omasicoの心も体も健康に

タイトルと内容を変更しました。一緒に心も体も健康になりませんか。

降誕節のための聖歌練習

2005年11月28日 | その他聖歌練習
上田教会聖歌奉仕グループ
N C C
降誕節のための聖歌練習の 


 上田教会聖歌奉仕グループNCCでは、
 12月23日 金曜日  10:00~15:00
 降誕祭と降誕節の聖歌の準備のための練習を行います。場所は
 カトリック上田教会聖堂

主な練習曲目

203~206 ミサ賛歌
    305 やみに住む民は光を見た
148/149 遠く地の果てまで
    372 救い主を育てた母
    805 アシジの聖フランシスコによる「平和の祈り」
    367 賛美の賛歌(テ・デウム)
     55 神の み旨を行うことは
    136 すべての王は
   カ111 しずけき(ドイツ語&日本語)
   カ113 来たれ友よ(日本語)


【持ち物】
『典礼聖歌』、『カトリック聖歌集』、昼食


【お知らせ】
 11:40から昼の祈り」(「教会の祈り」)を共唱して祈ります。式次第は用意します。
 12:00~13:00 昼食
 参加費などは不要です。どなたでも、お気軽にご参加ください。
 お問い合わせ、詳しいことをお尋ねの方は『典礼聖歌研究工房アトリエおおましこ』の「メールフォーム」からメールをお送りください。

『神とともにある生活』(新刊紹介)

2005年11月26日 | 全ブログ共通
 以前、わたくしの友人で、神学部の先輩である、宮越俊光氏の『早わかりキリスト教』を紹介しましたが、11月30日付で、やはり、神学部の大学院の先輩で、神学博士の石井祥裕氏による新刊
『神とともにある生活』
が、パピルスあいから発売されます。そこで、この新刊について、ご紹介したいと思います。

 この『神とともにある生活』は、「カトリック生活」(ドンボスコ社)に連載された記事を中心に、そのほかの記事も加えてまとめられたものです(あとがきより)。石井氏は、一貫して、信徒・会衆の一人としての立場から、典礼を単に儀式・祭儀ではなく、生活に密着させたもの、著者のことばを用いれば、「ライフスタイルとしてのキリスト教」「キリスト教を生活の様式としてとらえ」ようとしています。
 本来、キリスト教=信仰生活は、神学的な議論や法的規定が先にあったわけではありません。氏が指摘しているように、「教会の実践は、神学上の議論よりもはるかに広く、かつ、生きたものなのです。ある実践形態が神学や典礼上の問題として浮かび上がるかどうかは、教会の置かれた状況によっているのです」(同書51ページ)。
 
 PART1は「入信のミステリー-キリスト者となるプロセス」を、イエスの洗礼にまで遡り、古代教会の実践なども十分に考察し、洗礼-堅信-聖体という入信の三秘跡を、いかに共同体として豊かな体験にするかを主眼にとらえています。
 PART2の「神の民のまつり-一年のめぐりの中で」は、氏が研究課題ともされている、聖書朗読に焦点を当てながら、教会の典礼暦を振り返り、オーストリア留学中の体験も踏まえて、典礼を生活に密着したものにできるかを考えています。
 PART3「展望-キリスト教の未来を開くために」は、本書のまとめというよりも、氏の研究と実践の集約とも言うべきもので、過去二千年の教会と典礼を反省し、これからの教会と典礼への助言となっています。

 第二バチカン公会議以後の典礼については、とかく解釈が分かれますが、氏も冒頭で書かれているように、「以前は信者が儀式の主要部分を担うことが少なかったものを、信者が積極的に分担し、参加するという、教会の歴史からすれば、本来の形に立ち返った、共同体的な礼拝行為の正確を明確化したところに特徴があります。」この『神とともにある生活』は、平易な文章で書かれ、一項目も短いものですが、『聖書』と古代教会の資料に基づいた=それはまた、教会の歴史と伝統の本質に遡り、反省し、踏まえており、教会の典礼の実践の歴史の豊かさと深さを伝えてくれています。
 前教皇ヨハネ・パウロ二世の広島での『平和アピール』に「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです」という一句があります。これからの典礼を考えるとき、この数百年の出来事や、現代の法的規制にだけとらわれると、教会の典礼の伝統の本質を見失う恐れがあります。教会の実践と伝統の本質である、『聖書』と古代教会の歴史までを振り返ることこそ、典礼をわたしたちの生活そのものにするためにもっとも大切なことです。
 その意味でも、教会の実践と伝統の本質である、『聖書』と古代教会の歴史から典礼を省察した、この『神とともにある生活』は、典礼・信仰を生活そのものにするための、よい道案内をしてくれる座右の書ということができます。

