中央図書館前からいつもどうりワンボックスカーで歴史クラブ8名が埼玉の古墳をめぐる旅に出発しました。
9時に日高~坂戸~鶴ヶ島~行田と走ります。途中吉見のいちごの里でトイレ休憩です。
まず、最初に行田市小見にある小見古墳群にある小見真観寺古墳に向かいます。小見真観寺古墳は、真言宗智山派慈雲山真観寺の寺域にあるためこの名前があります。
小見真観寺古墳は、墳丘112mあり県内第4位の前方後円墳です。後円部と鞍部付近に緑泥片岩の一枚岩を組み合わせた2ケ所の横穴式石室があります。






古墳です。
















次に向かったのは、市内若小玉にある若小玉古墳群にある地蔵塚古墳です。
1辺28m・高さ4,5mの方墳で、奥壁と天井が緑泥片石、その他が角閃石安山石を使用した横穴式石室があり、北武蔵唯一の線刻画が左右の壁と奥壁の描かれています。
烏帽子を被った人物、馬、水鳥、家と思われるものが確認され、石室は壁画保護のため非公開となっています。










地蔵塚古墳と同じ若小玉古墳群の一角にある八幡山古墳にむかいました。八幡山古墳は、奈良の明日香にある石舞台古墳に対する関東の石舞台古墳と言われる巨大な石室が
露出してみられます。これは、昭和9年11月八幡山古墳の約1㎞南東の小針沼の干拓事業で墳丘盛り土が崩されたためでした。
この石室は、榛名山麓の角閃石安山、荒川上流の緑泥片岩、比企丘陵の砂質疑灰岩など広範囲に渡る複数の石材が使われており、強力な権力者が築いたとおもわれます。










昼食は、市内のいっちょう行田店でしました。みなさん満足で次のさいたま古墳公園にむかいました。
まず、丸墓山古墳に向かいます。
丸墓山古墳は、日本最大の円墳で直径105mあります。直径100mを超える日本最大規模の円墳で六万立方メートルという破格な土量を用いています。




皆さん元気?に登ります。


遠方に将軍山古墳が見えます。
将軍山古墳は、全長90mの前方後円墳で、朝鮮半島から輸入されたものと思われる国内で3例しか発見例のない馬冑(ばちゅう・馬の武装用の冑)が副葬されていました。


出口にむかう道中、愛宕山古墳があります。
愛宕山古墳は、全長53,7mの前方後円墳でさいたま古墳群で最も小さい前方後円墳です。


前玉神社に向かう途中で、武蔵国最大の前方後円墳の二子山古墳が見えます。
二子山古墳は、全長132,2mでさきたま古墳群の中で、またかっての武蔵国の中で最大規模のものです。


埼玉県の名のもとになった、前玉神社の着きました。






社務所でお参りの皆さんを迎える前玉猫がいらっしゃいます。


ここも、円墳の上に神社があります。


ここから、比企丘陵北東部(埼玉県熊谷市冑山)の丘陵上に作られた円墳で、直経90m・高さ11mの丸墓山古墳に次ぐ県内第2位のものです。










三千塚古墳群にある雷電山古墳に向かう前に根岸家の長屋門に行きます。






三千塚古墳群は、埼玉県東松山市大谷地区の丘陵上、標高90mの雷電山を中心に250基の古墳が分布していましたが、幾多のゴルフ場造成のため多くが消滅しました。
その中で、川越カントリーのなかにある雷電山古墳を見に行きます。


これを、最後に古墳見学を終わりにして帰路につきます。







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足利、新田氏の故地探訪

2022-07-31 10:43:13 | 日記
 7月29日、コロナの猛威の中、久しぶりにWクラブの仲間8名と太田市の新田荘そして、足利市の足利氏の遺跡をめぐるバス旅行に出かけました。
狭山市から、圏央鶴ヶ島~関越花園~そして17号バイパス、50号と、走り上武大橋から太田市世良田に到着しました。約2時間の行程です。
まず、新田荘歴史資料館の見学です。10人乗りワンボックスカーから、乗り降りも少しお疲れ様です。



新田荘歴史資料館です。


新田家伝来の白糸威腹巻


世良田諏訪下古墳群の埴輪や鷹匠埴輪




新田義貞進軍の図


「新田猫」江戸時代太田市下田島町に大きな屋敷を構えた、交代寄合格で禄高120石の旗本、新田岩松氏の歴代当主が書いた猫絵で、養蚕が
盛んの上州・武州・信州では「新田猫」は蚕の神様として信仰されていました。


資料館の見学を終わり、隣接する世良田東照宮にむかしました。
世良田東照宮は、長楽寺住職天海大僧正の発願により、日光東照宮の旧社殿が旧長楽寺境内に勧請された神社です。
寛永13年(1636年)家光の改築時、旧奥社拝殿、唐門等を移築しました。




唐門です。

鉄燈籠です。


世良田東照宮から、長楽寺に向かいます。
長楽寺は承久3年(1221)、新田義重の四男で徳川氏始祖の義季が、臨済宗の開祖栄西の高弟栄朝を招いて臨済宗寺院として開基
しました。栄朝は名僧の誉れ高く、全国から多くの学僧が集まりその中から多くの高僧名僧が輩出し、世良田は全国の僧侶のあこがれの地と
なりました。しかし、戦国時代に衰退し、江戸初期天海大僧正が住職となり天台宗に改宗し再興されました。
正式には天台宗世良田山真言院長楽寺といいます。


