6/18・19と相馬を訪問した。
昨年7月以来の2度目の相馬。
今回は羽黒の大聖坊星野さんからお声掛け頂き、慰霊祭を行うとのことでの訪問となった。
羽黒の大聖坊はこの相馬地域を檀那場(配札・祈祷を行う区域)として現在も活動されている。
昨年7月に地元相馬の行者さんから相馬に陣貝というものが伝わっているから勉強しにこないか?とお誘い頂き、縁のままにお願いし、相馬の各所を案内していただいた。
今回は、お世話になった相馬の行者さん、皆さんに会いに行くため、というだけだった。
また相馬の皆さんとともに祈りたい、ただそれだけだった。
お見舞いなどという言葉は全く今回の場合は合わないと思った。
地震が少し落ち着いた今もなお、見えない苦しみに覆われている。
掛ける言葉も見つからない。
私には特別なことも出来ない。
私ができることは、ただひたすらに話を伺うこと。悲しいことを一緒に悲しむこと。そして前進するための祈りを行うこと。
それだけだと思った。
私たち山伏に出来ることは何か?祈ることではないでしょうか?という星野先達の言葉に今回は全てお任せし、相馬へと向かった。
18日の長くなった日も夕暮れの闇に包まれる19時から慰霊の行事は行われた。
相馬市の長友グラウンドには約500人近い人々が集まって、亡くなられた家族親戚友人、また家族と同じように生活とともにあった馬の供養など思い思いの祈りがささげられた。
行事の中では後ろを振り向くことが出来なかったが、集まられた方々に後押しされるように般若心経を上げることができたと思う。
月の出ない夜だったが空には満点の星。空には北斗七星が輝いていた。
そういえばグラウンドのすぐ近くの相馬中村神社は相馬の殿様が代々信仰してきた妙見様を祀っている。
妙見様は北斗七星を神格化したものと言われる。
人間の思いは何とか神様にも届いただろうか・・・。
新聞各社にも掲載あったのでリンク貼っておきます。
毎日新聞「東日本大震災:癒えぬ悲しみ復興への誓い…100日目」
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110619k0000m040076000c.html
河北新報「羽黒山伏が犠牲者悼む 相馬で「大採燈祭」」
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/06/20110620t65013.htm
福島民報「羽黒山伏衆が鎮魂の祈り」
http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&blockId=9857462&newsMode=article
羽黒山と相馬地方は距離こそ離れてはいるが、羽黒修験にとって非常に縁の深い場所である。
「羽黒山中興覚書」に、
17世紀の初頭、慶長・元和のころ、羽黒山の別当であった宥源は学頭の尊量との政権争いに破れ、弟子の宥俊と伴に離山し、仙台の松山という場所で牢人となったという。
その後東北地方を転々としたようであるが、中興覚書にはないが、伝承の中で相馬の地の日光院に3年間仮住まいをして、その際二度と羽黒の地を踏めないと思ったであろう宥源によって日光院に羽黒山の秘法の全てを伝えたという話が残っている。
その頃、宥源、宥俊の怨念(生霊?)が毎晩夢枕に立ち、悩まされた最上義光公はついに病気になってしまった。そして再び羽黒山に呼び戻された両僧の祈祷により最上公の病気は平癒し赦免された。
その後、離山へと追いやった尊量を元和元年に山伏の刑法によって処刑する旨が宥源から出されたが、それを悟った尊量は自ら切腹を択んだという。
ちなみにこの場合の山伏の刑法とは、たらの木の簀巻きの上、石こ積みという残酷なもので、宥源は山麓、庄内中の修験に各自たらの木1本、石一つを持って集まるように御触れを出していた。
そのような羽黒山との関係が相馬にあったという経緯もあり、江戸期に相馬日光院は地方の修験ではあっても秋の峰の重要な役である五先達の一つ、駈の先達を任されていたのである。
昨年、日光院(現 日光寺)にお邪魔した際、ご住職からいろいろと話を伺ったが、羽黒での日光院は「飛び日光」と言われていたとのことで代々言い伝えられているとのことだった。
まさに、山案内の先達である駈先達に相応しい名前で、山野を跳ぶようにして歩く修験者である様子が目に浮かぶようである。
昨年7月以来の2度目の相馬。
