ONCC 6期生「歴史と文学の魅力に迫る」摂津教室

魅力の若井先生・鈴木先生・斉藤先生に学ぶ特別講座

ワインのふるさとを探訪

2018-09-20 | 日記

講義のない日、9月11日(火)自主的活動として、ワイナリーを総勢17名で訪ねました。柏原駅で待ち合わせ

ワイナリー目指して、

社長からブドウ酒の歴史やワイン作りのお話を聞く

目指すもの:ぶどうづくりがワインのいのち/先人に負けない情熱を持って/一本ずつ真心をこめて・・

ぶどう園で、数種のぶどうをテイスティング

三種類のワインの試飲

乾杯

試飲後、ワイナリー前で、集合写真 みなさん満足そう

各自お土産のぶどう、ブドウ酒、ジュースを購入して、帰途についた。充実の一日!

                                                                                                            


第13回講座:桓武天皇と平安遷都

2018-09-14 | 日記

9月10日(月)午後  若井先生                                                    6/18地震のために休講になった補講です。

①山部王(のち桓武天皇、737~806年)の前半生

②光仁天皇の即位

③桓武天皇の即位

④藤原種継の暗殺

⑤平安遷都 早良親王の怨霊問題と長岡京の放棄

⑥対蝦夷三十八年戦争

⑦怨霊対策

 

皇位を継ぐとは思われていなかった桓武天皇の即位の経緯、早良親王の怨霊問題と長岡京の放棄から平安遷都と怨霊対策さらに蝦夷遠征について学びました。

 

 


第12回講座:平清盛

2018-09-14 | 日記

9月10日(月)午前 若井先生

①伊勢平氏                                                           白河院政下で北面の武士としての登用  父は忠盛

②清盛の母                                                          もと白河法皇に仕えた女房で、忠盛の妻となった女性の可能性が高い。                               ※祇園女御説(平家物語)は疑問。                                                        ※祇園女御の妹で、祇園女御がその子清盛を猶子としたとする説(近江国胡宮神社文書)が有力

③保元の乱と平治の乱                                                     鳥羽院政下での派閥抗争                                                    宮廷の抗争が武力によって解決される。                                              乱後の政局                                                                                                                     

④清盛をめぐる女性たち                                                    *平時子(清盛の正室)                                                       *平滋子(時子の妹)                                                     *平盛子(清盛んの娘)

⑤清盛と後白河                                                        後白河院と平清盛の協力関係                                                      後白河院と清盛の対立表面化→鹿ケ谷の陰謀事件 

⑥内乱の開始と平氏政権の崩壊

清盛の人間像~清盛をめぐる女性たち(時子・滋子・盛子)や保元の乱/平治の乱を学び、後白河院との関係、源氏の蜂起と平氏政権の崩壊を学びました。

                                                                                      


第11回講座:藤原道長

2018-09-04 | 日記

9月3日(月)鈴木先生

藤原道長

平安時代中期の政治家。摂関政治の全盛期をきずき、貴族の頂点に君臨して栄華を誇った。3人の娘が中宮(皇后)となり、娘に生まれた3人の皇子がそれぞれ天皇となった。

 

平安貴族

 

官職任命の凄まじさ

摂関政治と当時の婚姻(婿取婚)

摂関政治:藤原氏が摂政や関白の職を独占し、天皇の政治の代行あるいは補佐を行い、政治の実権を握った。                *摂政(幼少の天皇の政治を代行)                                               *関白(成人の天皇の政治を補佐)  

摂関となる条件:娘を天皇に嫁がせ、生まれた皇子を天皇のくらいにつけ、天皇の外戚(母方の親戚)となること。外戚でない摂関も存在したが、それらは「ヨソ人」とよばれた。                                              

道長関係図   

 

道長の生い立ち                                                        藤原兼家の5男として966年誕生(父兼家は38歳でまだ公卿にもなっていない)。同母の兄に道隆、道兼、同母の姉に超子、詮子。

*若き日の道長のエピソード                                                  ・父兼家が息子たちを集め、幼少のころから秀才のほまれ高い公任(従兄弟の長男)をほめ、「我が子には公任の影さえ踏めそうもないな」 といったところ、しょげかえった息子たちのなかで、道長だけが「影など踏むものか、面をふんでやる」といった。(「大鏡」)

・五月雨のひどく降る何となくいやな感じのする夜、花山天皇は、宮中で管弦の遊びを行い、その後、道長兄弟に肝試しをしようと持ちかけた。道隆は豊楽院、道兼は仁寿殿の塗籠、道長は大極殿へ行けと命じられた。兄たちは恐ろしさのあまり途中で戻ってきてしまったが、道長は大極殿の高御座の柱の下のところを削って証拠として持ち帰った。(「大鏡」)

                                                                                                            道長の絶頂期

道長 歌を詠む:この世をば我が世とぞ思う望月の・・・

 

 

道長の浄土信仰と死  

1027年 62歳                                                            自身が建立した法成寺の阿弥陀堂で生涯を終えた。