赤門


本堂


太鼓門


本堂前で可愛い子供たちのお遊び


長楽寺の渡月橋と蓮池です。しかし、残念ですが蓮池は緑青いろに~






長楽寺からすぐ隣が総持寺です。
総持寺は、二町四方(一辺200m)の規模を有した、鎌倉時代の惣領家クラスの新田館跡に建てられた寺で、別名を「館の防」といいます。
正式名を威徳山陀羅尼院総持寺といいます。


本堂


梵鐘


総持寺から車に乗り、17号、R357、大間々・尾島線から反町館に向かいました。
反町館は、新田荘を代表する館跡です。平成12年に新田荘遺跡として国史跡に指定されました。平面図は凸形で、東西方向は南辺で138m、北辺で75mあり、南北方向は115mあります。周囲には常時水をたたえる堀が巡らされています。
築造年月は明らかではありませんが、鎌倉時代から南北朝時代のころに築造されたと考えられています。
現在、館跡は瑠璃山妙光院照明寺の境内となっています。
ようよう反町館に到着です。






壮大な城郭風境内を見てみましょう。
















反町館から約10分ほどで新田義貞が、後醍醐天皇の綸旨を受け挙兵したところという生品神社に向かいました。












さて、ここから新田の里に別れを告げ、渡良瀬川をわたり足利の里に入ります。
まず、有名な足利学校に向かいました。


学校門が見えます。


孔子廟


復元された方丈,庫裡が見えます。






南庭園です。


庫裡


最後は、鑁阿寺です。












帰りは、東北道、外環、圏央道を通り狭山に戻りました。 疲れた・・・・・
























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令和3年12月度 見沼代用水現地探訪

2021-12-28 10:33:36 | 日記
 12月21日、久しぶりの見沼代用水の現地探訪です。
狭山駅西口から、トヨエースで8名でAM8時に出発です。気分上々皆和気あいあい一日楽しいく行こう!
川越街道から落合橋を通って、上伊草交差点を右に入り川島町を76号線で抜けて吉見町を27号線で通り、17号線に入り行田市で熊谷バイバスに入り
さきたま古墳群の脇を通り、20号線でようやく1番目の目的地利根大堰に着きました。約1時間半の行程です。
暴れん坊将軍吉宗の命令で、井沢弥惣兵衛が埼玉県を東西に横断する用水(見沼代用水)を1727年9月から約6ヶ月で作業員90万人、約2万両で完成
させ、利根川から用水を取入ましたが昭和43年に現在の大堰になりました。
それがこの利根大堰です。




利根川からの取水口です。




見沼代用水創設の取水口は、今見沼元圦公園となっていますが、この先に元圦(取水樋菅)を伏せ込み見沼樽井から実に40㎞以上のこの利根川から
自然流水方式で取り込みました。




元圦樋守弁財天がその時代を祈るように立っています。


この利根大堰を堪能してから、国道122号線(騎西菖蒲バイパス)を経由して見沼代用水として利用した星川と見沼代用水を分岐する為の施設
十六間堰、八間堰を見に行きます。
星川側の十六間堰は、当初横約29m、高さ約2.4m、長さ約11mの木造の堰でした。


この奥を星川が流れています。


見沼代用水側の八間堰は、当初横約14.5m、高さ約2.4m、長さ約7.2mの木造の堰で、十六間堰、八間堰共に浮き上がらないように上に土橋を
かけていました。


この奥を見沼代用水は流れています。


この施設の脇には星川弁財天と記念碑があります。見沼代用水にある弁財天は、あと加田屋新田の溜井弁財天の三つあります。


続いて、この見沼代用水の工事で最大の難工事だったのが、同用水路が元荒川と交差する場所で元荒川の川底を木製の樋菅を使用する工事でした。
それが、柴山伏越です。
まず、伏越の手前で水量調整する堰です。


柴山伏越の入口です、その手前を流れるのが元荒川です。


柴山伏越の出口です。


出口から流れる見沼代用水です。


元荒川沿いにある常福寺に、東京麹町にある浄土宗心法寺から分骨した井沢弥惣兵衛の墓があり、柴山伏越を見守っています。




柴山伏越を充分に探索しました。
皆さん腹ペコ~ 早速、県道5号線で約20分伊奈町の県民活動総合センターに到着、そこのイナキッチン・銀座ライオンで昼食です。








県道3号線から誤っ、て国道16号に入ってしまい切り返し、切り返しで瓦葺伏越に着きました。
当初、建設当時は綾瀬川の上を木製の樋による水路橋をかけて用水を通うしましたが、昭和43年送水形態を240年ぶりに樋菅(コンクリート造)で
綾瀬川を潜る方式に変わりました。名称も瓦葺掛樋から瓦葺伏越となりました。
柴山伏越から流れた見沼代用水、手前で瓦葺伏越に潜ります。


瓦葺伏越入口


出口側から綾瀬川越しに瓦葺伏越入口を見ます。


入口側から綾瀬川越しに瓦葺伏越出口を見る。


瓦葺伏越出口


ここから、見沼代用水は東縁水路と西縁水路に分かれます。


東縁水路は流れます。


東縁水路左岸はさいたま市膝子、右岸は加田屋一丁目付近です。
右岸にあるのは加田屋弁財天です


西縁水路は流れます。

西縁水路左岸は見沼三丁目、右岸はさいたま市土呂町二丁目付近です。


見沼代用水東縁最終地点は、足立区舎人六丁目です。




見沼代用水西縁最終地点は、川口市小谷場です。


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