南極海道五十三次

南極観測隊の同行教員の記録

2012年03月11日 12時59分14秒 | 日記
3月11日(日)午前5時、南緯56度、東経109度、2.5℃、くもり



 この度の震災で亡くなられた方々に哀悼の意を表します。

また被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。



 船はまもなく南極圏の境界と考えられる南緯55度を通過します。この線から北側はもう南極ではないということです。私たち第53次南極観測隊夏隊の活動ももうじき終わりを迎えます。11月に日本を発ってから百日以上が過ぎ、まもなく帰国という今でも南極で出会ったもの、感じたものの大きさに圧倒され続けています。




海氷上の氷山の蜃気楼、この異形が水平線一面に広がる



 氷河上を流れる清冽な水、ペンギンたちの跳ねる岬の先端の碧いプール、渓谷の絶壁をかすめ飛ぶユキドリ、海氷上に幾重にも揺らめく氷山の蜃気楼、天空にまで続くかという大氷原、霧氷の中にかかる白い虹、息が全く白くならない驚異的に清浄な空気、鏡のような湖面の下に眠る不思議な湖底世界、紺碧の空を彩る七色の雲、星空を翔けるオーロラ、日没後に東の空に浮かび上がる紫の地球影、大理石の中に輝く青い宝石、船のまわりを乱舞するクジラの群れ、ベタ凪の海に凛と立つ氷山・・・



北の夜空、逆さに昇るオリオン座




今朝未明のオーロラ



 もしこの地上に人間がいなかったとしても、この南極の限りなく美しい自然はそのまま「あり」続けるでしょう。けれど、その美しさを感じる生物がいることで美しさの価値は何倍にもなっていると思います。そうした意味で人間はやはり格別な存在で、この地上に誕生したことの意味は大きいでしょう。一方で人間は、この自然から様々な恵みを享受してきたと同時に、自然を無造作に切り開き、様々な物質を作り、散らかし、汚してきました。地下数千mの岩盤中に生存する微生物を見て、「生命の本質は“はびこる”ことである」と語った生物学者がいましたが、人間もけして例外ではありません。

 そうした中で手つかずの自然の残る、最後の秘境、南極。その厳しい自然のために二十一世紀に入った現代でも人間の永住を拒み続けている極限の大陸。惑星地球を最も身近に感じることのできる世界。南極は、私たち人間が本来の自然や地球を感じることのできる最もふさわしい土地の一つであることは間違いありません。ですから南極は本来、科学的研究・調査の対象としてだけではなく、もっと多くの人々が訪れ、人と自然という大きな多分永遠のテーマへの答えを求める場所と言えます。

 私たちは今、迷っているのかもしれません。強大な自然の力を前にして失いかけた現代人としての自負。生きるために仕方がないとはいえ、後世の地球環境に返しきれないほど大きな負の遺産を残しつつある科学文明。大きな天災を受け、人々と自然との強い絆に入った綻び。この自然や地球、科学技術と今後どう向き合っていけばよいのかと。



氷河上の放射線値は低い、東日本が元の値に戻るのはいつになるのか



 今年の53次隊の活動も自然の大きな力に翻弄されました。厚い氷と積雪のため18年ぶりにしらせが昭和基地まで接岸できず、様々な任務に支障が出ました。“想定外”とも言われますが、全てを自然のせいにするかのようなこの言葉はもう使いたくありません。南極の自然はそもそも厳しく、未知で、私たち人間の50年の経験と知識ではまだ推し量ることができない部分が多いのです。同じことが人間の地球への理解にも言えると思います。ただ、だからといって自然は分からないとか、人間は自然に遠く及ばないとあきらめては何も始まりません。結局、人は自然から離れることはできないのです。

 自然と人との絆、人と人との絆。それらを守るために、この南極観測も含めた人間の全ての探究活動やそこで得られた知識や科学技術や叡智があると言ったら言い過ぎでしょうか。自然をもっとよく見つめ、より深く広く理解し、同時に私たち人間の力と限界を見極めた上で、自然とともに生きていく方法を探る。そうした真の意味での復興が、海外を含めてお世話になった方たちへの恩返しのためにも必要なのではないでしょうか。



氷河上に気象計を設置する



 過去より公害問題、現代では環境問題、エネルギー問題、少子高齢化問題、様々な社会問題を抱えるこの国を「課題先進国」と評した方がいます。そして新たに今回の震災と、放射能などのその影響の問題。いつかは他の途上国もこうした問題に直面するのですから、この国が今どういう選択をするかは一国の問題ではありません。そうした難問への答えを国のリーダーや他人に求めるのは若干筋違いであって、まずは私たち一人一人が考え抜き、行動で示していくよりほかはないのではないか、そう思います。幸いこの国には“思いやり”や“分かち合い”という素晴らしい精神遺産があります。時間がかかるかもしれませんが、皆で乗り越えていくことができたらと願うばかりです。



海霧に浮かぶ氷山陰影



 さて、このブログも今回で53回になりました。最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。この場をお借りしてお礼申し上げます。また、いままでお世話になった全ての皆さん、家族、そして南極の厳しくも素晴らしい自然―本当にありがとうございました。また船内と日本との細い回線を補うべくブログ更新に協力して下さった同室のSさん、仙台のIさんに深く感謝いたします。

 そして白瀬矗中尉の南極探検からちょうど100年目の今年、南極海を越えて私たちを無事に昭和基地まで送り届けてくれた船“しらせ”、どうもありがとう。


今朝の朝焼け

熱烈歓迎

2012年03月06日 10時45分37秒 | 日記
3月5日(日)正午、南緯65度、東経55度、-4℃、曇り

 一昨日、三月三日の桃の節句は日本ではしとやかな一日であったと思います。同じころ、地の果ての南極、東南極リュツォホルム湾内ではしらせが厚い定着氷を相手に最期の戦いを続けていました。そして夕方6時、ようやく定着氷を抜け流氷帯に入り船速を上げたしらせは同日夜10時過ぎに流氷帯を通過、ついに氷海離脱を果たしました。まだ無数の流氷が漂う暗夜の航海に油断は禁物ですが、砕氷船でなく一般の船舶でも航行可能な海域に出られたことは大きな前進です。それまで白い氷に覆われていた進路にサーチライト(探照灯)に照らされ漆黒の南極海が広がったとき、思わず「やった!」と声を上げたのは無理らしからぬことでしょう。翌朝の南極海に射す朝日の眩しさは格別でした。