今回は羽黒の大聖坊星野さんからお声掛け頂き、慰霊祭を行うとのことでの訪問となった。
羽黒の大聖坊はこの相馬地域を檀那場(配札・祈祷を行う区域)として現在も活動されている。
昨年7月に地元相馬の行者さんから相馬に陣貝というものが伝わっているから勉強しにこないか?とお誘い頂き、縁のままにお願いし、相馬の各所を案内していただいた。
今回は、お世話になった相馬の行者さん、皆さんに会いに行くため、というだけだった。
また相馬の皆さんとともに祈りたい、ただそれだけだった。
お見舞いなどという言葉は全く今回の場合は合わないと思った。
地震が少し落ち着いた今もなお、見えない苦しみに覆われている。
掛ける言葉も見つからない。
私には特別なことも出来ない。
私ができることは、ただひたすらに話を伺うこと。悲しいことを一緒に悲しむこと。そして前進するための祈りを行うこと。
それだけだと思った。
私たち山伏に出来ることは何か?祈ることではないでしょうか?という星野先達の言葉に今回は全てお任せし、相馬へと向かった。
18日の長くなった日も夕暮れの闇に包まれる19時から慰霊の行事は行われた。
相馬市の長友グラウンドには約500人近い人々が集まって、亡くなられた家族親戚友人、また家族と同じように生活とともにあった馬の供養など思い思いの祈りがささげられた。
行事の中では後ろを振り向くことが出来なかったが、集まられた方々に後押しされるように般若心経を上げることができたと思う。
月の出ない夜だったが空には満点の星。空には北斗七星が輝いていた。
そういえばグラウンドのすぐ近くの相馬中村神社は相馬の殿様が代々信仰してきた妙見様を祀っている。
妙見様は北斗七星を神格化したものと言われる。
人間の思いは何とか神様にも届いただろうか・・・。
新聞各社にも掲載あったのでリンク貼っておきます。
毎日新聞「東日本大震災:癒えぬ悲しみ復興への誓い…100日目」
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110619k0000m040076000c.html
河北新報「羽黒山伏が犠牲者悼む 相馬で「大採燈祭」」
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/06/20110620t65013.htm
福島民報「羽黒山伏衆が鎮魂の祈り」
http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&blockId=9857462&newsMode=article
羽黒山と相馬地方は距離こそ離れてはいるが、羽黒修験にとって非常に縁の深い場所である。
「羽黒山中興覚書」に、
17世紀の初頭、慶長・元和のころ、羽黒山の別当であった宥源は学頭の尊量との政権争いに破れ、弟子の宥俊と伴に離山し、仙台の松山という場所で牢人となったという。
その後東北地方を転々としたようであるが、中興覚書にはないが、伝承の中で相馬の地の日光院に3年間仮住まいをして、その際二度と羽黒の地を踏めないと思ったであろう宥源によって日光院に羽黒山の秘法の全てを伝えたという話が残っている。
その頃、宥源、宥俊の怨念(生霊?)が毎晩夢枕に立ち、悩まされた最上義光公はついに病気になってしまった。そして再び羽黒山に呼び戻された両僧の祈祷により最上公の病気は平癒し赦免された。
その後、離山へと追いやった尊量を元和元年に山伏の刑法によって処刑する旨が宥源から出されたが、それを悟った尊量は自ら切腹を択んだという。
ちなみにこの場合の山伏の刑法とは、たらの木の簀巻きの上、石こ積みという残酷なもので、宥源は山麓、庄内中の修験に各自たらの木1本、石一つを持って集まるように御触れを出していた。
そのような羽黒山との関係が相馬にあったという経緯もあり、江戸期に相馬日光院は地方の修験ではあっても秋の峰の重要な役である五先達の一つ、駈の先達を任されていたのである。
昨年、日光院(現 日光寺)にお邪魔した際、ご住職からいろいろと話を伺ったが、羽黒での日光院は「飛び日光」と言われていたとのことで代々言い伝えられているとのことだった。
まさに、山案内の先達である駈先達に相応しい名前で、山野を跳ぶようにして歩く修験者である様子が目に浮かぶようである。
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