ONCC 6期生「歴史と文学の魅力に迫る」摂津教室

魅力の若井先生・鈴木先生・斉藤先生に学ぶ特別講座

特別講座:斎王ー斎宮女御徹子女王ー

2018-11-15 | 日記

11月12日(月)午後 鈴木先生

(1)斎王とは

天皇にかわって伊勢神宮に奉仕した未婚の内親王あるいは女王

古代~中世半ば

天皇の代替わりごとにト定(ぼくじょう、占いにより選ばれること)

ト定から二年あまりののち、伊勢へ下向

 

伊勢斎宮寮

1、ト定から伊勢へ下向するまで

「延喜式」(10世紀初め)によると、

・ト定により斎王が定められる。

・勅使を斎王の家へ派遣。祓いをして寝殿の四面と内外の門に賢木を立てる

・宮中の一室を初斎院とし、斎王は禊ぎを済ませて初斎院に移り、約一年間の潔斎生活

・宮城外の清浄な地に野宮(ののみや、平安時代に入ると、野宮の場所は嵯峨野に固定される)を造営。斎王は再度禊ぎをして野宮に入り、更に一年あまり潔斎生活

・伊勢へ下向

2、斎王の歴史

・初代斎王:とよすきいりひめのみこと

・初めて伊勢に赴いた斎王:やまとひめのみこと

3,伊勢神宮と斎王

斎宮と伊勢神宮は10km以上離れており、斎王は1年に6日しか神宮に行かなかった。

→律令に規定された国家的祭祀があり、伊勢神宮の三大祭である9月の新嘗祭、6月・12月の月次祭での各2日(16日・17日)のみ

しかし、その祭りにおいても斎王ははじめにすこしでてくるだけで。祭祀に参加することよりも、伊勢神宮に斎王が来ることに大きな意味があったのでは?都を離れられない天皇の代理としての斎王の存在を示し、朝廷の権威をあらわすことが重要だった。

4、斎宮の日々

斎王は神へ祈りを捧げる他、都と変らない日常生活(具合わせをしたり、歌を詠んだり)。

5、帰京後の斎王

史料がほとんど残されていないため、よくわからない。

平安時代以降、内親王はほとんど結婚しなかった。

(2)源氏物語にみる斎王ー六条御息所と秋好中宮

六条御息所は光源氏の初恋の一人。大臣の娘として生まれ、皇太子妃となり、娘(秋好中宮)をもうけるが、若くして皇太子とは死別。

光源氏との恋に破れた御息所は、朱雀帝の斎宮となった娘とともに伊勢へ下った。斎宮を退下ののち、御息所は光源氏に娘の将来を託して死亡し、娘は光源氏の後見のもと冷泉帝の妃となった。

(3)斎宮女徹子女王

六条御息所と秋好中宮のモデルとなった実在の斎王 929~984年

936年、8歳で伊勢斎宮にト定

938年、10歳で伊勢へ群行

945年、母の死により17歳で退下、帰京

948年、20歳のときに村上帝へ入内。前斎宮であることから「斎宮女御」と称された。

 

 

 


第18回講座:日野富子

2018-11-15 | 日記

11月12日(月)鈴木先生

日野富子

1440~1496年。 室町幕府8代将軍の正室(御台所。応仁の乱のとき、政治を意欲を失った義政に代わり、幕政に関与。実子の足利義尚を9代将軍に。

(1)日野富子のイメージ

①「応仁記」

富子が我が子義尚を将軍の後継者とすべく、山名宗全と結び、義視(義政弟)を推す細川勝元と対立→応仁の乱

  富子が応仁の乱の元凶

②「応仁記」の問題点

「応仁記」は、応仁元年(1467年)の記述のみ(乱終結は1477年)

1467年8月には、義視は細川勝元を中心とした東軍から離脱し、山名宗全を中心とする西軍へ→記述なし

富子、義尚は一貫して細川勝元と行動を共に→「応仁記」は半世紀のちの創作とする見方

 

(2)足利義政の将軍就任まで

①「籤引き将軍」

②6代義教の恐怖政治

鎌倉府、守護大名、公家、寺院などすべての階層に弾圧

日野家の大弾圧

嘉吉の変(1441年)

③兄の早世と将軍就任

7代義勝(父義教、母日野重子、義政兄)早世(1443年)→弟義政(14歳)8代将軍に

(3)義政時代の政治(応仁の乱以前)

①義政執政の特質:1443~1449年 将軍不在期→管領による政治

1449年 義政、将軍に就任

1455年 日野富子、義政の正室となる

②飢饉:1459~1473年 不作、飢饉、疫病

義政、室町御所改築

③将軍後継者

1464年11月 弟義視を還俗させ養子に

1465年11月 富子に義尚誕生

(応仁の乱)

