てけてけのアサイチ日記

こども達や、孫たちの世代のために!・日本を守りたいと希いつつ、
日本をこよなく愛する戦中生まれが、綴ります。

日の丸のお話(1/3)   << 作成日時 : 2013/03/04 23:57 >>

2015年01月04日 | 国旗・国歌関連

日の丸のお話(1/3)   <>

 一 白地に赤く 日の丸染めて

  ああ美しい 日本の旗は

二 青空高く 日の丸揚げて

  ああ美しい 日本の旗は

 ご存知、日の丸の歌です。

 澄み切った青空に、へんぽんと翻(ひるがえ)る白地に赤丸の日本の旗は、これほどシンプルで、かつ美しい旗は他にないと思います。

 この旗を、戦前の日本の軍国主義の象徴などという人がいますが、勉強不足も甚だしいことです。

 日の丸と我が国の歴史は、昭和に入ってからとか、明治以降とかのほんの150?160年の底の浅いものではありません。

 公式な記録として日の丸が日本の記録に現れるのは、平安時代初期の延暦16(797)年に編纂された「続日本紀」です。

 そこには大宝元(701)年の正月元旦の朝賀の儀に「日像の旗」を掲げたという記述があります。

 ちなみに奈良時代のはじまりが、和銅3(710)年ですから、大宝年間というのはその前、飛鳥時代の出来事、ということになります。

 ざっと1300年以上の歴史があるのです。

 もっといえば、公式な式典である朝賀の儀に用いられたということは、実際にはそれ以前からこの旗が民間部門で一定の権威をもって使用されていたということですから、そう考えると日の丸の歴史はいったいどこまでさかのぼるのだろうかと、なんだかワクワクしてきます。

 現存する最古の日章旗としては、後冷泉天皇より源義光(新羅三郎)へ下賜された日の丸の旗があります。

 これは甲斐源氏宗家の家宝としていまに伝えられているものです。

 同じく中世の日章旗とされるものとしては、奈良県五條市(旧西吉野村)の堀家に伝わる後醍醐天皇下賜の日の丸の旗もあります。

 ちなみに甲斐源氏というのは、武田信玄の家系です。

 この旗は、新羅三郎義光の父頼義が、後冷泉天皇(1045-1068年、第70代)から下賜された「日の丸御旗」と呼ばれるもので、甲斐武田家が源氏の直系、武家の棟梁の家柄を示す旗でもあります。

 甲斐武田家の家宝の日章旗

 http://blog-imgs-53-origin.fc2.com/n/e/z/nezu621/20120910222552366.jpeg

 ちなみに、この新羅三郎の兄貴が源義家(八幡太郎義家)で、こちらが源氏の嫡流となります。

 義家の孫が源義朝で、平治の乱で平清盛らに破れた義朝は、尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町)で入浴中に襲撃され、死亡します。

 そして生き残った義朝の子供である源頼朝、源義経らが挙兵し、後年、平家を滅ぼす。

 この平家との戦いの中で、寿永4(1185)年2月にあったのが、讃岐国屋島(現高松市)で行われた屋島の戦いです。

 この戦いで有名なのが、那須与一が射落とした扇の的のお話でした。

 ちょっと紹介しますと、夕刻、両軍が休戦状態となったとき(海が夕凪で波が静かになる)、海に浮かぶ平家側の陣営から、美しく装った麗しい女性が乗った小舟が現れ「竿の先の扇の的を射よ」と挑発します。

 源平合戦の激しい戦いのさなかに、こうしたみやびなシーンが現実に行われるというのが、日本の歴史の実に優美なところで、諸外国の戦闘潭には、なかなかこういうシーンはでてこない。