航跡(写真上部、褐色混じり横線)の残る定着氷縁付近、皇帝ペンギンに別れを告げる





暗夜の流氷帯、小さな氷山を避けながらの航行



 昨日、海洋観測で停船中にうれしいハプニングがありました。もともとは2年前に4000m以深の海底に沈めた海底圧力計を回収する目的でその浮上を待っていたのですが、その途中、船の前方に潮が吹き上がりました。またクジラです。2、3頭が船の前方を横切ろうとしています。圧力計の回収が終わる頃には、クジラたちは船から50mほどの距離まで接近してきました。あわてて甲板上に移動するともう、すぐそこに10mほどの巨体が迫っていました。カメラの望遠など全く不要です。「船にぶつかる、危ない!」という瞬間、クイックターンを決めて潜航、転針したかと思うと今度は船の周囲をのんびりと回遊し始めました。それも2頭や3頭ではなく、5頭、6頭、次第に数が増え最後は10頭を超えるクジラの群れがしらせを取り囲み、潜っては浮上し、近寄っては遠ざかり、尾びれで海面をたたき、中には反転してお腹を見せる芸当までする愛嬌者も。クジラの大部分はザトウクジラ、体長20mを超える大型のナガスクジラも3頭ほど混じっていたようです。ブロー(潮吹き)の音には、個体ごとに違いがあり普通の「シュー」、息継ぎをするような「ブオー、ブーウ」、野太いいびきに似た「ゴッ、グゴゥーッ」等々あり、まるで楽しく言葉を交わしているかのようです。





ザトウクジラ4頭、前ヒレが長く、鼻先がボツボツしているのが特徴





お腹を見せる余裕の一頭





ナガスクジラ2頭、頭から背ビレまでが長く、尖った背ビレ、直上の潮が特徴



 というのも、直前に行っていた海洋観測で海中のプランクトンを採集して調べたところサルパという体長1㎝ほどの動物プランクトンが多くみられました。この種が優勢な場所は、クジラの主要なエサとなるオキアミ(小さなエビに似た生物)が反対に少なくなるそうで、実際ほとんど見られませんでした。つまりクジラはエサ目当てで集まった訳ではないようなのです。そして今回、クジラが集まる直前に船が行ったことは海底圧力計を浮上させるための音波の信号を発信することでした。他にも集まる理由はあるのかもしれませんが、この音波を探知したと考えるのも一興です。

 太古、せっかく陸上に進出を果たし、さらに進化して誕生したホ乳類のうち、クジラの祖先だけが再び海に戻る道を選びました。その間大きく姿を変え、鼻は上部に移動し、前足は胸ヒレに変化し、後足は退化し、その骨が痕跡器官となって残るのみです。その結果、現存する地球上最大の生物となったわけです。万物の長と言われる人間ですが、このクジラたちを見ていると、本当にそうなのか?と疑いたくなります。

 氷海を抜けてきた私たちを歓迎しているかにも思える彼らのしなやかな泳ぎ。私たち人間も、もちろん、海へ―にではありませんが、状況に応じて柔軟に変わることが大切なのではないかということを教えてくれている気がしました。

リュツォ・ホルム湾

2012年03月01日 09時28分03秒 | 日記
2月29日(水)午前10時、南緯68度41分、東経38度35分、曇り、-0.9℃

 反転してから二週間後の一昨日、夕刻八時半、しらせは氷海脱出の第二関門となる乱氷帯をついに突破しました。それまでラミング一回当たりの進出距離が10mから20m程度だったのが、50、60mに急上昇したのです。艦橋から見ると、雪原にあった無数の氷の突起が姿を消し、積雪も少なくなったように感じます。それでもまだ定着氷縁(厚くつながった氷の端)の開水面までは20㎞以上あり予断は許せません。またその後も流氷帯が続きますが、少なくとも氷に閉じ込められた状況からは脱することができそうです。現在までのラミング回数は既に3900回を越えました。少しずつ日本が見えてきました。



定着氷を砕氷航行するしらせ、往路の砕氷の跡(航跡)に併走

衛星写真やヘリによる航空写真、艦橋からの目視、過去の資料等を参考に氷の割り易い場所を探して進む




定着氷(写真右上)を抜けると、リード(開水面:写真中央の付近の黒い川のような部分)、さらに流氷帯(写真左下側半分)が続く



 昭和基地のあるオングル島はリュツォ・ホルム湾内にあります。湾とは海のことですが、その実、厚い海氷で覆われ、また大陸沿岸部のしらせ氷河やラングホブデ氷河などから流れ出たテーブル型氷山が海氷から無数に林立しています。湾というより一大雪原と呼ぶ方がふさわしいでしょう。しらせの砕氷航行でこじ開けられた海水面の黒さを見て初めて、そこが海であることを認識できる異様な世界です。

 この氷山の立ち並ぶ壮大な景色もおよそ10~20年おきに大きく変化するそうです。海氷と氷山が移動してゆくのです。リュツォ・ホルム湾はこうした氷が移動する不安定な時期と、移動しない安定な時期を繰り返していることが分かってきています。現在は安定して動かないように見える氷山もいずれは動き、最期は大海原に旅立っていくのです。

