帰ってきたスタンドバイミー

~あいつとあいつの青春慕情~

一人暮らしをしていた頃を考える

2006年01月31日 | Weblog

 先日、一年半に及ぶ一人暮らしと別れを告げました。
 なんで一人暮らしをやめたかというと、これは誰にも言っていないのだけれど、実はあの401号室は魔の部屋だったんです。あそこにいるとバイタリティ(生命力)が吸われてしまうということがやっとわかりました。僕のこの一年間の暮らしぶりをみていた人なら、僕がどれほどひどい状況にあったかがわかると思います。
 もう少しで死ぬところでした。危ないところだった。

バトンを考える

2006年01月29日 | Weblog

乙部「今日はバトンの仕事が回ってきております。お答えください。」

堀江「うむ。」

乙部「好きなタイプを外見で答えてください。」

堀江「外資。」

乙部「年下が好き?年上が好き?」

堀江「株式分割による株価の下落。」

乙部「タイプの芸能人は?」

堀江「宮内。」

乙部「恋人になったらこれだけはして欲しい、これだけはして欲しくないという条件をあげて下さい。」

堀江「して欲しいことはM&A。してほしくないことは粉飾決算。」

乙部「今までの恋愛経験の中で、この人はタイプだったなという人とのエピソードは?」

堀江「ニッポン放送。彼女を通じて彼女の友達(フジ)に近づいた。結構貞操緩かった。」

乙部「よくはまってしまうタイプをあげてください。」

堀江「単に株が安いだけの企業。」

乙部「あなたを好きになってくれる人はぶっちゃけどんなタイプ?」

堀江「武部幹事長。」
 
乙部「どっちのタイプかで答えて下さい。
   甘えるほう?甘えられる方? 」

堀江「1円企業。」

乙部「尽くす?」

堀江「尽きないマネー。」

乙部「嫉妬する?」

堀江「三木谷には。」

乙部「最後にバトンを渡したい人を5~10人でお願いします。」

堀江「まずは検察官。そして孫正義、あとサイバーエージェントの藤田君。あ、経団連の奥田会長も忘れないで欲しい。」


ボビー・オロゴンを考える

2006年01月25日 | Weblog
ボビーが今日所属事務所で大暴れしたらしい。これだけでもけっこうおもしろい出来事なのだが、たまたま居合わせた鈴木宗男の元秘書のムルアカがとめに入ったというのだからおもしろさが倍増する。二人が殴り合っている姿を想像してみよう…どうせなら大晦日にやってくれればよかったのに。曙と戦うよりも視聴率がとれたのではないだろうか。
それにしても変な日本語を使ってウケているボビーなんだけれども、本当に日本語が下手なんだろうか。かつて私はチューヤンが実は日本語がペラペラらしいという噂を聞いてショックをうけたことがある。外国人タレントという立場上、あんまりうまく日本語を話してはいけないのだろうか。たしかにお茶の間は日本語がペラペラなボビーを求めてはいないだろう。彼は世間に求められている変な日本語を使うわけのわからないアフリカ人というボビー・オロゴン像をしっかりと演じなければならない。チューヤンもきっとそうだったのだろう。ただデーブ・スペクターの日本語は私よりもうまいかもしれない。


追記・男女の友情を考える

2006年01月23日 | Weblog

 我々は立場を異にすると友達関係にはもうなれない。年齢が同じでも学年が違えばそれはもう先輩と後輩の関係に終始することになるし、どれだけ川島なお美がペットの犬に擬人化した扱いをしようともやはり彼らは主人とペットである。もちろん例外はありうるが、津々浦々往々にしてやはりそうであろう。では人類普遍のテーマである男と女の関係、生得的に立場の異なるこの両者、はたしてその間に友情は存在するのであろうか。

 突然だが、この疑問を解決するキーワードはずばり『乳首』である。またか、という声が聞こえてきそうである。うん、確かに我々は何か問題が起きたとき乳首に頼りすぎる傾向がある。なんだかんだで結局乳首、貧困解決ほら乳首、環境問題そりゃ乳首、戦争勃発また乳首、きっと語尾さえもう乳首、乳首乳首でメランコリーである。しかし今回のこの男女の友情問題は乳首の助けなしには解決出来ないのである。もっと言えば乳首さえ挙げればもう解決してしまうのである。「でもまた乳首は・・・」なんて、そんなに怒らないで欲しい。誰にだって2,3個あるものなんだから、1回くらい使わせてくれるのが優しさってもんである。

 結局友達かどうかの一つの指標は「乳首を見せられるかどうか」なのである。もちろん“友達”であることを定義するにはそれ以外にも様々な要素が必要である。そう軽々しく言えたものではないことはチビッ子のみんなも百も承知であるはずである。それは気兼ねなく話せることであるとか、時間を共有していても疲れないことであるとか、様々にある。こういったことは当然男女間でもクリアすることが出来る。しかしそれではまだ男から見て『女友達』であり、女から見て『男友達』であり、つまり性別を定義した上での友達である。「3泊4日の旅行に友達といった」のなら市民権は得られるが、「3泊4日の旅行に男友達といった」では周囲から「マジで!?やばくなくなくない?」という評価をされるのは火を来て・見て・触るよりも明らかである。

 そう、やはり男女間で女性は乳首を見せられない。どれだけ仲が良かろうとも乳首は不可能である。本当に友達同士ならば目の前で着替えようとも、多少何かがポロリとこぼれようとも平気であるはずである。しかし仮に女が友達だと定義していた男の前で着替えしようとし、フランクにブラ的なものをはずしたら、男は普段同姓の乳首になど見向きもしないが、この場合彼は性的ブラックホールに吸い込まれ、乳首凝視のスタートを切り、興奮さながら訳も分からず「いいんだね?」的な言葉を吐くこと間違いなしである。

 男女間には常に性的な事柄が挟まる。公衆の面前、同姓の友達同士で尻を触りあっていたら“笑い”として成立するが、それが男と女で触りあっていたとしたら一切笑えないのもその一例である。そして性的なものが介入する以上やはり男女間に友情は成立し得ない。軽々しく仲の良い男を友達と呼ぶ女性の皆さんは、はたしてそいつの前で堂々と乳首を披露出来るのか考えて欲しい。


男女の友情を考える

2006年01月21日 | Weblog

男女の友情について考えてみたいと思います。
ありえません。人間は動物です。ちん○とまん○の間には友情は芽生えません。仲のいい友達とかいってやってしまったとかはよくある話です。きれいごと言うんじゃないよ。おめぇは汚いんだよ。ただ、ホモとレズとかとなると話は別なんじゃないかと思います。