シェフの気まぐれ『怪獣からブルース・ウィリスまで』

 関西の小劇団『シアターシンクタンク万化』所属、『黒鉄ゾンビクィンテット』バンドマスター、高橋明文によるブログ。

芝居の感想を書いておく。

2008年07月09日 | 是くの如く我は言う

 もの凄く久方ぶりの更新。
 皆さんいかがお過ごしでしょうか?
 俺は元気です。

 先々週から立て続けに芝居を観に行った。
 今更ながら感想をば。

・『ルルドの森』
 バンタムクラスステージ
 阿倍野ロクソドンタにて


 よくもこれだけ様々な映画(「カル」「LAコンフィデンシャル」「キュア」「イノセンス」等)のシーンを切り貼りしたもんだと、嫌らしい見方をしつつも、大変楽しめる作品だった。

 以前の細川博司演出でならばエロス方向に発揮される露悪趣味が、血液、肉片、変死体と逆方向に突っ走っていたのが興味深い。

 前向きに生きる事や、「ナンバーワンにならなくていい、もともと特別なオンリーワン」みたいな事をヌルく語る表現が横行してる中、これだけ正面から「死」というテーマに切り込んで行く姿勢は、痛快ですらあった。

 一見、死に満ちた絶望的な物語だが、「不死者」である狂気のヒロインを見れば、その終幕は単なるバッドエンド以上に深く、誰にも平等に唐突にやってくるはずの「死」(それは誰にとってもオンリーワンだ)を受け止めて、瞬間を悔いなく「生きる」事を逆に訴えているようにも見受けられた。




・『しまうまの毛』
 突劇金魚
 シアトリカル應典院にて


 いかにも女性の書いた、女の子全開の作品。
 綺麗どころを取り揃えた女優陣は、観ていてつい口元が緩む。(各キャラクターの設定のエロさもある。)
 
 男の側から観て、女の子とはやはり、雲のようにつかみ所が無いのだ、ということを再確認出来たのは、とても良い事だ。

 ただ残念ながら、それ以上の発見が無い。

 関西で、女性の戯曲作家と云うと俺の場合、アグリーダックリングの樋口美由喜と月曜劇団の西川さやかを思い浮かべてしまうのだが、この二人の作品には同じく女性のつかみ所の無さが余す所無く表現されているが、と同時に何処かで女性の凄みを感じさせてくれる。
 雲は、ただぽっかりと空に浮かんでいると思ったら、雨を落とし雷を放ち、そして虹を連れて来ることがあると、彼女らは告げてくれるのだ。

 特に何が悪い、という舞台ではなかった。
 男性のメタファーとしての動物園(獣の入った檻。たまにペンギンみたいなカワイイものも入ってる。)と、最後にそこに入っていくシマウマのやり取りなどを見ると、「女にはやはり、男が必要なのだ。ニヤリ」などと、男としてのイヤったらしい優越感を刺激されて、気分が良くなるくらいだ。

 しかしそれでも、テンプルに一撃、フックが入ってくれればと願うのは贅沢なのだろうか?

 俺がもう少し若く、リストカッターやら同性愛者やら中毒者やら風俗嬢やらM女などとの付き合いが無く、もう少しマトモな性癖の持ち主だったら、評価はガラリと変わっていたかもしれない。




 画像は、細川博司監督「ヤリタイキモチ」出演時の俺。
 この直後くらいにヒドい殺され方をした。