 「Inaccessible(接近不能)」 「日本は貧乏くじを引いた…」と言われつつ50年以上前に南極での日本の観測場所として割り当てられたプリンス・ハラルド海岸と、現在の昭和基地のある宗谷海岸に面したリュツォ・ホルム湾。海氷が観測隊接近の大きな障害となってきた一方で、氷山など氷の大陸の息遣いを間近に感じることのできる貴重な場所であることも忘れてはいけないと思います。また、この湾の海氷は大陸と南極海の境界にあるため両者の環境の相互作用を考える上でも重要です。

もともと子どもと自然はなかなか大人の思い通りにはならないものです。だからこそ末永く見守ることが肝心なのでしょう。




開水面中に浮かぶ氷山、その周り(写真下側)で再び結氷しつつある海氷、離合集散の果てに待つものは




流氷帯の向こう遥かに南極海(写真左端)が見える



今回は先日のヘリ搭乗時の画像を活用しました。さて、このブログもあと2回で五十三次となります。終点までもう少しだけお付き合い下さい。

宇宙への扉

2012年02月25日 19時59分14秒 | 日記
2月24日(金)12時、気温0.4℃、晴れ

 先日、深夜床に就こうとしてふと二段ベットの脇の船窓のカーテンを引くと、北東の夜空にぼんやりと白い筋がかかっているのに気づきました。雲にしては長すぎると思い、目を凝らすとわずかに緑色を帯び、ゆっくりと動いています。オーロラです。とりあえずシャッターを切りました。



凍った絵画、オーロラ(写真中央)

太陽からの高速の電子やイオンが極地方の磁力線に捕まり大気粒子に衝突、発光する



 最近空がどんどん暗くなり、肉眼で見える星の数も20を超え、そろそろオーロラが見えるのではと思って、第一次越冬隊長の西堀栄三郎さんの南極越冬記を読んでいたら本には2月19日の深夜0時45分に初めてオーロラを見たとありました。私が先日オーロラに気付いたとき腕時計は0時49分でした。日付も2月19日。偶然に驚いたというより、少し怖さを感じました。

 西堀さんの本がきっかけになったことは他にもあります。本の中で西堀さんは南極の宇宙塵(宇宙から降ってくる非常に細かいちり)の研究をしています。早速私も、プレパラートにワセリンを塗って外に1日くらい放置して、顕微鏡で観察してみると確かに直径数十ミクロンの真球状の粒子が見つかりました。地球落下時に大気圏で溶融するものは真球状になるのです。また南極では塵が少ないため、比較的見つけやすいのです。一方、それが磁性を帯びていた場合、日本では溶鉱炉や溶接で生じる鉄のフューム(固体が蒸発後冷却され凝結、固化した微粒子)の可能性が否定できませんが、南極ではその可能性は極めて低いです。もっとはっきりしたければ、太古の氷である南極の氷山氷を融かした後に残る残渣中に、人為的成因でない宇宙塵を見つけることができるようです。



プレパラートに落下してきた真球状の微粒子



 現代の研究によると宇宙塵は1日100t、年間4万tのペースで地球上に均一に降り注いでいると考えられています。数や頻度は桁違いに少ないですが、宇宙からの物質として南極隕石も有名です。別に南極にたくさん隕石が落ちてくるわけではなく、落下して氷に閉じ込められた隕石が氷の流れに乗って移動し、長い時間をかけて貯まりやすいところにたまってくるのです。そうして効率良く回収できるというわけです。残念ながらその場所には私は行けませんでしたので、おとなしく顕微鏡で宇宙塵らしき粒子を愛でています。



 さて、人間の見たい、知りたいという欲求は尽きることがありません。この南極に天文台を作って宇宙を見ようという人たちが53次隊にはいます。仙台の人たちです。しらせが接岸を断念して危うく、肝心の望遠鏡が昭和基地まで届かないかという状況でしたが、1月末に滑り込みで物資が到着し、ようやく準備が整ったそうです。計画では来春(11月以降)に内陸のドームふじ観測拠点に望遠鏡を運び、観測を開始する予定です。




昭和基地の一室で来春のドームふじ遠征を待つ赤外線望遠鏡(市川隊員提供)




望遠鏡の命である赤外線カメラ、上の本体同様、-80℃仕様である



 ではなぜ南極で、しかも昭和基地から1000㎞も遠く内陸の、富士山ほどの高さのドームふじに天文台を作ろうというのか。遠くの星(昔の星でもあります)をはっきり見たい、そんなとき一番は大気の邪魔のない宇宙空間に望遠鏡を置くことです。しかしこれには打ち上げ時の制約があります。では地表ではどうか。大きなレンズや鏡面で多量の光を受けられる望遠鏡を拵えればよろしい。ただ大気や街灯りが邪魔なので、できるだけ大気の薄い、乱れ(対流による空気の乱れ、かげろうのようなもの)の少ない、余計な光のない、例えば絶海の孤島か、高い山の上が最適です。ハワイ島のマウナケア山頂の「すばる」望遠鏡や南米の高山の「なんてん」などが有名です。しかし大きな装置を人里離れた土地に設置するのは巨額のコストがかかります。また赤外線望遠鏡の場合、外気温が高いと余計な熱(≒赤外線)が観測の邪魔になります。

 そこで南極の極寒の高地、ドームふじの出番です。大気が薄く、乱れが少なく、外気温が極めて低く、光害が皆無で、しかも晴天率が高い。極夜期には周極星(北半球でいう北極星)付近の星は消えず沈ます連続観測ができる。赤外線望遠鏡には地上最適の場所です。もちろん世界でも初めての試みです。上手くいけば、また一つ新たな宇宙の姿が描かれることでしょう。

南極の新しい魅力とロマンを育むこの計画。「…とにかく、やってみなはれ…」という西堀さんの声が聞こえてくるようです。

つながり

2012年02月25日 19時55分00秒 | 日記
2月23日(木)午後、南緯68度47 分、東経38度47分、くもり時々小雪、-2℃

 厚い海氷の中で反転してから順調に北上を続けてきたしらせが第二の難所にさしかかっています。船は往路の航跡をたどることで少しでも早く進もうと努力を続けます。氷盤が舳や舷側に衝突するときの突き上げるような轟音と揺れ。逃げ場をなくした氷塊が船体をこするときの金切音。氷に前進を押しとどめられてもなお押し続けるとき推力が船体をふるわせる異様な振動。それらが混然一体となって乗員の感覚を麻痺させてきます。ここ一週間くらいが山場でしょうか。