 小船に立てた竿の先は、波に揺られて、ゆらゆらと動いています。

 的を外せば源氏の名折れです。

 那須与一と屋島の戦い

 http://blog-imgs-53-origin.fc2.com/n/e/z/nezu621/2012091022271661f.jpg

義経は、弓自慢の畠山重忠に命じるのだけれど、さしもの重忠も揺れる的には自信がありません。

 そこで重忠は、下野国(栃木県)の武士、那須十郎を推薦します。

 けれど、十郎は日中の戦で受けた傷が癒えず、弓を射れない。

 そこで、兄者に代わって引き受けたのが、弟の那須与一です。

 那須与一は六間(約10.8m)ほど海に馬を乗り入れると、弓を構えます。

 的までは40間(約72m)ばかりあります。

 射損じれば、源氏に恥をかかせたことになる。

 腹をかき切って自害するしかない。

 彼は「南無八幡大菩薩」と唱えると、狙い定めて鏑矢をヒュンと放ちます。

 矢は、浦にひびく長鳴りをして飛びます。

 そして竿のてっぺんにある扇の要ぎわを一寸ばかり残して、見事に射切ります。

 扇は、真紅をひらめかせて空たかく舞いあがり、春風にひともみふたもみもまれて、海へおちる。

 両軍の歓声がこだまするなか、扇は夕日に輝く海に、漂う。

 この物語は、平家物語で「扇の的」と呼ばれる名場面なのですが、この事件が実際にあったという証拠には、いまでも京都の三十三間堂に、このときに与一が放った矢が、大切に保存されています。

 与一の矢は、他の矢より、ちょいとばかり長い。

 まさに芸術品のような品格のある矢です。

 さて、このとき、平家側が竿の先にくくりつけていた扇、これが日の丸の扇です。

 このときに使われた扇と同じデザインの扇が、いまでも靖国陣社などで、売られています。

 いま、私の机の隣の本棚に、その扇(もちろん模造品)が飾ってありますが、いまから800年もの昔に、こうして日の丸が、源平合戦に登場していることは、歴史を思うと、なんだか感慨無量です。

 て、この日の丸ですが、室町時代になると、足利幕府が推奨した海外交易船であるご朱印船において、日の丸は「日本国籍」を示す商戦旗として公式に用いられています。

 勘合貿易船 船尾に日の丸があります

http://blog-imgs-53-origin.fc2.com/n/e/z/nezu621/20120910222759fbe.jpeg

 の朱印船は、遠くベトナム、タイ、マニラ、マレー、フィリピンまでも出かけていて、ベトナムには73回、タイには55回も遠征して国際貿易を行っています。

 この時代は、ヨーロッパでも大航海時代の走りだった時代ですが、日本も同時代に大規模な交易事業を営んでいたわけです。

 戦国時代になると、日の丸は、天下一の武将の御印とされるようになります。

 有名なところでは、元亀3(1573)年に、静岡県浜松市北区三方原のあたりで行われた、武田信玄と織田信長との戦い(三方原の戦い)で、両氏とも、本陣に日の丸を立てていたというのは有名な話です。

 両陣営とも、日の丸を立てることで、「我こそは天下一の武将なり」と宣言していたわけです。

 さらに時代が下り、江戸時代になると、徳川幕府は延宝元(1673)年に御城米廻船の船印として「日の丸」を指定しています。

 そして幕末の黒船来航の翌年である安政元(1854)年には、幕府は正式に「日の丸」を海外派遣用の船舶における日本船旗として、日の丸を指定しています。

 また万延元(1860)年の、幕府渡米使節団は、米国のブロードウェイで、日の丸の小旗を振って歓迎を受けています。

 ちなみに、明治維新の際の戊辰戦争では、薩長土肥の官軍側が錦の御旗、幕府方は日の丸を背負って戦っています。

 そして戊辰戦争が終わり、明治政府が誕生すると、明治新政府は明治3(1870)年の太政官布告第57号の「商船規則」で、日の丸を「御國旗」として規定し、日本船の目印として採用しています。

 以降、日の丸は日本の国旗として定着するのですが、さてその明治3年のことです。

 日本に着任したフランスの大使が、フランス国として正式に(なんと「正式に」です)政府代表を立てて、明治政府に「日の丸を500万円(当時の金額)で売ってほしい」と依頼してきたのです。

 時は、ちょうど普仏戦争(ふふつせんそう)の最中の出来事です。

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