 

練習よりも

2005年11月24日 | 通常練習
 今日はなんと、この田舎の教会にもお客様がいらっしゃいました。この10月に東京のとある教会で結婚された、T夫妻が、新婚旅行をかねて出かけられた、名古屋方面から、わざわざ、この上田教会に立ち寄ってくださったのです。
 
 で、メンバーの皆さんは、なんとわたくしよりも早く来て、準備に取り掛かっていたのです。といっても練習のではなく、お昼のです。

 9時半ちょっと前、一目で分かるが来られて、まずはごあいさつ。準備も整ったところで、いよいよ練習に入ります。
 いつものとおり、体操352「聖霊の続唱」を歌い、まずは答唱詩編から順番にこなします。前回とは違い、事前に分かっているお客様のせいか、今日は皆さん上場の出来で、なんとなく張り切っているというか、取り付かれたというか。
 ただ、いつも一緒でない人がいるので、やはりその分、ピシッと合わないところもあるにはありました。
 次の主日を終えると、今日の「昼の祈り」の賛歌で歌う346「勝利と力は神のもの」をおさらいし、その後はT夫妻のリクエストにお応えして、ミサ賛歌1=203~206を練習しました。一回目はタクトで、二回目は実際のミサと同じようにオルガン伴奏で行いましたが、感想を伺うと、「わたしたちの教会では、このテンポでは歌えないし、だんだん遅くなってゆきます」とのことでした。このところ、聖歌の練習もしておられないとのことで、ま「さもありなんところです。
 これからは、若いご夫妻にリードしてもらえると良いのですが

 最後は、わたくしたちからのお二人に、聖歌のプレゼント!結婚式で歌いたかったけど歌えなかった
367「賛美の賛歌」
を全員で歌いました。

 この後は、「昼の祈り」を早めに済ませ、皆さんが用意したお昼です。ま、トン汁、お赤飯、漬物、くだもの、とたくさんあることあること。果たして食べ切れたのでしょうか。
 というのも、今日は、二女の小学校の入学準備の「発達検査」なるものがあり、わたくしと家内は、途中で帰らなければならなかったのです。
 朝早くからきて、準備してくださったメンバーの皆さんご苦労様でした。そして、わざわざここまできてくださったT夫妻、本当にありがとう!。これからも、機会があったら、上田に足を運んでくださいね。皆で待っています

 来週は、いつもどおりの練習です。「やまとのささげうた」ばっちりやりますよ

茅ヶ崎教会堅信式準備

2005年11月21日 | その他聖歌練習
 20日の主日は「王であるキリスト」の祭日で、典礼暦では、一年の締めくくりの主日でしたが、この日は、家内の実家の地元、茅ヶ崎教会聖歌隊の練習に呼ばれ、朝一番の新幹線で出かけました。一番の「あさま500号」は上田6:13分発。家から駅までは車で約30分。着替えやら、朝食のお弁当の準備やらで、起きたのは4時45分。まだ、空は暗く、が瞬いていました。上田から東京まで約1時間30分、東京での乗換えが10分、茅ヶ崎駅に着くのは8時50分の予定ですが、さすがに日本の国鉄JRは正確で、すべて予定通りに行きました。茅ヶ崎では世話役のYさんが待っていてくれて、で教会へ向かいます。といってもわずか3分ですが、集会祭儀の開始は9時なので貴重な時間です。
 茅ヶ崎教会が所属する横浜教区の第6地区では、各教会が持ち回りのような格好で、おおよそ月に1回、ミサが行われず、「司祭不在の主日の集会祭儀」が行われており、ちょうどこの日が茅ヶ崎教会は集会祭儀の日となっていたのです。
 で、正確なのおかげで集会祭儀に間に合ったので、結局、オルガンを弾くことになりましたが、伝えられたのがの直前!もう、楽譜を見る暇もありませんでした。ミサと違い、集会祭儀は短いので、エンジンがかかる前に終わってしまったような感じでした。