 今、船内の隊員食堂(公室)の奥の休憩室には大きな一枚の布が飾られています。先日の昭和基地からの最終便のヘリで運び込まれた第53次越冬隊から同じ第53次夏隊に向けてのメッセージです。私たち夏隊や任務を果たした前年度の第52次越冬隊は帰国の途につきました。しかし、第53次越冬隊(31名)はこれから一年間、昭和基地に残り基地を守って観測を続ける―越冬―という大きな仕事に向かい合います。次の南極の夏、つまり年末に新しい第54次隊がしらせとともに昭和基地に迎えに来るまでここで過ごすのです。

南極には人の住めるところとして各国の基地がありますが、それらはあくまで点在しているだけです。昭和基地の場合、最も近い外国の越冬基地であるオーストラリアのモーソン基地ですら約700㎞(仙台―大阪間)ほども離れています。もちろんこの間には通常の交通手段はありません。また昭和基地に船や航空機で近づけるのは気象条件や海氷状況の良い夏期間だけです。外部から助けに行けない…つまり何があっても31人で乗り越えていかなくてはなりません。現在の技術で火星への有人旅行には最低でも数年かかると言われています。ですから2月末から12月末までの越冬期間に入った昭和基地の越冬は地球上でありながら、ある意味、地球上でない別世界で生き抜くことに近いといえるでしょう。


越冬隊からのメッセージ



 他の夏隊員より一足先に昭和基地を離れた私には、このメッセージが越冬隊の最後の、唯一の言葉でした。曰く「(夏の)4ヶ月、毎日が充実して楽しかった」、「たくさん勉強させてもらいました、ありがとう」、「越冬準備ありがとう」、「来年、成田でまた会おう」、「越冬楽しんでくるよ」・・・越冬隊の倍以上の人間が急にいなくなった基地を思うと、越冬隊31人のそれぞれの言葉には、ごく短くとも万感迫るものがあります。こうした思い、願い、誇りが第一次越冬隊から途中何度か中断があったものの、現在の53次隊まで受け継がれ、今の日本の昭和基地があります。

 南極大陸は広大でその歴史は悠久です。しかし各国の越冬隊基地の小さな灯が極夜の漆黒の大陸を照らし、時代を越え、国境を越えて人々をつなぎ続けるとき、いつかこの大陸の神秘を解き明かし、人類の大きな道しるべになるのではないでしょうか。

オングル島は地理的には隔絶された島です。でもけして孤独な島ではない…と思います。僭越ながら、53次越冬隊の前途に幸あらんことを心よりお祈りします。


乗り物大集合

2012年02月20日 09時44分14秒 | 日記
2月18日(土) 9時、快晴、-9℃、湿度49%、海面気圧998.6hPa、海水温-1.8℃、昨日に引き続き蜃気楼の見えた定着氷航行中のしらせにて

 私が昭和基地や大陸沿岸部の野外などでお世話になった乗り物を小テスト形式でご紹介します。問題には乗り物の中から外を眺めた様子の写真を見てお答え下さい。最後に、その乗り物の外見の写真で各自答え合わせをどうぞ。名付けて「南極の車窓から」。



問題 

以下の問1~問8の各問の写真と説明文に最も適した乗り物をそれぞれ答えなさい。ただし車輪のない乗り物も含むので注意すること。回答時間3分以内。




問1 乗り込むときにアナウンスがあります。「…なお当機にトイレはございません。お乗りになる前にお済ませ下さい…」。ただ多くの場合、1回の飛行時間は長くても30分程度です。



問2 生コンの運搬に使いました。視点が高いので気分爽快ですが、未舗装なので油断するとハンドルを取られます。



問3 東京の大井ふ頭で船積みした新車、二人乗り可ですがヘルメットなしだと東オングル島警察署!?に捕まります



問4 オーストラリアのフリーマントル港で船積みしました、英語が話せるともっと楽しい



問5 シャンデリアのような豪快なつららに見とれています、後ろ向きに進みます



問6 こちらも夏作業で大活躍の新車、難問かな



問7 雪面が凸凹で天井や壁に何度も激突、ヘルメットをしないと本当に危険です



問8 つい先日の画像、大陸のラングホブデの山並みが一望できる! 多分、世界一豪華な車窓!?



<解答例>




問1 しらせヘリCH-101 92号機



問2 2tトラック いすゞ自動車製 この何台かのどれかです



問3 スノーモービル TUNDRA SKI-DOO



問4 豪HELICOPTER RESOURCES社からチャーターした小型ヘリ VH-AFO機



問5 二人用ゴムボート Achilles製



問6 パワーショベル 日立製作所製



問7 SM40型雪上車 大原鉄工所製



問8 海上自衛隊所属砕氷艦しらせ(17AGB)  観測隊寝室103号室の船窓 ※AGB:Auxiliary Icebreaker(砕氷艦)の略

地中の宝

2012年02月18日 12時11分21秒 | 日記
2月17日(金)19時、晴れ、しらせにて

 しらせは今、砕氷航行を続けています。1回のラミングの進出距離は実質10mにも満たないですが、左舷から夕陽を浴び、着実に厚い氷を粉砕しほぼ真直ぐに北上しています。

さて、今度は南極の石や岩のお話をしましょう。昭和基地周辺に露出した岩は気温の日変化や年変化、乾燥、強風、雪解け水などで激しく風化、浸食されています。そうして崩れてできた破砕片が細かい砂となり貧弱な土壌を形成しているようです。特に夏場の昭和基地の屋外では細かい雲母片が空気中を飛び交いカメラなどの隙間に入り込み故障の原因となるほどです。また硬度の高い砂や小石は強風で岩に無数の小さな穴を穿ち、独特の造形美を持つ岩―蜂の巣岩―を生み出します。

