帰ってきたスタンドバイミー

~あいつとあいつの青春慕情~

追記・男女の友情を考える

2006年01月23日 | Weblog

 我々は立場を異にすると友達関係にはもうなれない。年齢が同じでも学年が違えばそれはもう先輩と後輩の関係に終始することになるし、どれだけ川島なお美がペットの犬に擬人化した扱いをしようともやはり彼らは主人とペットである。もちろん例外はありうるが、津々浦々往々にしてやはりそうであろう。では人類普遍のテーマである男と女の関係、生得的に立場の異なるこの両者、はたしてその間に友情は存在するのであろうか。

 突然だが、この疑問を解決するキーワードはずばり『乳首』である。またか、という声が聞こえてきそうである。うん、確かに我々は何か問題が起きたとき乳首に頼りすぎる傾向がある。なんだかんだで結局乳首、貧困解決ほら乳首、環境問題そりゃ乳首、戦争勃発また乳首、きっと語尾さえもう乳首、乳首乳首でメランコリーである。しかし今回のこの男女の友情問題は乳首の助けなしには解決出来ないのである。もっと言えば乳首さえ挙げればもう解決してしまうのである。「でもまた乳首は・・・」なんて、そんなに怒らないで欲しい。誰にだって2,3個あるものなんだから、1回くらい使わせてくれるのが優しさってもんである。

 結局友達かどうかの一つの指標は「乳首を見せられるかどうか」なのである。もちろん“友達”であることを定義するにはそれ以外にも様々な要素が必要である。そう軽々しく言えたものではないことはチビッ子のみんなも百も承知であるはずである。それは気兼ねなく話せることであるとか、時間を共有していても疲れないことであるとか、様々にある。こういったことは当然男女間でもクリアすることが出来る。しかしそれではまだ男から見て『女友達』であり、女から見て『男友達』であり、つまり性別を定義した上での友達である。「3泊4日の旅行に友達といった」のなら市民権は得られるが、「3泊4日の旅行に男友達といった」では周囲から「マジで!?やばくなくなくない?」という評価をされるのは火を来て・見て・触るよりも明らかである。

 そう、やはり男女間で女性は乳首を見せられない。どれだけ仲が良かろうとも乳首は不可能である。本当に友達同士ならば目の前で着替えようとも、多少何かがポロリとこぼれようとも平気であるはずである。しかし仮に女が友達だと定義していた男の前で着替えしようとし、フランクにブラ的なものをはずしたら、男は普段同姓の乳首になど見向きもしないが、この場合彼は性的ブラックホールに吸い込まれ、乳首凝視のスタートを切り、興奮さながら訳も分からず「いいんだね?」的な言葉を吐くこと間違いなしである。

 男女間には常に性的な事柄が挟まる。公衆の面前、同姓の友達同士で尻を触りあっていたら“笑い”として成立するが、それが男と女で触りあっていたとしたら一切笑えないのもその一例である。そして性的なものが介入する以上やはり男女間に友情は成立し得ない。軽々しく仲の良い男を友達と呼ぶ女性の皆さんは、はたしてそいつの前で堂々と乳首を披露出来るのか考えて欲しい。