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太閤秀吉九州攻め嚴島本陣跡

2012-02-25 19:49:15 | 史記

雲の上人とは…朝廷中務省正四位上卿神主祝師太夫の朝廷での呼称として皇太子殿下を上人と言う。
   雲とは朝廷中務省上卿祝師が二重塔で即身成仏・その人の名が雲慶宗譽である。
雲とは雲慶宗譽である。そして就職は上卿祝師職である。この時代は神仏混合で、上卿祝師職と僧侶雲慶宗譽の命を持っていた。

平清盛は嚴島神社には渡海していない。捏造である。

2012-02-18 07:34:03 | 史記
大鳥居造営!と厳島神社!
  守護衆士の居住”!
 大鳥居造営の人夫は、管弦祭の参拝衆海人衆に寄って施工され上卿神主祝師太夫の代理小三金五郎監督 技術相談役 圓室智鏡禅尼で有った事、人夫頭 小方党 與州霧島十五郎で有った。
 此の大鳥居造営工事完成後に【姓 森脇】に復す。小方党 森脇十五郎なり。
 此の與州霧島十五郎は、徳壽寺に宿泊して大鳥居造営に当る上卿神主祝師太夫の代理人小三金五郎監督。特に徳壽寺 圓室智鏡禅尼の幸徳を忘れては為らないと一条語部は伝えている。
 此の小三金五郎は、広島藩士の招致を断り、唐津に帰郷する事を決める其の年に、奥藝【小三金五郎】を作詞して舊盂蘭盆会で唄い、舊盂蘭盆会の者等 皆な涙する。別れを惜しむ。そして1726年 丙午 享保11年に唐津に帰郷した。これが唐津に残る奥藝「小三金五郎」である。そして金五郎の祖 島津藩 豪商 伊田屋助四郎なり。「伊」は 伊都伎島の「伊」の因々を結んで伊田屋助四郎と称したのである。
 時の海人衆が管弦祭後も帰らず。御白河法皇 厳島行業の軍船管弦舩を覚える海人等は、当時の管弦舩が京都へ御帰りと想い、それまでは付いて行くと言って帰らず。佐伯鞍職横關又七郎等が説得して散会する。しかし厳島神社の守護が危うくなり、東と西に分け、海人衆から択ばれた守護士を設置して海人衆らが散会したのである。
 ここに初めて守護衆士の定住が始まったのである。西暦1726年 丙午 享保11年秋 正月と語られる。
宮島歌舞伎
  宮島踊り小三金五郎・千七百弐拾五年 作
 厳島神社の大鳥居の造営にあたり茶屋次郎五郎を安藝国では紅屋と称す。その子孫が九州の唐津より大鳥居造営に参加して享保十年夏に唐津へ帰郷するにあたり、堺を想い神道国学因書を用いて作詞した盆会踊りであります。
 盆会踊りは、舊盂蘭盆会が厳島神社大願寺寺務所である。場所を厳島神社へ移し、高舞台を中心に盆会踊りを舞って居たのである。其の衆が、舊盂蘭盆会で、地頭衆の盆会であった。
 歌詩と音曲と著作内容は別紙に記載されて要る。
 小三金五郎の詩の内容を考察すると、歌舞伎座は現在の大元神社の裏側にある。その歌舞伎座の古地図が、写真原板より発見する。それは阿賀村地頭に佐伯鞍職横關氏が保存方を依頼して居た原版を発見し、地図を修復して保存して要る。
             平成三年三月十五日 甲申 九紫大安
                   神道国学者 一 条 翁  編纂