 


風化して残った細長い石(写真中央)、底も削られ向こう側が見えている



基地内に転がる蜂の巣岩、大きさは1.5mほど、後述する迷子石でもある



風化浸食されにくい鉱物が岩の最上部に残ることもある



しみ出した塩類が乾燥し白く析出している、なめるとNaClだけではない味がする



南極の露岩域の多くは表層に植物や土壌が発達しないため、岩盤が露出しています。寂しい反面、岩に刻まれた地球の歴史を直接観察することのできる極めて貴重な場所ともいえます。そしてその上に時折、置いてきぼりにされたかのような大岩がぽつんと乗っていることがあります。「迷子石」です。大昔に氷河に乗って運ばれた石が氷河の後退(消失)後、取り残されたのです。





岩盤上に幾つもの迷子石が転がる、奇妙な光景である



 石や岩をよく見ると縞模様の岩石が目立ちます。これは片麻岩と呼ばれ、地中深くで高温、高圧にさらされ変質した岩石―いわゆる変成岩の仲間です。変成岩の存在はその地域に過去、火山活動や造山運動などの何らかの地殻変動があったことを意味し、それらを知る手がかりとして重要です。

 およそ5億年前、現在の南アメリカとアフリカからなる大陸と、南極とインドとオーストラリアからなる二つの大陸が衝突し一つの巨大な大陸、ゴンドワナ超大陸が誕生したといわれます。この衝突の地殻変動は広範囲に及び、昭和基地周辺の地表や海底の岩石や堆積物も地下深くに運ばれ変性しました。当時、昭和基地付近にはインドやスリランカが接しており、同様な地殻変動を受けたと推定され、これらの地域で現在産出される鉱物と同様の鉱物が、昭和基地周辺でも産出します。さきほどの変成岩中にもそれは確認できます。ガーネットやサファイア、ルビーなどの宝石です。





石灰岩が変性した大理石の中に点在するサファイアらしき青い鉱物(写真中央)




昭和基地周辺でよく見かける赤紫のガーネット、直径3~4cmの大粒



 ゴンドワナ超大陸はその後、今から約1億8000万年前に現在の各大陸に分裂、移動を始めました。そして約2000万年前に南極大陸は他の大陸から完全に孤立し次第に極寒の地となりました。大陸の移動はその大陸上の環境そのものを大きく変えるのみならず、長い時間のスパンで地球環境全体をも変化させます。

一方、昭和基地から東に400~500㎞離れたエンダビーランドと呼ばれる地域には、約40億年前に生まれたとされる岩石(ナピア岩体)が眠ります。地球上に大陸地殻ができて間もないころの岩石、つまり世界最古の岩石の一つとも言われています。こうした岩石は地球全体の歴史を探る上でも極めて貴重です。

南極に限らず地上の石は全てその土地の過去の歴史を何らかの形で背負っているものです。100年前に南極探検をした白瀬矗が「・・・必ず捜せ南極の地中の宝・・・」と詠んだ「宝」とは、宝石としての価値にとどまりません。南極の大地は、地球の大地の歴史やプレート性の地震などの地殻変動の秘密を紐解く人類共通の大切な遺産なのです。そして、その大地による天災を経験した私たちにとって、南極の宝石が放つ澄んだ輝きは、私たちの行く手を照らす希望の光だと信じます。

秘密

2012年02月16日 16時04分55秒 | 日記
2月16日(木)7時、薄くもり、気温-7.2℃

 先日14日、私にとって南極最後の大陸沿岸部の野外調査の同行となるスカルブスネスへのフライトがありました。スカルブスネス地域は以前訪れたラングホブデ地域の沢や氷河よりも一段南にあり、数多くの湖沼が点在する貴重な場所です。その一つのなまず池への潜水調査に10名ほどの隊員が向かいました。



スカルブスネスへの入り口に立ちはだかる盟主シェッゲの南西壁、新雪もつかない絶壁



半ば結氷したなまず池、この地域の湖沼には魚の名前がつけられている



空とお話しをしているかのような湖面



 この湖の調査対象は湖底に繁茂する水生のコケ群落です。深い湖底に鶏のトサカのようなツンツンした数十cmのコケたちが林立しているそうです。潜水士の資格をもった隊員がボンベを背負って潜ります。コケを含めた湖底の堆積物の採取や、地温の測定、湖底の森の水中ビデオ撮影などを行います。私もボートの上から湖底を眺めました。マット状にに広がる堆積物が確認できましたが、それがコケなのかどうかは分かりませんでした。冷たい湖水に顔をつけても無駄でした。

 諦めた私は手持ちの水質検査キットで水面付近のリン、窒素などを測ってみると検出限界以下でした。極めて栄養分に乏しい極貧栄養湖です。ただ導電率は市販のミネラルウォーターの2倍程度あり、水面付近の水温(約4℃)や周囲の露岩の塩分を考えると湖底はもう少し塩分が高い状態にあること、そして底までは凍結しにくいことが推察されました。潜水した隊員が採取したコケのサンプルを見て、過酷な生育条件をかいくぐって生きてきた南極の植物に改めて不思議を感じました。きっと長い年月をかけて成長してきたのでしょう。もし地球外惑星に水が存在し生命がいるとしたらこうした生命なのかもしれません。




