11月12日(月)鈴木先生
日野富子
1440~1496年。 室町幕府8代将軍の正室(御台所。応仁の乱のとき、政治を意欲を失った義政に代わり、幕政に関与。実子の足利義尚を9代将軍に。
(1)日野富子のイメージ
①「応仁記」
富子が我が子義尚を将軍の後継者とすべく、山名宗全と結び、義視(義政弟)を推す細川勝元と対立→応仁の乱
富子が応仁の乱の元凶
②「応仁記」の問題点
「応仁記」は、応仁元年(1467年)の記述のみ(乱終結は1477年)
1467年8月には、義視は細川勝元を中心とした東軍から離脱し、山名宗全を中心とする西軍へ→記述なし
富子、義尚は一貫して細川勝元と行動を共に→「応仁記」は半世紀のちの創作とする見方
(2)足利義政の将軍就任まで
①「籤引き将軍」
②6代義教の恐怖政治
鎌倉府、守護大名、公家、寺院などすべての階層に弾圧
日野家の大弾圧
嘉吉の変(1441年)
③兄の早世と将軍就任
7代義勝(父義教、母日野重子、義政兄)早世(1443年)→弟義政(14歳)8代将軍に
(3)義政時代の政治(応仁の乱以前)
①義政執政の特質:1443~1449年 将軍不在期→管領による政治
1449年 義政、将軍に就任
1455年 日野富子、義政の正室となる
②飢饉:1459~1473年 不作、飢饉、疫病
義政、室町御所改築
③将軍後継者
1464年11月 弟義視を還俗させ養子に
1465年11月 富子に義尚誕生
(応仁の乱)
①幕府内の二大勢力の形成
管領である畠山・斯波氏
細川(管領)・山名氏(侍所長官)
②乱の勃発
1467年正月 畠山両派の衝突
5月 細川勝元派と山名宗全派の衝突
細川勝元派(東軍)対山名宗全派(西軍)
③乱の経過と富子の執政
1472年 戦意を喪失した細川勝元と山名宗全が内々で和平交渉←周囲の反対
1473年 山名宗全(70)、細川勝元死去(44)
義尚9代将軍に就任(9歳)
1474年 講和成立
1477年 富子、西軍の義統に1000貫文貸し付ける(或いは譲渡か)
→富子は財力で乱を最終的に終活させた
又、財力は乱で困窮した朝廷に対して多く使われた(天皇に居処を提供(内裏は戦火焼失)、内裏修理、多額の献金など)
→公家から感謝、執政したために財が集積し、また多額の財を政治に使う
④義政と富子のその後
将軍職は義尚に譲ったが、寺社統制権とそれに付随する外交貿易権は譲らず→貿易による莫大な富を掌握
1490年 義政死去→富子出家、政治の第一線から退く
(5)日本中世の女性
①女人政治
前関白、一条兼良→日野富子「小夜の寝覚め」(教養、修養の書)
②ルイス・フロイス「日欧文化比較」にみる日本の女性の独立性