 「司祭不在の主日の集会祭儀」が終わって、しばしタイム。その間を利用して、教会の売店「散歩道」を物色。ちょうど、去年のクリスマスカードが破格の値段で出ていたので、お土産にしました。

 当初、練習は、10時10分からの予定でしたが、次回の集会祭儀打ち合わせが延びて、約20分遅れで開始です。堅信式は来週ですから、当日の式の順番で練習してゆきます。茅ヶ崎の聖歌隊も、ときどきですが、かなり念入りに練習するので、基本的なところは心得ているますから、大きな注意点はほとんどありません。しかし、細かいところとなると、やはり1曲に、答唱形式の歌だと1~2箇所、長い曲になると数箇所出てきますので、それなりの時間がかかります。
 入祭の歌から平和の賛歌まで、行ったところで、小休止。その後は、フランクの "Panis angelicus" と「キリストの平和」「わたしをお使いください」といった、『典礼聖歌』以外も練習。フランクの "Panis angelicus"は、実はわたしもなのですが、音は難しくないので、何とかこなせましたが、また、折をみて練習することにしました。
 締めくくりは、叙唱以降の対話。普段、茅ヶ崎教会では、歌唱ミサをしていないので、ちょっと不安がありました。ま、それでも、基本的に大きな難点はありませんでした。後は、もう、当日のを期待するのみです。

 練習後は、Yさん宅へ、伺い、奥様の手作りのとんかつをご馳走になりました。そのあと、買い替えの準備中のオルガンの話しをして、午後4時過ぎに辻堂までで送っていただき、帰途に着きました。 

緊張気味?

2005年11月18日 | 通常練習
 今年の典礼暦年も、いよいよ10日を残すところとなりました。県の北部では初の便りもあり、練習中は、聖堂のストーブも消せなくなってきました。

 来週は「王であるキリスト」の祭日で、終末ということもあり、今週と重なるものもありました  346「勝利と力は神のもの」。

 今回、たまたま、月に1回上田へ用事でいらっしゃる方が、飛び入りで参加されました。「あまり、歌は得意ではない」とおっしゃっていましたが、熱心に話にも聞き入ってくださり、真剣に楽譜をご覧になっておられました。
 そのせいかどうかわかりませんが、メンバーのひとりに言わせると、「結構みんな緊張していたみたい」だそうです。それでも、来週の予習の方は上々で、わたくしがいなくても安心して留守を任せられそうです。
 ただ、心配なのは 206「平和の賛歌」で、練習では「世の罪除きたもう主よ」の四分音符がきちんと歌えるのですが、肝心のミサの時になると「世の罪をー」とのびてしまうのです。これが、毎回きちんとできるようにならないと、やっぱり、祈りが深まらないのです。ついてしまった悪い癖を取るのは、なかなか大変です

 来週は、東京から新婚旅行をかねて、お客さんがいらっしゃり、練習にも参加したくださるそうなので、そのリハーサルとして、最後は
  367「賛美の賛歌
をおさらいしました。こちらは、早くもなく、かといって、だらだらでもなく、なかなか良い祈りとなっていましたので、来週もこの調子でできれば、喜んでいただけるかもしれません。 

 そういったわけで、来週は、の時間をたっぷりとって、新婚のT夫妻のパーティーを練習後にする予定でいます
 もちろん、練習の手は抜きませんので、皆さん、心して参加してください。 
 
 

待降節および降誕節の聖歌予定(上田教会)

2005年11月17日 | 聖歌予定
【お知らせ】
 待降節から降誕節にかけての聖歌の予定が決まりましたので、お知らせします。
12月のミサは11時から、1月は9時からです。
  1. なお、答唱詩編とアレルヤ唱は『朗読聖書』で決まっていますので、ここには掲載いたしません。