ボートの支援を受けて潜水調査する生物系隊員



湖底の堆積物のコアサンプル、緑のコケが混じる



湖底のマット状の堆積物、色の濃いところ




知られたおとぎ話です。
 昔、若者とその父親の二人の猟師が山で道に迷い、折からの吹雪に打たれ山小屋に一夜の宿を求めた。小屋には誰もおらず疲れで二人は寝込んでしまった。夜中、誰かが小屋に入ってくる気配がして若者が目を覚ますと見知らぬ女が父親に息を吹きかけていた。しかし声が出ない、若者に気づいた女がこう言った。「このことは誰にも話してはいけません。話したらお前の命はありませんよ」。女が去り、あわてて父親のもとにかけよると父親は冷たくなっていた。父親の弔いが終わりしばらくして、村で若者が一人で寂しく暮らしていたある日のこと、若い女が小屋を訪ねてきて道に迷ったので泊めて欲しいという。聞けば身寄りもないと。そのまま女は村に居つき、やがて若者と夫婦になった。女はよく働き、幾人もの子どもにも恵まれた。ただ普通と違うのはお日様が苦手で日暮れになると子どもたちと外に出て楽しく過ごすのだった。

 月日はめぐり、ある冬の吹雪の晩、女は炉辺で子どもの着物の繕いをしていた。若者は吹雪の音に父親が亡くなった晩のことをまざまざと思い出し、誰ともなく語り始めると滔々と一気に話してしまった。女はつと立ち上がり「お前さんは話しましたね。私はあのときの女です。誰にも話さないようにと言ったのに・・・。もう子どもたちもいるから命は取らないけれど、これでお別れです・・・」と言い残し消えるように去っていった。




 家族を失った悲しい女―雪女―はその後どうなってしまったのか気がかりでした。若者も最愛の妻を失った上に、父親の仇という知らずとも良いことまで知り途方に暮れたはずです。幸せを守るためには知らずとも良い、秘密のままで良いことがある…そんな昔話に思えました。

 南極の湖沼は結局、その湖底の秘密を私には明かしてはくれませんでした。地の果てまで来て今更という気もしますが、好むと好まざるとに関わらず自然を秘密のまま残しておくこともまた大切な視点なのかもしれません。人智を超える自然には、人としての分を守り、潮時を知り、その上で行動する姿勢も重要であるに違いありません。





リュツオ・ホルム湾最奥部の独立峰ボツンヌーテン(写真中央水平線上に小さくある)

第一次隊が犬ぞりで向かい初登頂した、帰りのヘリより遠望



南極――。大陸はあくまで広く、海や湖沼や氷はあくまで深く、そして空は孤高に高く・・・とうてい一回で見通すことなどできません。

反転北上

2012年02月16日 09時52分09秒 | 日記
2月15日(水)18時、くもり

 先日12日、昭和基地で越冬交代式が行われ昨年の52次隊から今年の53次隊の越冬隊に観測など基地業務の全てが引き渡されました。その頃、既にしらせに戻っていた私を含めた一部の53次隊の夏隊員は海氷に穴をほる作業をしていました。電磁気的に海氷厚を測る装置の調整を行うために実際に海氷の厚さを測定するためです。それが「しらせ」の周囲の海氷上に出る最後の機会でした。今年は海氷の上に1m以上の積雪があり、まずこれを掘り出しました。海氷の一番上部の氷までたどり着いたら、そこから下はドリルで掘るか、スチームで融かすか、いずれかの方法で海氷の底まで掘り抜きます。この海氷の厚さ、平均5~6mでした。厚いものでは7mを超えるところもあったようです。よくもまあ、しらせはここまで来たものです。



海氷上の雪を掘り出した四角い落とし穴、ピット。肩まで埋まってしまう積雪で深いところは1.5m近くあった。

底にさらに小さい穴を開け巻尺で海氷の厚みを測る。



東北東を向き氷海に停泊中のしらせ、海氷厚の測定後、右舷のタラップが引き上げられた



 翌13日、いよいよしらせが懐かしい日本へ向かう日が来ました。とはいっても普通の船のようにすぐに向きを変え帰途に就くことはできません。まず周囲を固めている海氷を振り切り、船が動かせるか確認し、それから方向転換(回頭)し、北上する準備をします。たったそれだけの操船に丸々2日間を要しました。



一旦後進し海氷から離れる、船首の形が海氷上に残る



ラミング再開

雪を積んだ氷盤が船首付近で横倒しになる、褐色部はアイスアルジーという藻類、厚みは最大で7mはあるだろうか



北に進路を取ろうと緩やかなカーブを描くしらせの航跡

南極の怪

2012年02月11日 15時44分37秒 | 日記
2月10日(金)晴れ、南緯68度57分、東経39度05分 しらせにて

 昨夜、雪上車で到着後、荷物を自室に入れてから、氷上輸送の積み荷となる燃料の積み込みが始まりました。しらせから長い給油ホースが引き出され、橇に積まれた約1kLのオイルタンク(リキッドコンテナ)に次々に越冬用の燃料が満たされていきます。これを3個から6個ずつ一つの橇に載せて各雪上車が牽引します。合計34kL の燃料です。



しらせから燃料を積み込む



ラミングで1万2500tの巨体を受け止める船首



 その間、しらせの船首に目をやると船底のオレンジ塗料が禿げ灰色の地金が顔を出しています。激しいラミングによる擦痕です。どれほどの厚さの氷だったのでしょう。今朝、停船直前のラミングで生じた海氷のクラック(海氷上の割れ目)を上から覗いてみましたが底が見えません。上部は積雪、下部は海氷のはずです。近年、南極では積雪量が増えている地域が報告されています。その原因としては諸説ありますが、ともかく海氷上の積雪量が増えると砕氷能力は大きく落ちてしまうのです。



ラミングで生じた海氷のクラック、かなりの深さのようである



 あたりが夕闇に包まれる23時、ようやく燃料の積み込みが完了しました。6人のドライバーの繰る雪上車が順番に昭和へ向け動き始めました。夜間のほうが冷えて雪面の状態が良いのです。・・・数日前、外で夜空を観察して深夜遅くに宿舎へ戻ったときのこと、ふと窓から外に目をやると遠くのあらぬ方角に一瞬灯りがまたたくのが見えました。外に出てみると灯りが二つに増えてゆっくりと動いていました。建物や人工物などはない南西の方角です。しかも消えたり点いたりを繰り返します。狐火?と驚く間に灯りが今度は四つに増えているではありませんか。先頭の狐が止まると後ろの狐もピタリと止まる・・・。その正体が今、はっきりと解りました。水深230mの海氷上ではお話は皆、凍りつくのかもしれません。



