草津温泉「温泉観光士」協会 ブログ

草津温泉「温泉観光士」協会からの活動報告や、温泉レポートです。

西の河原と賽の河原。

2007-03-12 12:33:21 | 温泉観光学
110a0844.jpg草津温泉には、「西(さい)の河原公園」がありますが、昔は、「賽の河原」と呼ばれておりました。賽の河原とは、インドの仏説に寄る賽の河原のことで、インターネットのはてなダイアリーで調べてみると、「死んだ子供が行く所といわれる冥途の三途の川の河原。ここで子供は父母の供養のために小石を積み上げて塔を作ろうとするが、絶えず鬼にくずされる。そこへ地蔵菩薩が現れて子供を救うと言われている。」と、ありました。それが、いつの間にか、「西の河原」になってしまったそうです。
昔の古き名前を残すべきか、イメージを変えて「西の河原」にするべきか、皆様はどちらがいいと思いますか?
こちらの手紙は、原靖直さんという方が、昭和31年10月9日に桐島屋旅館に送られたものです。

第1回 温泉観光士 受講生 中島俊司 記

補足説明
3月12日協会レポート、西の河原(にしのかわら)の補足説明。
原さん(桐島屋旅館の明治からのお客さん)に指摘されているように、この世のものと思えないような景色を地獄の賽の河原と言うわけです。殺生ヶ原、賽の河原と仏教的な事からそう呼んでいたわけです。
 西(にし)の河原を無理に西(さい)の河原と言っている方が変なのです.西にある西の河原を「賽の河原」とも云います。草津温泉は地元の人が少ないという事と、商売が第一義のため町の事を知ら無すぎるという事があります。
(また、先輩たちが造ったものを簡単に壊すという事も行ってきました。湯畑も数十年前の方がはるかに情緒がありました。町長になると何かしなくてはと固定観念に駆られてしまうらしく、湯畑もひょうたんのような変なものに無理に作り変えたり、徳川八代将軍のおくみあげの碑までも移動してしまいました。)
 賽の河原には私が子供の頃はまだ地蔵さんが幾つもあり、崩さないように小石を積んだものです。小石が崩れるとあぶない、という理由で小石までも積まなくなりましたから、若い人たちは賽の河原で小石を積むという話も知らないと言うことになってしまいます。(一事が万事です。)
 戦後はやたらと手を加えすぎて賽の河原公園のイメージが壊されてきましたし、補助金によって資料館等を造った頃からは益々この公園がつまらないものになってきてしまいました。(補助金が出ると何でも造ってしまう。愚かな事です。)
 地蔵の湯のところも昔は賽の河原と言っていたようです。今のように道路でなく温泉の川が流れていて、少しこぶりな賽の河原だったようです。(地蔵から大滝の湯へ向かう高松と大蔵の間の急坂は最近出来たもので、子供の頃は崖でして、ここに地蔵の湯の温泉が流れ落ちていました。)
当会の事務局が「どちらが良いと思いますか?」と発言するくらいですから、その世代の基礎知識がその程度ということですか。日本人としての基礎知識が不足してきている事を証明してしまいました。((~_~;))  事務局も勉強が足らないです、というか教えても日本人としての基礎がないので、これが問題です。PCのバーチャル人間が増えてきたためでしょう。

草津温泉「温泉観光士」協会 中澤芳章

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