  2. ミサの式次第は「集会祈願」以降、基本的に201/202です。

  3. 「信仰宣言」は断りのない限り251です。

  4. 「平」=『平和を祈ろう』、「カ」=『カトリック聖歌集』、断りのないものは『典礼聖歌』


12月 4日〔待降節第2主日(こどもとともにささげるミサ)
入祭の歌=平 43  「神さまといつもいっしょ」
ミサ賛歌=   215~217(栄光の賛歌はナシ)
奉納の歌=平 62  「緑の牧場に」
会食の歌=平 52  「主に愛されて」
派遣の歌=平 58  「感謝しようすべて」

12月11日〔待降節第3主日
入祭の歌= 301  「天よ露をしたたらせ」
ミサ賛歌=  203~206(栄光の賛歌はナシ)
奉納の歌= 177  「わたしの心は神のうちに喜ぶ」
会食の歌= 165  「喜びにこころをはずませ」
派遣の歌=カ103  「あわれみの神(A)」

12月18日〔待降節第4主日
入祭の歌= 301  「天よ露をしたたらせ」
ミサ賛歌=  203~206(栄光の賛歌はナシ)
奉納の歌= 167  「わがこころ喜びに」
会食の歌=  55  「神の み旨を行うことは」
派遣の歌= 372  「救い主を育てた母」

主の降誕・夜半のミサ
入祭の歌= 305  「やみに住む民は光を見た」
ミサ賛歌=  203~206
奉納の歌=  55  「神の み旨を行うことは」
会食の歌= 165  「喜びにこころをはずませ」  カ111 「しずけき」
派遣の歌= 372  「救い主を育てた母」

主の降誕・日中のミサ
入祭の歌= 305  「やみに住む民は光を見た」
ミサ賛歌=  203~206
奉納の歌= 131  「主をたたえよう」
会食の歌= 165  「喜びにこころをはずませ」  カ113 「来たれ友よ」
派遣の歌= 367  「賛美の賛歌」(このミサが年内最後の主日のミサです。一年の感謝を込めて歌いましょう)

神の母 聖マリア
入祭の歌= 372  「救い主を育てた母」
ミサ賛歌=  203~206
奉納の歌=  99  「しあわせな人」
会食の歌= 149  「遠く地の果てまで」 
派遣の歌= 805  「アシジの聖フランシスコによる『平和の祈り』」

主の公現
入祭の歌= 305  「やみに住む民は光を見た」
ミサ賛歌=  203~206
奉納の歌= 155  「めざめよエルサレム」
会食の歌=  20  「いのちあるすべてのものは」  
派遣の歌=カ113  「来たれ友よ」





聖書三部作(共通企画)

2005年11月11日 | 全ブログ共通
聖書カンタータ三部作
『イザヤの預言』
『預言書による争いと平和』
『ヨハネによる福音』

 今回は、これら聖書カンタータ三部作精神と手法について記述したいと思います。これら聖書カンタータ三部作には、いずれにも
ピアノ伴奏の場合には「混声合唱とピアノのための」
オーケストラ伴奏の場合には「混声合唱と管弦楽のための」
という表題がついています。このことから、これら聖書カンタータ三部作は、単なる合唱曲ではなく、ピアノやオーケストラなどの楽器の部分にも、テキストに関連したメッセージが語られていることが分かります。多くの場合は、ピアノの伴奏で演奏されますが、ピアニストの方も、これらのテキストが語ろうとすることを、ぜひ学んでいただきたいと思います

 さて、これらの曲を歌ったこと、あるいは、棒を振ったことのある方は分かると思いますが、これらの曲の合唱の部分には、シンコペーションが全く用いられていません。実は、作曲者高田三郎氏の『典礼聖歌』でも、シンコペーションは全く使われていません。これは、『典礼聖歌』で、その手法と精神を取り入れたグレゴリオ聖歌の場合、「切分音というものは落ち着きがなく、祈りの音楽としてふさわしくないため、ソレム唱法では避けられて」(『典礼聖歌を作曲して』191ページ)いるからです。ですから、このことから考えられることは、これら聖書カンタータ三部作は、単なる合唱曲ではなく、合唱曲という音楽形式を使った「祈り」であるということです。これらの曲が、「祈り」としてふさわしく歌われ、人々のこころを揺り動かすときには、聖霊がその人々の口を通して働いていると言えるでしょう。