燃料を満載し出発を待つ雪上車隊



別れの汽笛の音とともにキャタピラを震わせ海氷上を去っていく

南極海道三十キロ

2012年02月11日 15時36分12秒 | 日記
2月9日(木)晴れ 

 最後の南極授業が終わりました。ご協力頂いた大勢の皆さんありがとうございました。一息つく間もなく、私は住み慣れた昭和基地を雪上車で離れる選択をしました。18年ぶりに最新鋭の砕氷艦「しらせ」の昭和基地接岸を阻んだリュツオ・ホルム湾の定着氷(多年氷)をこの目で見て見たかったのです。18年という年月は自然にとっては一瞬であり、今年より積雪が多く海氷の厚かった年はいくらもあるでしょう。しかし、それでも私たち人間には大きな出来事でした。観測隊に必要な多くの物資の輸送が滞り計画が乱れました。特に2月に近づいてからは、越冬に必要な物資(食料と燃料)を運ぶのに天候とにらめっこの一喜一憂の毎日でした。輸送はヘリによる空輸と雪上車隊による海氷上の氷上輸送の二面作戦で行われ、ようやく目途が付くところまでこぎつけました。人間の活動を翻弄する自然の力はいかなるものか。午後4時半過ぎに昭和基地の燃料搭載用の橇を引いた6台の雪上車隊が出発しました。



キャタピラが雪煙を巻き上げながら、海氷上をひた走る



個性的な標石、氷山が連なる。定着氷に閉じ込められ、この辺りの氷山は何年も居座っている



しらせの電子海図、中央やや左上の○印がしらせの停泊地、斜め線が船首方向、中央やや右上の黄色がオングル諸島



雪上車隊は島から北に出て一旦島々の西を南下し、途中で北西に転進してしらせを目指します。このように大きく迂回して、海氷表面が融けたパドルや氷山、タイドクラックやプレッシャーリッジといった氷の割れ目を避けつつ進みます。ですから直線距離では20km程度のところを30㎞かけて進みます。橇の接続も含めて約3時間後、懐かしい「しらせ」が凍てついた海氷に挟まれて待っていました。



氷山の左に細く伸びる大きなパドル(写真中央部)、美しくも危険な水色



島の風下だけに雪がつく(ドリフト)、遮るもののない強風のしわざ



夕暮れがしらせを照らす

地球からのメッセージ

2012年02月09日 00時34分18秒 | 日記
2月9日(木)午前0時
 3日前、2月5日深夜から6日の未明にかけマイナス10℃近い寒気の中、私は屋外で空を見上げひたすら待っていました。そして6日に日付が変わった午前0時から1時の間、ようやく待っていたものに出会うことができました。日没後の薄明りの空高く、不思議な網目模様を見付けたのです。始めは何だか分からないほどおぼろげでしたが、じっと目を凝らしているうちに、それが見たこともない雲であることに気付きました。通常の雲が発生しえない上空80~90㎞の高高度に青白く輝く雲、夜光雲です。南極や北極の夏期間だけに見られ、極中間圏雲とも呼ばれます。産業革命前には確認されたことがなく、人為的な要因で発生した雲と考えられています。昭和基地では2009年2月に初めて観測されました。
 北半球では高緯度地方で時折目撃され、なんと仙台でも年末に見られたそうです。珍しい現象です。


昭和基地上空に出現した極中間圏雲と思われる雲、写真中央のやや上部
氷の粒でできていると考えられている

 この雲が観測されること自体は、けして良いことではないのかもしれません。この雲の成因についてはまだよく分かっていないですが、一説では温室効果ガスによる大気下部での放射熱の吸収により大気下部から届くはずの熱が滞り、中間圏では逆に気温が低下して水蒸気のはずの水が凍結し氷晶になって生成したとも考えられています。
 そうした地球大気の変化、地球環境の変化に敏感であることは重要です。地球のメッセージに常に聞き耳を立てておくことが必要不可欠だということを、震災後改めて実感したのは私だけではないはずです。
 この雲の確認が地球からの警鈴とならないことを祈ります。


何千万年も前から南極を見続けてきた月
人類の行いも夜光雲の出現も何もかも知っているに違いない

夏の終わり

2012年02月08日 23時20分14秒 | 日記
2月8日(水)晴天、-3℃、昭和にて
 南極の夏の終わりは夜の到来とともに訪れます。それまでの果てしない白夜が終わり、日没が少しずつ早まり、今夜は午後九時半過ぎには太陽が山の端に沈むようになりました。まもなく夏隊は帰国の途につくため、今夜のような好天の日はグリーンフラッシュや満月を狙う隊員で丘の上がにぎわっています。まるで、夏隊と越冬隊が何気なく過ごす刻もあとわずかなことを知らないかの素振りです。


数日前、昭和基地北東の北の浦から昇る南極の月


昭和基地で初めて見る星、写真上部


昭和基地のメインの建物、管理棟前の方位プレート(標識)
TOKYO FREMANTLE の文字が大陸をかすめ、遥か遠くを指している

 また日中の雲も秋の気配を漂わせています。南極は上層雲、中層雲が比較的低い位置で観察できるため空は高く感じます。なお一層高く感じるのは、別れの気配を紺碧の空が映しているからかもしれません。


生コンの混練現場から望む雲

 明け方の気温もマイナス10℃を切るようになりました。マイナス13℃まで冷え込んだ早朝、硬く凍り付いた水たまりの表面に、空気中の水分が霜となったフロストフラワー(霜の華)が白く白く咲き乱れていました。
南極の淡く短い夏が駆け足で過ぎていきます。


