特撮について書いているうちに、
いつの間にか画像のアップロードが多くなってきた。
ブログを書く度、アップロードを止められたり、画像の整理に追われたりするようにもなってきた。
元々文章に自身がないのと、映像作品は観てみないと記憶に残らないので、画像を頻繁に使ってきたが、非常に労力がいる。これではブログは続かないぞ。
今放映中の特撮を語る方が画像のアップロードも不要なので簡単なのだが。
「仮面ライダーセイバー第1話の感想」とか。
しかし私が呟くには、設定が難し過ぎる。公式ホームページを見れば済むことだが、それも時間がかかる。
これくらい、ザックリとまとめてあればわかりやすいかな(幼稚園10月号)
いよいよ知能も幼稚園児並みになったか。
たまには、文章中心で呟いてみよう。
以前ブログでも取り上げた
ファンタスティックコレクションNo.13
世紀の大怪獣ガメラ
大映特撮映像の世界(昭和54年)
今回は大映特撮映画の歴史について
文:酒井敏夫(竹内 博)
『昭和17年1月、戦時体制で大映が発足。特撮は東宝への外注だった。
自社で特撮部門を設置するのは戦後であり、21年特殊技術部が設立される。ロケ費用の節約のためスクリーン・プロセスや合成技術、ミニチュア・ワークスが必要とされたためである。』(要約)
へえ戦後だったんだ。
『昭和24年7月には牛原虚彦監督の
「虹男」が作られるが一部に特撮が使われただけで』
「虹男」は特撮じゃないだろ。
虹の正体はメスカリンという薬で見る幻想で、カラー映像で虹がチラチラ動いてるシーンの後で役者さんが「あっ虹男が虹を吐いている、あー!」とか言っているだけだ。特撮なんか出てこない。
カラー映像が特撮なら「カルメン故郷に帰る」も特撮映画か。
もっともこの本が書かれた当時はフィルムが見つかってなかったはずで、90年代に虹のシーンがない白黒フィルムが見つかり、散逸したカラー映像を復元した上でレーザーディスクが発売され初めて観られるようになったと思う。
『全面的に特撮を使った作品は昭和24年9月封切、京都撮影所の「透明人間現わる」が大映としては初めての作品だが、この特撮は当時フリーの円谷英二だった。
この特撮の結果により円谷は大映に入社する筈だったが、技術的に思わしくなく、恥ずかしいとして入社を断念したエピソードがある』
断念して良かったね(笑)
大映にいたら「ゴジラ」は生まれなかったよね。
(画像上げてみた)
円谷さんが言うほど酷くはないと思うが、透明人間の発明者H.G.ウェルズの世界(青空文庫にあるよ)以上のものではなく、さほど話題にもならなかったのだろう。続けて特撮映画が撮影された訳じゃないし。現代劇だけど京都制作なのね。知らなかった。
円谷さんは東宝でも「透明人間」を撮っている。元透明特攻隊員という設定が斬新であるが、結果は悲劇でしかない。こういう話は苦手だ。
この後は大映の特撮シーンの説明が続く。元々大映の特撮は東宝とは違い、ドラマを補完するもの、特撮が特撮と分からない映像に力を入れていた。
以下タイトルのみ
昭和26年「馬喰一代」ラストカットの合成
昭和27年「死の街を脱れて」満鉄のミニチュア
昭和27年「大暴れ孫悟空」京都制作。これはソフト化されてるね。
昭和29年「真白き富士の嶺」築地米三郎の特撮技師デビュー
築地米三郎さんで思い出したが、昭和32年の大映映画で「夜の蝶」という映画がある。ストーリーはwikipediaで観ていただければ載っているが、要は夜の銀座の覇権を巡って、お水役の京マチ子さんと山本富士子さんが争うものである。
クレジットに「特撮 築地米三郎」とあるので、何で特撮が必要なんだ、と思って観ていたら、
ラストシーンで京マチ子さんとパトロンが乗る車を、パトロンを取られた山本富士子さんが泥酔状態で車を運転して追跡、京マチ子さんの車を止めようとしたが失敗、お互いの車はぶつかったまま橋から落ち炎上。
特撮だ。
大映の特撮はこういった使われ方が多い。夜間走行なのでリアリティーも出しやすい。よく出来ている。
次は昭和30年代に入るが、疲れてきたのでこの辺にしておく。