①幕府内の二大勢力の形成

管領である畠山・斯波氏

細川(管領)・山名氏(侍所長官)

②乱の勃発

1467年正月 畠山両派の衝突

     5月 細川勝元派と山名宗全派の衝突

細川勝元派(東軍)対山名宗全派(西軍)

 

③乱の経過と富子の執政

1472年 戦意を喪失した細川勝元と山名宗全が内々で和平交渉←周囲の反対

1473年 山名宗全(70)、細川勝元死去(44)

義尚9代将軍に就任(9歳)

1474年 講和成立

1477年 富子、西軍の義統に1000貫文貸し付ける(或いは譲渡か)

 →富子は財力で乱を最終的に終活させた

 又、財力は乱で困窮した朝廷に対して多く使われた(天皇に居処を提供(内裏は戦火焼失)、内裏修理、多額の献金など)

 →公家から感謝、執政したために財が集積し、また多額の財を政治に使う

④義政と富子のその後

将軍職は義尚に譲ったが、寺社統制権とそれに付随する外交貿易権は譲らず→貿易による莫大な富を掌握

1490年 義政死去→富子出家、政治の第一線から退く

(5)日本中世の女性

①女人政治

前関白、一条兼良→日野富子「小夜の寝覚め」(教養、修養の書)

②ルイス・フロイス「日欧文化比較」にみる日本の女性の独立性

 

 


第17回講座:足利尊氏と室町幕府

2018-11-08 | 日記

11月5日(月)若井先生

①足利尊氏(1305~1358年)

②足利家時(1260~1284年)の置文

 「我七代の孫に我生替りて天下を取るべし」

③後醍醐天皇の討幕運動と楠木正成

 正中の変、元弘の変(1331)天皇の笠置潜伏と楠木正成の登場

 天皇の隠岐は配流

 正成の奮戦

④鎌倉幕府の滅亡

 赤松円心の挙兵~尊氏(当時は高氏)の上洛~尊氏の反旗~六波羅陥落 鎌倉陥落、新田義貞

⑤建武政権での尊氏

⑥尊氏の反旗

 新政府内部の対立、後醍醐天皇と護良親王の対立

 尊氏の下向と謀反

京都での尊氏の敗北

尊氏、九州へ下向し、翌年東上

湊川の戦いと正成の自害

「太平記」桜井の別れ

  足利軍、海陸から進撃

  新田軍、神戸方向に移動、足利軍、和田岬に上陸

   楠木兄弟の自害

後醍醐天皇の比叡山避難

足利尊氏の入京

後醍醐天皇の投降

⑦尊氏と直義

 足利幕府の成立(1336年)

 尊氏の清水寺願文

 足利尊氏の政治構想

  建武式目(1336年)

 幕府の二頭政治

  尊氏:主従制的支配権  直義:統治権的支配権

⑧南北朝の内乱

⑨足利幕府内の対立

 尊氏と直義の争い

足利尊氏の死去(1558年)

 

 

足利尊氏と言われている人物像だが定かではない。

 

鎌倉幕府~南北朝時代に至る経緯、足利幕府の系図、後醍醐天皇の討幕と楠木正成、鎌倉幕府の滅亡、建武政権での尊氏~尊氏の反旗~足利幕府の成立と足利尊氏の政権構想、南北朝の内乱~足利幕府内の対立の一連を学んだ。

 

 


特別講座:東大寺と写経所

2018-11-04 | 日記

10月29日(月)午後 若井先生

①大仏造営の詔~大仏造営の経過

②正倉院文書~東大寺写経所の帳簿類

③奈良時代の写経事業を通して

帳簿類は多くは不要となった紙を利用して作成されており、その中には反古紙だけでなく各官庁から反古とて払い下げられたものもあり、当時の社会生活を垣間見ることが出来る。

正倉院展が開催中にちなんだテーマの講義でした。


第16回講座:北条時宗

2018-11-04 | 日記

10月29日(月)若井先生

①ユーラシアの変貌  モンゴル帝国の成立

②鎌倉幕府の変質  執権政治から時宗専制へ

③北条時宗(1251~1284)

 1264:連署に就任 執権は正村

 1266:将軍・宗尊親王の廃位と京都送還

 1268:執権に就任

 

④モンゴルの日本政策

⑤モンゴルの襲来

 文永の役(1272年)

 弘安の役(1281年)

モンゴル帝国の成立、鎌倉幕府の変質~北条時宗の専制、文永の役と戦後の対策、弘安の役~それ以降の鎌倉幕府の政局について学びました。