フロストフラワー

自然のきらめき

2012年02月05日 00時29分54秒 | 日記
2月5日(土)晴れ
朝、作業現場へ向かう途中、久しぶりに晴れ渡った空の向こうの大陸に目をやると、大陸斜面が揺らめいているのに気づきました。よく見ると大陸の高台から沿岸部の低地に向けて無数の白い筋が流れていました。カタバ風と呼ばれる内陸から沿岸部に向けて時折吹く局地風です。飛雪が風に乗り幾条もの筋を描いています。放射冷却などで大陸氷床上の地表付近が低温になり、気温の逆転層ができ行き場を失った冷気が大陸斜面を下っていく現象です。特に沿岸付近の急傾斜では、重い冷気が勢いよく下っていくため重力風とも呼ばれます。


管理棟付近からオングル海峡を挟んで対岸の大陸斜面をカタバ風が流れ下る


川が海に流れ下るかのようである

 日没直前、隊員宿舎前の丘から夕陽を狙いました。夕暮れ時は太陽光は大気の層をより長く通過することになるため、散乱されにくい赤色の光のみが届くため夕陽は赤くなります。しかし、南極のように空気が極端に澄んでいるところでは、赤の他、緑の光も散乱されずに届いてきます。これを緑閃光、グリーンフラッシュといいます。やや雲が出ていていましたが、何とか出会うことができました。


グリーンフラッシュ、これを見た人には幸運が訪れるという

 少し前になりますが、これも深夜の夕暮れ時に幻日という現象に出会いました。雲の中に六角板状の氷晶があり、これが水平にある場合はプリズムとして働き、反射した太陽光が輝いて見えます。さらに氷晶があまり水平にそろわずに反射光が弱い場合、プリズムで分光された光が虹色のまま見えることがあります。


太陽より右に幻日が見える、太陽上部にサンピラー(太陽柱)も


虹色の幻日、不思議な虹である

 これも少し前ですが、氷河上の霧にかかる虹にも出会いました。一瞬で周囲が陰ったかと思うと体が冷気に包まれ、ふと見上げると靄の中に白い虹が出ていました。あまりの出来事に写真をとるのを忘れるほどでした。


氷河上の霧に浮かぶ太陽


一瞬の後、霧が晴れるかという瞬間、ようやく撮影を思い出した
少し遠目にみると白い虹が見えます


 耳を澄まし、目を凝らし、心の窓を開けておくと、自然のきらめきをほんの少しだけ垣間見ることができるようです。

百見は一実験に如かず

2012年02月03日 21時51分39秒 | 日記
2月3日(金)曇り時々雪と晴れ間、-1℃
 節分の今日、教員派遣の主な任務となる南極授業の1回目が終わりました。私のつたない授業で仙台高校の皆さんが楽しく学んでもらえたかどうか、帰仙してから聞いてみたいと思います。またご協力頂いた多くの皆さんありがとうございました。さて、今日の南極からの授業は理科の授業の一環として行われました。高等学校の理科という教科の目標は文部科学省が定めています。現行の学習指導要領では「自然に対する関心や探究心を高め,観察,実験などを行い,科学的に探究する能力と態度を育てるとともに自然の事物・現象についての理解を深め,科学的な自然観を育成する」となっています。この文言を見ていつも思うのですが、観察実験などを行ってから自然への関心や探究心が高まって、さらに観察実験を続けることで探究する能力や態度、理解力、自然観ができてくるのだと思います。つまり、まずは自然現象に触れてみて関心や探究心が高まるのではないでしょうか。


昭和基地管理棟の非常階段から南極大陸を望む
雪上車の向こうが海氷、さらに奥の氷崖の上の一番白い部分が大陸


管理棟のベランダこと、らせん状の非常階段

 では、子どもたちにどういう観察、実験を用意するか。南極の自然を学ぶ教材として、子どもたち自身が触れることができるものは、いろいろあるかもしれませんが本物となると限られています。今の私の立場で比較的入手しやすかったのが、南極の氷でした。そこで私の授業は実は始めから、南極の氷という子どもたち一人一人が手に取れる教材をいかに生かすかということを前提に作りました。「百聞は一見に如かず」といいます。だから写真やビデオもいいけれど、なお「百見は一実験に如かず」です。これは導電性プラスチックの発明でノーベル賞を受賞された白川英樹先生の言葉です。ささいなことでも自らの手で、目で、耳で、五感を通して感じたこと試したことは心に残ります。得られる情報量が多く、判断と行動が繰り返され頭もフル回転し満足感が得られるからかもしれません。
 氷の授業の準備は昨年1月から始めました。南極の氷のもとになるのは雪ですから、まず雪の観察から始めました。雪が降りそうだと聞けば、深夜のスキー場や雪山まで観察に出かけました。雪の尋常でない美しさ、多様性に気付いたのはその頃です。この雪の結晶の素晴らしさを何とか教材として残せないか、そう考え今度は雪のレプリカ作りに挑戦しました。幸い北海道の先生が素晴らしい方法を考案されていて活用しました。人工雪も作りそれをレプリカに残すこともしました。氷の珍しい現象としてチンダル像作りも興味深かったです。昨夏、生徒たちと一緒にやりました。
 本当はこうした雪のレプリカや人工雪を日本に残し児童生徒に観察させて、南極の雪と比較するということまでやりたかったのですが準備不足、時間不足でした。一方で日本で雪の導電率を測定していたことは、日本と南極の雪を地球環境に結び付けるのに役立ちました。南極の雪解け水の方が日本のそれよりずっときれいだったからです。こうして雪と氷を縦軸に、雪解け水の導電率や南極の氷内部の気体を横軸に、南極の自然と地球環境につながる教材がようやくできました。



顕微鏡の木箱に落ちてきた南極の雪



顕微鏡で見た南極の雪

 教員の教材作りが児童生徒の心に響くことを願いつつ、次の授業に臨みたいと思います。福は内、鬼は外。