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図録188・モネーー連作の情景

2024-01-24 22:33:49 | 美術館
図録188・モネーー連作の情景

 上野の森美術館で開かれた美術展の図録です。この美術展は大阪中之島美術館でも開催されます。なお、写真は全て公式サイトの写真から転載しました。

第1章 印象派以前のモネ
 パリで生まれたモネはル・アーヴルで成長し、風景画家ブーダンとの出会いを契機に戸外で風景を描き始めた。画家の登竜門であるサロンに1865年に初入選するが、その後は保守的なサロンで評価されず、1870年に普仏戦争が始まるのを機に、妻子とともにイギリスとオランダに滞在した。その時代の作品を紹介します。
サン=タドレスの海岸(1864年)最初期の作品ですが、既に印象派的です。ブーダンの影響でしょうか。
・ルーヴル河畔(1867年)初期の意欲作です。

・昼食(1868~69年)家族を描いた作品は、モネ渾身の力作でしたがサロンで落選し、サロンと訣別する契機となりました。

・ザーン川の岸辺の家々(1871年)印象派前夜と言う感じです。

第2章 印象派の画家、モネ
 普仏戦争終結後、モネはオランダからから帰国し、1871年末からアルジャントゥイユで暮らし始め、マネやルノワールも訪れて一緒に絵を描きます。そして、1874年に印象派展を開催します。しかし、その後不景気になり、最大の顧客オシュデが破産し、モネは生活費削減のため、セーヌ川沿いのヴィトイユに移住し、オシュデ家(夫妻と子供6人)とモネ家(夫妻と子供2人)の共同生活が始まります。モネの妻カミーユが死に、オシュデも亡くなった後、モネはオシュデの妻と再婚し大家族となりました。
・モネのアトリエ船(1874年)アトリエ船は水辺の画家と呼ばれたドービニーを真似ています。ドービニーは主に移動手段として用いましたが、モネはアトリエとして使用し、船の中から見た景色を描きました。背景に見えているのはアルジャントゥイユです。
・アトリエ船(1876年)私はこちらが好きです。
・ヴィトイユの春(1880年)モネの妻カミーユは前年に亡くなっているので、女性はオシュデ夫人、子供はオシュデ家またはモネ家の子供と思われます。厳冬期を越えた明るさが表れた傑作だと思います。

・ヴィトイユの教会(1880年)
ヴェルノン教会の眺め(1883年)

第3章 テーマへの集中
 1880年代に入ると、モネは画題を求めてヨーロッパ各地を旅行します。市街地よりは自然の景観を好み、同じ場所でも季節や時刻による違いを表現しました。
・プールヴィルの断崖(1882年)共に1882年の作品ですが、風景の切り取り方が異なります。

波立つプールヴィルの海(1897年)15年後の描き方は大きく異なり、後期のモネらしさが出ています。
ヴァランジュヴィルの漁師小屋(1882年)同じ年に全く印象の異なるヴァランジュヴィルも描いています。
・ラ・マンヌポルト(エトルタ)(1883年)ラ・マンヌポルトはドラクロワ、ブーダン、クールベも描いた景勝地エトルタの奥に有ります。
・エトルタのラ・マンヌポルト(1886年)左が1883年、右が1886年です。光や波が異なります。
・ヴェンティミーリアの眺め(1884年)ヴェンティミーリアはフランス国境に近いイタリア地中海岸の避寒地ボルディゲラに有る街です。モネが住んだヴィトイユやジュベルニーと異なる風光の表現に苦労したそうです。
モナコ湾、またはモナコの港(夜明け)(製作年不詳)モネの絵は離れて見るか、斜めから見るとより美しく見えます。この絵は右側から見ると綺麗です。

第4章 連作の画家、モネ
 1883年、モネはセーヌ川流域のジヴェルニーに定住し、自宅付近の積みわらが光を受けて刻々と変化する様子を何枚も描くようになりました。以後は別のテーマでも次々と連作に着手し、1899年からはロンドンを訪れ、〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などに取り組みました。「連作」と言う手法は日本の浮世絵版画の影響も指摘されています。 
・ジュベルニーの積みわら(1884年)この絵はポーラでも見ています。積みわらは1890年前後にも描いていますが、最初のシリーズでは積みわらだけを描いてはいません。
・積みわら、雪の効果(1891年)後期の積みわらです。
・ジュベルニーの積みわら、夕日(1889年)これも後期ですが、どちらかと言えばこちらが好きです。なお、この写真は「美術ファン@世界の名画」のサイトから転載しました。
・クルーズ渓谷、曇り(1889年)クルーズ渓谷はパリの南300kmの山岳地帯に有ります。
・クルーズ渓谷、日没(1889年)左が曇り、右が日没です。
・テムズ川のチャリングクロス橋(1903年)モネはイギリス留学中の次男ミシェルのもとへ妻のアリスとともに1カ月滞在しました。
・チャリングクロス橋、テムズ川(1903年)イギリス滞在中に多くの絵を描いています。左が上、右が下の絵です。
・ウオルタールー橋、曇り(1900年)
・ウオルタールー橋、ロンドン、夕暮れ(1904年)
・ウオルタールー橋、ロンドン、日没(1904年)

国会議事堂、薔薇色のシンフォニー(1900年)チャリングクロス橋より後のロンドン滞在にに描きました。この絵はポーラでも見ています。

5 「睡蓮」とジュベルニーの庭
 モネはジュベルニーで後半生を過ごしました。絵が高値で売れるようになり、池の有る庭を作り、睡蓮の絵を描きました。その一方、視力が低下し白内障の手術を受け、精緻な描写は困難になり、逆に色彩の氾濫のような絵を描いて抽象画に近づいて行きます。
・ジュベルニーの風景、雪の効果(1886年)

黄昏時の流氷(1893年)ジュベルニーはセーヌ河畔に有りました。
・睡蓮(1898年頃)モネは1890年に土地を買い、3年後に買い足して庭を整備し、池には睡蓮を栽培しました。それは睡蓮を画題として絵を描くためでした。モネの睡蓮は300作を超えるそうです。これは本格的に睡蓮を描き始めた初期の作品です。
・睡蓮の池(1907年)
・睡蓮の池の片隅(1918年)
・睡蓮の池(1918年頃)

薔薇の中の家(1925年)視力低下したモネのイメージの世界です。


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