 さて、高田三郎作曲の『典礼聖歌』も多くの合唱曲も、小節線の後は、いわゆる強拍ではなくテージス(休息)、小節線の前のアウフタクトは、弱拍ではなくアルシス(飛躍)です。これらについて、よくたとえられるのは、ゴムボールを上に投げ上げて、一番高いところに上がったときがアルシス(飛躍)、手に戻ってきたときがテージス(休息)といわれます。
 これでは、よく分からないかもしれませんので、他にいくつかのたとえをあげたいと思います。ひとつは、回転木馬(メリーゴーランド)の木馬が、一番高く上がったときがアルシス(飛躍)、一番下がったときがテージス(休息)、水の上に石を跳ねさせたとき、一番高く跳ね上がったときがアルシス(飛躍)、水の上で跳ねたときがと考えればよいでしょうか。英語では、強拍をダウン・ビート、弱拍をアップ・ビートと言いますが、この、ダウンとアップが、まさに飛躍休息をよりよく表していると言えるでしょう。
 この手法は、高田氏が日本語を生かすものとして、自らの合唱曲の作曲に取り入れたものですが、日本の民謡の伝統からもふさわしいものです。
 
 これについては、服部龍太郎氏が、著書『日本の民謡』(角川新書186)の中で次のように指摘しています。「日本の民謡を観察すると、ほとんどがいつの場合でもアクセントの弱い音からうたいだし、第二音になってようやくアクセントを強めるということをしている。すなわち、弱起のかたちをとっているのであって、これは、日本語のアクセントにふかいつながりがあるものとおもわれる。この一事は音楽にたずさわるひとはもちろんのこと、音楽に関係のない日本人でもよくこころにとめておいてもらいたいことである。日本民謡がアップ・ビートの弱拍からはじまるということはじつに徹底したものであって、百曲中の九十曲中まではそうである。」(同書206-207ページ)つまり、日本の伝統音楽のひとつ民謡では、アウフタクトから歌い始めるのが一般的だということです。これは、高田氏の『典礼聖歌』でも全く同様で、この点で、高田三郎氏の作曲は日本の音楽の伝統を踏襲していると言えるのです。
 ちなみに、日本の音楽がこの伝統から逸脱したのは、服部氏の指摘によれば、明治以降であり、「日本人自身が唄のうえではアクセントについてあまりにも無頓着であり、あまりにも大きいあやまりをおかしてきたことは、明治以来の小学唱歌とか軍歌を見ればよくわかるのである。」(同書211ページ)と指摘しています。そして、山田耕筰氏の作曲を上げ、「いずれも弱起からうたいだすようになっている。日本語の微妙なアクセントを音に生かそうとするならば、当然こうなるわけである。民謡はとっくのむかしから実行していることであるのに、その民謡をうたっている日本人の作曲家がこういうことを無視していたまでのことである。民謡が教え、民謡が暗示するところのものはじつに大きいといわなければならない。」(同書213ページ)と、日本の作曲家の日本語の作品について批評しています。
 実際に、これら聖書カンタータ三部作や高田氏の合唱曲はもちろん、『典礼聖歌』を歌っていても、全く、自然に日本語が生かされていることが分かると思います。

 このように、聖書カンタータ三部作は、『典礼聖歌』と同様に、日本の音楽の伝統グレゴリオ聖歌の伝統を取り入れて生かした「祈り」の歌なのです。

 
 

一週間ぶり

2005年11月10日 | 通常練習
 先週の木曜日、3日は文化の日でお休みしたので、今日は一週間ぶりの練習となりました。今朝はた せいもあって、さすがにで、練習前から聖堂の暖房を入れました。
 一週間ぶりとあって、最初の練習曲、来週の答唱詩編103しあわせな人(2)」は、なかなか出だしの「しあせな」が合いませんでした。3曲目の411わたしは門の外に立ち」で、ようやくいつものとおりになってきました。この曲のように、動きがあり、同声2部で三度音程が多いのもだと、結構さまになるのですが、「しあわせな人(2)」や、137すべての人の救いを」のように同じ音が続いて動きが少ないものは、楽譜では簡単に見えるのですが、実際に祈りを深めようとするとなかなか難しいものなのです。

 さて、次は127主をおそれるものに」ですが、詩編唱が、普段の答唱詩編と違うので、うまく音が取れません。グレゴリオ聖歌の詩編唱と同じように詩編唱の最後で音が動くものは、日本語のイントネーションに合わないことがあり、なかなかなじみません。

 教会の典礼暦は終末主日なので、13日の派遣の歌は、346勝利と力は神のもの」です。この、曲を最初に練習したときは、ハプニングがあって、2番の「いま、花嫁は」のところを「今は、なよめは」と歌ってしまったのです。楽譜の下に書いてあるのは、ほとんどが平仮名なので、こういうことが起こります。ま、そんなこともあって、この曲は大変印象が強く、その分しっかりと歌えます。特に、四回ある「アレルヤ」をだんだんとリタルダントさせるのは、しっかりとできるようになりました。この日の、「昼の祈り」の賛歌も、この、346勝利と力は神のもの」を歌いました。
 
 その後は、待降節が近いこともあって372救い主を育てた母」と301天よ露をしたたらせ」の二曲をひととおりおさらいしました。これには、もうひとつ理由があって、24日の練習には、東京の築地教会からお客さまがあるので、あまりにも、へたくそな状態で、お招きするわけにもいかないので、少し早めに練習をした次第です。

 来週は、そのお客様を迎えるためと、主の降誕の日中のミサ=今年最後の感謝の歌としてうたう、賛美の賛歌をしっかりとやりたいと思います。 

 

今日はミサから

2005年11月07日 | 長野聖歌隊
 11月最初の主日、6日は、長野教会の聖歌隊の練習が入り、11時のミサから長野教会へ出向きました。聖堂へ入るとき「こちらの前の方が空いていますから」と案内されて、進んだのが、ちょうどオルガンの後ろの席でした。オルガニストの様子も、その向こうの聖歌隊の面々も、とてもよく見える席です。ミサの間はつとめて下のパートを歌いました。
 
 ミサ後、聖歌隊のミーティングが終わり、いよいよ練習開始です。が、2時半から「英語ミサ」が聖堂であるので、「答唱詩編」を一曲終わると1回のホールへ移動。さらに、2時過ぎまでホールで行われていた「ミニバザー」の片付けをするので、またまた、休憩と、なかなか落ち着きません。

 休憩に入ると今日のオルガンを担当したTさんが開口一番、「先生がすぐ後ろにいたので、心臓が口から飛び出るほど緊張しました」との弁。そんなに緊張しているようには見えなかったのですが

 休憩の後は、「ミサ賛歌」215~217をさらいましたが、「平和の賛歌」が今ひとつ。一所懸命に歌ってはいるのですが、肝心のところが抜けてます。どこかというと祭壇の上におられるキリストに向かって呼びかけることこそ、この賛歌の意義なのです
 で、このことを注意すると、とたんに祈り方が変わりました。特に、「われらに平安を与えたまえ」は、こころからの平安の祈りになりました

 練習というのは、そのために、すなわち、ミサで本当に深い祈りとするために厳しく行うのです。わたくしも、練習の時は、細かいところまで、いろいろと注意しますが、ミサの時は一切、口は出しません。実は今日も、いろいろと気になったところもあったのですが、皆さん、心から祈っているのが伝わってきたので、じっと席で見守っていました
 「答唱詩編」を先唱したYさんも一箇所歌い間違え、首をかしげていたのですが、後でそれを指摘したりする人はいなかったと思います。わたくしも同じです。なぜならば、Yさんは、神と皆さんのために、心から祈っておられたからです。それが、演奏会で「ミサ曲」を歌うのと、ミサで歌うとの違いなのではないでしょうか。

 高田三郎先生が、『典礼聖歌を作曲して』の中で、「わざとでなければ間違えても、変な声でもよいが、こころから歌わなければ零点の場なのだ」というのは、こういうことなのです。
 今日は、皆さんもわたくしも、そのことをよく分かったミサと練習だったと思います